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春宵の巻 第四章

  一

 加乃が燐の部屋に呼ばれて向かうと、そこには朔が既に座していた。彼の側を通り過ぎて奥に進むのも躊躇われて、立ち尽くしたまま彼の桜色の後頭部を眺める。実のところ、加乃は朔についてさほど正確に知っているわけではない。あやかしの血を引いていること、燐の息子であること、白虎の変化(へんげ)した姿である白猫を常に傍らに置いているということ、加乃の知識はそれくらいだ。
「加乃ちゃん?」
 加乃の背後に立った燐が訝しげな声をあげ、彼女ははっと振り向いた。燐は穏やかな表情で加乃を見おろしている。
「適当に座ってくれるかい?」
「は……はい」
 加乃は頷き、朔の向かいに座した。燐はふたりの中間、部屋の一番奥に座る。
「ふたりとも、夜分遅くに済まないね」
「いえ」
 朔は黙って微笑する。燐はその笑みに促されるように言葉を続けた。
「ふたりを呼んだのはほかでもない……加乃ちゃん、君を橘家の一員として正式に迎え入れたい」
「わたしを……?」
 加乃はつぶやいた。驚きと、喜びと。それとなく相談は受けていたものの、やはりこうして改まって告げられると、加乃は自然と居住まいを正してしまう。
「橘家の名代は君が継ぐことになる。とはいえ君は女の子だから、あまり気にしなくとも良いけれどね」
「え?!」
 加乃は思わず朔を見つめた。視線の先で朔は首を横に振る。燐は少し辛そうな声をしていた。
「朔は僕の息子……それは間違いないことだ。でも、彼に橘家は継げない」
「僕自身、それは望むところではないんです」
 朔は目を細めた。
「加乃さんには申し訳ないのですけれど……」
「…………」
 加乃は父子の顔を交互に眺め、やがてこくりと頷いた。
「わかりました」
「加乃ちゃん」
「私の父は幼い頃に亡くなりました。私は父を知りません」
 視界がぼやける。それでも、燐が優しい眼差しで自分を見守ってくれていることはわかった。朔の穏やかな微笑みも、ちゃんとわかる。
「だから……呼んでもいいですか」
 加乃は、笑う。
「『お父さん』──って」
「……もちろんだよ」
 頭を撫でてくれる大きな手。暖かい。
「じゃあ、僕は姉さんって呼びましょうか」
 加乃は顔を赤らめた。
「い、いや、それは」
「じゃあこれからも加乃さん、で」
 朔の言葉に、加乃はこくりとうなずいた。
「……ああ、それから」
 燐は表情を少し引き締めた。
「癸くんのことは、これからも兄だと思って……彼も君のことを気にかけているし、君もたぶん彼には心を許していると思うから」
「……はい」
 加乃は頷く。銀色の髪をした彼女の「兄」。彼の面影は母の記憶と結びついている。彼もまた、加乃のかけがえのない家族だ。
「これからもよろしくね、加乃ちゃん」
「私こそ、よろしくお願いします……!」
 ──母さん、私は大丈夫。しあわせだからね。加乃は目頭が熱くなるのを抑えることができなかった。

  二

 朔と加乃を寝かせた後、燐は中庭に降りた。涼しい春の宵。燐は満開の梅を見渡し小さくため息をついた。この庭の世話はほとんど透流がしてくれている。もしかしたら日向も手伝い始めるかもしれない。例のさくらの件以降、橘家に使えていた家人は皆去っていってしまったから、こうして家のことを仕切ってくれる者がいるのはとてもありがたく、そして彼らにはどこか申し訳ない心地がしていた。
 何はともあれ――加乃の件はこれでひとつ荷が降りた。蓮のことは気になるけれど、こちらからはまだ動けない。向こう側が再び何か歌でも寄越したならば、そのときは本気で考えなければならないだろう。そもそも彼の父である摂政、藤原時雅は息子の恋を知っているのだろうか……。
「あれ、先生?」
 その声に、燐ははっと振り向いた。背後に小柄な人影が佇んでいる。日向だ。
「日向君、寝ていなかったのかい?」
「何となく寝付けなくて」
 笑うその表情は、まるでおなごのようだった。その無防備な横顔を見つめながら、燐は口を開く。
「君は――変わっているね」
「え?」
 大きな黒目がちの瞳が燐を見返す。そこにうつる自分の顔は、いつになく強張っていた。
「君も知っているんだろう? かつて、僕があやかしを妻としていたこと」
「……はい」
 日向は静かに頷いた。笑みの消えた、真剣な表情。その口元は固く引き結ばれている。燐はそれを見下ろしながら、どこか落ち着かない気分を感じていた。
「それなのに、何故僕のところに弟子に来たんだい。別に僕でなくたって良かっただろう。都には他にもっと有能な博士がいる」
「そんなことはありません」
「あるよ。……何なら僕が紹介状を書いてあげたっていい。今からでも遅くない、そちらに弟子入りして――」
「せんせい」
 静かな声。さほど大きな声ではなかったのに、燐ははっと言葉を切った。日向の強い視線が、燐をとらえている。
「昔、おれの父はここに仕えていたと聞きました」
「……え?」
 燐はぽかんと口を開けた。
「ゆえあって名は明かせませんが……本当です」
「…………」
「おれは何度か先生と、奥さまの話を聞きました。父はさほど近くにお仕えしていたわけではなかったそうですけれど、家人の間で聞きかじった話などをおれに教えてくれて」
「そう……」
 燐はぎゅっと拳を握る。――もしかしたら、日向の父はさくらを見殺しにした家人たちのうちのひとりなのかもしれない。日向には罪はない。そのことは何よりもよくわかっているのに、燐の頭には血が上っていく。
 だが、日向の口調はあくまで静かだった。
「父は……よくわからない、と言っていました。あやかしは恐ろしい化け物だと思っていた。けれど、奥方さまはあまりにもお優しく、お美しいと。当時、橘家に仕えているというだけで後ろ指を指されたそうです。辞めていくものも多かったと聞きました。けれど、父はそれができなかった。父は……先生と奥方さまを、好きだったから」
「……ひな、た」
 燐は言葉を失う。
「あの日、奥方さまを守ろうとした家人たちが何人かいたけれど、それをとどめたのは奥方さまだったと……」
「さくらが……?」
「『もう、私の為に誰も傷ついて欲しくない』――父は奥方さまの言葉をはっきりと覚えていました」
 ――何故、日向が泣いているのだろう。燐はぼんやりとした頭の中でそう思った。
 燐が屋敷に帰った時、家人たちは縛り上げられていた。どうせ何の抵抗もなく屋敷に通したのだろうと――妻を守る気などなかったのだろうと思いこんでいた。しかし、自分はこの耳でしかとそう聞いたのだっただろうか。家人たちの口から、そう聞いた覚えなど……ない……。
「父はその言葉を聴いた瞬間、何故か気を失って……気が付いた時には縛り上げられ、奥方さまは命を落とされていた」
「……嘘だ」
 燐はつぶやく。
「嘘だ。そんなこと、嘘だ! ……父親を庇いたいのかい。そうまでして、僕を利用したいのかい?!」
 燐の手が日向の襟首をつかむ。――こんなことがしたいんじゃない。それなのに、止まらない。
「誰も守ってくれなかった。さくらは、たったひとりで、……死んでいった。殺された!!」
「…………」
「『誰も傷ついて欲しくない』?! 僕がどれだけ傷ついたと思っているんだ……子供も妻もいっぺんに喪って……何もかも喪って!! 僕が、どれほど……!!」
「せんせい」
「嘘だ、そんなの……嘘だ……」
 燐の手が、ずるりと落ちる。日向はそんな彼を悲しげな瞳で見つめていた。
「せんせい、泣かないで」
「うるさいよ……」
「泣かないで下さい」
 濡れた頬に触れる、小さな手。
 ――泣いてはだめよ、燐。泣かないで。さくらは、僕の前で泣いて見せたことなどなかった。いつだって優しく、かなしく微笑んで……。彼女は泣かなかったのか。それとも、泣けなかったのか。思いを巡らせ、血の気が引いた。――僕の前では、思う存分泣くことすらできなかったのか……。
 彼を包むやわらかな温度。それが、彼の高ぶったこころをやさしく鎮めてくれた。そして、燐はふと気付く――彼に触れているものの、その正体に。
「せ、先生?」
 日向の華奢な肩に手を置き、燐は顔を伏せた。
「……怒鳴ったりして、ごめん」
「い、いえ、おれが変なこと言ったから……ごめんなさい」
 黙って俯いている燐に、日向は必死で呼び掛ける。
「おれ、ここにいたいんです。昴さんも加乃ちゃんも、朔くんもおれみんな好きだから。あのでかいのはいけ好かないけど、まあいいです。紫苑さんも桔梗ちゃんも好きだし、ええとそれから……」
「肝心なひとが抜けていないかい?」
 燐は顔を上げた。涙の筋を両頬につけたまま、至近距離で微笑んでみせる。日向の顔が闇の中でもわかるほど朱に染まった。
「え……?」
「僕のことは?」
「は、はい?!」
「僕のことは、好きかい?」
「あ……は、はい」
 日向は真っ赤になって俯いた。燐は表情を緩ませる。
「じゃあ、そろそろ休んだ方がいいよ。『日向ちゃん』」
「へっ?」
 燐はくすりと笑って日向の肩から手を離した。
「また明日ね」
「ちょっ、先生?!」
 日向の悲鳴のような声を聞きながら、燐は踵を返す。
「まいったなあ……」
 足早に歩きながら、燐は深くため息をついた。すがりつくように抱きしめたとき、気付いてしまったのだ。
「あれ、おんなだよね……?」
 ――何が変わってるって、あの格好ですよ。あの桔梗の言葉は、そういう意味だったのか。
「まいったなあ……」
 燐は額に手をあて、ひとりごちる。赤く上気した日向の顔。何故か、脳裏から離れなかった。
 
 
  三
  
 庭で鶯が鳴いている。慣れぬ様子のその旋律に気をとられそうになるのをこらえ、伴雅はじっと父に相対していた。
「どう思う」
 蓮のことである。どうやら恋をしたらしい、ということは父よりも伴雅の方が先に知っていた。相手は橘家にいた少女。調べたところによると身寄りのない孤児で、橘燐が養女としたらしい。
「橘家であらば、家柄としては申し分ないかと」
「……ふむ」
 時雅は目を眇めて考えている様子だ。伴雅は言葉を重ねた。
「蓮を皇族と娶わせることは難しゅうございます」
「そうか?」
「先帝はお子が少のうございました。蓮と年近い親王様はいらっしゃいません」
「……うむ」
「かといって他にふさわしい相手がいるとも言えませぬ。それに」
 伴雅はごくりと喉を鳴らした。
「橘家と繋がりを持てば陰陽博士が味方になりまする……」
 長子、藤原雅哉を喪ったとはいえ、藤原家の隆盛は都びとの誰もが疑わぬところであり、他の貴族たちの恨みをかいやすい立場だ。恨まれるだけならまだ良い。だがそれが呪いを引き寄せると――後々面倒なことになる。
「なるほど。御門どのに我らを守っていただこうということか」
 時雅はつぶやき、何度か頷いた。伴雅もまた頷き返しながら、胸中にほっとため息を漏らす。――蓮をしあわせにしてやりたい。雅哉の代わりはつとまらなくとも、せめて自分のできる限りでの尽力はしてやらなければならぬ。それは、伴雅が雅哉の墓前に立てた誓いであった。
「わかった。今少し考える」
 時雅は立ち上がり――伴雅を見下ろして一言、告げた。
「紫の目にたぶらかされてはならぬぞ、伴雅」
「……は」
 じっと見つめる父の目。その冷ややかさに伴雅は背筋を凍らせた。――紫の目。それはとりもなおさず、御門紫苑を指している。
「私は……」
 父の消えた部屋の中、伴雅のつぶやきだけが響いた。
「私は……」