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春宵の巻 第五章

  一
  
 庶民たちで賑わう市場を抜け、加乃と透流は橘邸に向かって歩いていた。徒歩ではそこそこの距離があるが、山に囲まれた邑で育った彼らにとってはさほど苦にはならない。
「荷物、私も持ちますよ?」
 見上げる加乃に、透流は首を横に振った。
「これくらいたいしたことないよ」
「そうですか……?」
 加乃は手持ち無沙汰に両腕をぶらぶらと揺らす。そんな彼女を透流が優しい眼差しで見守っていた。橘家の養女になったとはいえ、加乃の生活は今までと何も変わらない。透流とともに料理をし、日向に手伝ってもらいながら掃除をし……空き時間には文字を読む勉強をする。最近では仮名交じりの文章もだいぶすらすらと読めるようになった。藤原蓮からもらった文も、読むことくらいはできる。だがその本当に意味するところまでは汲みかねるし、返歌など到底不可能だ。燐は言う――「教えてあげることは簡単だけれど、それは彼の想いそのままではなくなってしまう。加乃ちゃん自身で考えて、読み取らなければだめだよ」と。
 蓮のことは良く覚えている。最愛の長兄を亡くして悲しみに沈んでいる姿は、かつて母を喪った頃自分と重なって、他人事とは思えなかった。あのとき自分が立ち直ることができたのは、癸をはじめとして昴や透流、燐や紫苑ら――たくさんのひとが自分を支えてくれたからだ。だから、今度は自分が支える番になりたい。そう思った。体力の衰弱していた彼の為に、重湯から少しずつふつうの食事に戻していく。彼の顔が徐々に血色を取り戻していくのが嬉しかった。会話そのものはそれほど交わしたわけではないけれど、彼が自分の屋敷に帰るという日、少しだけ寂しく感じたっけ……。
 ふたりが大路に出てしばらく歩いていると、背後からからからという音が近付いてきた。牛車だろうと推測して振り向くこともしなかったのだが、やがて車は彼らを通り過ぎたところでぴたりと止まった。
「加乃さん!」
 簾が少しだけ巻き上げられ、その奥からひと懐こい笑みを浮かべた少年が顔を出す。加乃は驚いて立ち止まった。
「蓮……さま?」
「蓮、で構いませんよ」
 透流もまた加乃の側で立ち止まり、ふたりをきょときょとと見比べている。
「おふたりとも、お屋敷に戻られる途中ですか? お送りしますから、乗っていきませんか」
 四人ほど乗ることのできる牛車は、今蓮以外誰も乗っていないようである。どうしようかと迷うように透流を見上げる加乃に、彼はくすりと笑った。――透流もまた、昴に聞いて知っている。どうやらこの若き貴族は、加乃を憎からず想っているようだということを。
「おれは歩いて帰りますよ。加乃ちゃんは乗せてもらいなさい」
「え、でも」
「ご一緒に乗られないのですか?」
 慌てた様子で透流に声を掛ける蓮は、頬をうっすらと紅潮させていた。どうやらふたりきりになるのは照れるらしいが……ここでふたりに混じって帰るような真似をすれば昴に詰られるのは目に見えている。それだけはごめんだった。
「加乃ちゃん、この間足首を挫いていたじゃないか。送ってもらったほうが良いよ」
「……それ、だいぶ前ですよ」
「まあまあ。それじゃ、おれは先に帰るから」
 透流はよいしょとひとつ掛け声を掛けると、荷物を腕に抱えたままずいずいと歩みを進めた。今までは加乃にあわせて歩幅も抑えていたのだが、もうその必要もない。戸惑う加乃を残し、透流の背中はあっという間に小さくなってしまった。
「…………」
 困って牛車の奥を見つめる加乃に、蓮は苦笑を浮かべた。
「とりあえず、お乗り下さい」
「……はい」
 ふたりを乗せた牛車は、再びがらごろと動き始めた。ゆっくりと進む車の中で、蓮は加乃に問い掛ける。
「少し、寄り道をしても構いませんか」
「え……?」
 加乃は驚いて蓮を見上げる。彼は少し戸惑うように目を瞬かせた。――それもそのはずだ。加乃のような年頃の貴族の子女は、決してひと前に顔を晒さない。簾の奥から声だけを投げかけるか、扇を顔の前に広げてぴくりともずらさないようにしているか。だが、加乃は真っ直ぐな眼差しで蓮を見つめる。この視線が、蓮は好きだった。嘘や偽りのかけらもない、素直な感情。心の奥底まで照らし出すような、澄んだ光。
「少しだけです。駄目ですか?」
「……じゃあ、少しだけ」
 加乃はふわりと微笑んだ。蓮は顔を赤らめる。
「加乃さんは、面白い方ですね」
「そうですか?」
「ええ。……僕は貴方のような女のひとを知りません」
「…………」
 加乃は自分の身の回りの女性を脳裏に浮かべた。昴――透流を振り回していながら、実のところは彼の手の内に大切に慈しまれている、たいそう困りものの姫君。日向――何故か男の格好をしている少女。女たちはすぐに気付いたのに、男どもはなかなか気付かないようだった。面白い。桔梗――半妖の夫に甘えて甘えさせて、とにかく彼がいればそれだけで満足だというような、最強のあやかし。
「私、ふつうだと思います」
「そうですか?」
 加乃の思考を知る由もない蓮は、そう言って笑った。
「でも、自然でいいです」
「蓮、さん」
 加乃はぽつり、と彼の名を呼んだ。
「お元気そうで……良かった」
「…………」
 蓮が答えを見つけられぬうちに、牛車は止まった。彼は先にひらりと降り立ち、加乃に手を差し伸べる。加乃は少しだけ戸惑ったが、やがてその手をとった。牛車を出た彼女を、やや強い風が包む――とっさに目を閉じ、やがておそるおそる瞼を開いた。
「――わあ!」
 思わず唇から洩れ出た歓声に、側の蓮が微笑んだ。
「ここは、都で一番最初に桜が咲く場所なのですよ」
 ここはどこかの寺社の境内だろうか。加乃はぐるりと辺りを見渡した。砂利の上にふわりふわりと舞う薄紅色のかけらたち。同じ色をした霞がぐるりを取り囲んでいる。
「きれい……」
「そうでしょう? ここは兄のお気に入りの場所だったのです」
「…………」
 加乃は笑みを消し、心配げに蓮を見上げる――彼は、穏やかに微笑んでいた。
「だいじょうぶ。僕はもう、乗り超えましたから」
「蓮さん……」
「貴方のおかげです」
 蓮はまだ加乃の手をとらえたまま離していない。加乃はしかし、振りほどけなかった。
「梅が開き――桜も咲きました。貴方の心は……どうですか」
「…………」
 加乃は黙って蓮を見つめ続ける。視線を逸らすことができなかった。
「歌は、読んで下さったのでしょう?」
「あ、あの……」
 加乃は強張る舌を無理に動かし、必死に口を開いた。
「私、まだ勉強している途中なんです。自分で歌なんて、まだまだ詠めなくて……だから……」
 蓮は目を丸くして加乃を見返す。
「だから、もう少し待っていて下さい。必ず、必ず……お返事しますから!」
「……加乃さん……」
「ちゃんと、考えます。だから、……待っていて下さい」
「…………」
 蓮は少しの間口を噤み、やがて小さく吐息をついた。
「それでは――お待ちしています」
 加乃のもう片方の手をもとらえ、蓮は彼女の両手をやわやわと握った。
「花が開いて、葉が茂って、実をつけるまで……ずっと、待っていますよ」
「そ、そんなにお待たせはしません」
「いいんです、ゆっくりで」
 蓮は顔を傾け、花を見上げた。
「でも――良かったら、またこうして会ってくださいませんか。貴方は都のご出身ではないと聞きました。いろんなところに連れて行ってあげたい」
「貴方が……私を?」
「ええ」
 こくりと頷く蓮に加乃もまた、ゆっくりと頷き返す。――これは、恋なのだろうか。加乃には良くわからない。だが、またこのひとと会えるということ、どこかへ連れて行ってくれるということ。そのことはとても楽しみだった。
 
「待っていますよ」
 橘の屋敷の前で牛車を止め、蓮はもう一度加乃にそう告げた。牛車の中の蓮を見上げて加乃は頷く。彼女の瞼の裏では、まだあの桜がはらはらと舞い散っていた。
 
 
  二
  
 ――実は、日向は女だったらしい。燐に聞かされた紫苑は、唖然と目の前の顔を見返した。
「知らなかった……」
「僕もだよ。しばらく同じ屋敷で過ごしていたっていうのにねえ」
 燐は軽く頭をかく。ふたりの前には酒で満たされた盃。
「ほんとう、びっくりした」
「桔梗は気付いていたか?」
 紫苑は傍らの桔梗に向かって問い掛ける。彼女の前には甘酒が置かれた。紫苑らの飲む酒は彼女には強すぎるのだという。だが彼女の頬は既に誰よりも赤く染まっていた。
「知っていましたよう」
「やっぱり?! どうして言ってくれなかったのさ」
 燐が声を上げる。
「うーん、知られたくないのかなって思って……それに」
 桔梗はゆらゆらと体を左右に揺らしながら、燐をとろんとした瞳で見つめた。
「朔くんに、それとなく止められちゃいましたし……」
「朔に……?」
 燐は首をひねる。
「でも、どうして朔が……」
「まあ、おなごでも良いではないか」
「皆そういうけどね……ああ見えても結構いい年をした女の子なんだよ? このままっていうわけには……」
「駄目なんですか?」
 桔梗は首を傾げる。燐は言葉に詰まった。
「ん……まあ……」
「そういえば」
 紫苑がぽつりと呟いた。
「宮中でこんな噂を聞いた。……燐、霧雨(きりさめ)を覚えているか」
 燐はすぐにうなずく。
「覚えているよ。あの才女だろう?」
「ああ」
 知らない桔梗のためか、紫苑は簡単に霧雨という女について話した。――身分の高い家柄でありながら親らの勧める縁談をことごとく断り、結局下人同様の身分の男と結婚した一風変わった女だ。漢文にも仮名文字にも通じ、並みの男よりはよほど学に優れていたという。才知に長けた彼女は、外見を取り繕う貴族たちには飽いていたのだろうか。
「まあ結局夫となった男はどこかの屋敷に仕える家人だということくらいしかわからなかったのだが……。皆、すぐに興味をなくしたしな」
 紫苑の言葉に、燐がぴくりと反応した。日向の言葉を思い出す――昔、おれの父はここに仕えていました。
「どうやら霧雨は最近没したらしい。娘がひとりいたはずなのだが、行方が知れぬのだそうで――霧雨の親族が探しているそうだ」
 男の装束。帰る家を持たない。学問への欲求。――燐ははっと顔を上げた。酔いもすべて覚めたような心地がする。
「……それ、もしかして」
「ああ」
 紫苑はうなずいた。
「日向は霧雨の娘なのかもしれないな――」
「…………」
 燐は目を伏せ、盃を煽った。日向と過ごしたわずかな日々。その中で、彼女は笑い、怒り、泣き、驚き――生き生きとして、いつだって輝いている。
「仕方ないなあ」
 霧雨の親族たちは皆、それなりに高い身分である。彼らに見つかれば、日向はきっと「ふつうの女」としての道を歩まされるだろう。もしそれを断れば――何かと苦労をした母の二の舞になる。
「しばらくはうちに置いてあげることにするよ。いろいろと器用だから便利だしね」
「……そうか」
 紫苑はくすりと笑った。――日ごろ温厚でひと当たりの良い燐が、日向に関しては結構な毒舌を吐く。きっと、彼女は燐にとって気兼ねなく接することのできる相手なのだろう。それはとても良いことだ。
 ――ひらり。紫苑の手にした盃の中に、ひとひらの薄紅。
「ああ」
 燐は小さく声を上げた。桔梗も顔を上げ、息を呑む。月明かりに照らされた庭、ふわりふわりと舞う薄桃色の雪。
「……咲いたな」
 紫苑の声が闇に溶け、そして春の宵は静かに更けていく――やがて訪れる、運命の刻に向かって。