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春宵の巻 第二章

  一
  
 橘邸が混乱の坩堝(るつぼ)に陥るよりも少し前のこと。御門邸の裏庭でにはのんびりとした時間が流れていた。
「こんなものでいいかい?」
 癸はかがめていた腰を上げ、側に佇む加乃に尋ねた。加乃の持ってきた籠には、やわらかそうな菜っ葉がうず高く摘まれている。この小さな畑で癸が育てたもので、甘みがあって爽やかな味がすると紫苑も好んで食べている。それを聞いた燐が、加乃にわけてもらってきてくれないかと頼んだのだ。もちろん癸に断る理由はない。
「うん。ありがとう、癸さん」
 加乃はそれを抱え挙げ、にっこりと微笑んだ。
「それ、加乃ちゃんひとりで持って帰るんだろう? 重くない?」
「大丈夫よ」
 加乃は伸びた黒髪をかきあげる。――髪だけではなく、背も少し高くなったようだ。癸は目を細めた。加乃の成長を喜ぶ気持ちと、おぼろげな不安。
「ここでの生活にも、だいぶ慣れたようだね」
 癸は土で汚れた手を濡れ雑巾でぐいと拭き、加乃の頭を撫でた。彼女はくすぐったそうに笑う。それは以前と変わらないしぐさだった。
「うん。燐さんも良くして下さるし――そう」
 加乃はふっと顔を上げた。
「燐さんがね、私を養女にしようかと仰って下さっているの」
「え?」
 癸は撫でる手を止めた。形にならない動揺が湧き上がる。
「癸さんに相談するからって言ったのだけど……どう思う?」
「…………」
 彼を見つめる瞳は、夕焼けの色を映す穏やかな黒。さほど手入れもしていないだろうに、つややかに流れる黒髪。自分とは似ても似つかない色を持つ彼女を見て――自分では決して加乃の兄にはなれないのだと思った。家族の真似事ならできるだろう。けれど、結局のところ自分はあやかしで、加乃はひとだ。いつまでこうして近く過ごせるかもわからない。それならば、燐の娘として――名家である橘家の息女として過ごした方が、きっといいに決まっている。
 加乃は遠慮がちに目を伏せた。
「でも……燐さんには本当のお子さんの、朔さんがいるでしょう? 私は他人でしかないのに……」
「燐さんも良くお考えになった上で、加乃ちゃんに仰っているに違いないよ。だから、そのことはきっと気にしなくていいんだと思う」
 癸は少し腰をかがめ、視線を加乃の高さにあわせる。
「そうだね……たぶん、橘家に入れば宮中にお仕えすることもできるかもしれない。燐さんは博識でいらっしゃるから、お勉強だってできるだろう。そしていつか――いいひとと巡りあえるよ」
 きっと、加乃の未来は明るく拓けていくだろう。そのことを思うととても嬉しく、そしてかなしい。
「いいひと……?」
 目を伏せてしまった彼女の頬は赤い。癸はそんな彼女がいじらしくてならなかった。
「お母さんも、きっと燐さんなら安心なさる。僕はそう思うな」
「……そうかな」
 癸は思う――加乃だけでも、せめてふつうにしあわせになるべきなのだと。彼女の周りにいる者は誰も皆重い宿命を背負わされているか、もしくはその覚悟をしたものばかりだ。加乃は違う。数奇な運命を辿りながらも、彼女はいたってふつうの少女に過ぎない。加乃は本来「封印」や神獣になど、何の関係もない。それなのにいつの間にか邑を追われ、親を失い、故郷から遠く離れた都で生活する羽目になっている。今となっては誰が悪いというわけでもないが、それでもできることなら彼女のしあわせを見届けたい。彼女の兄にはなれないものとして、せめてそれくらいのことは。
「癸さんは」
 ふと、加乃の手が彼の袖をとらえた。
「これからも、ずっと一緒だよね……?」
「…………」
「お母さんは、きっと癸さんのことも心配してると思うから……」
 癸は目を見開き――やがてその水色の瞳を優しく微笑ませた。
「大丈夫だよ。何にも心配することない」
 曖昧な言い方で誤魔化すが、加乃は安堵したようだった。
「……ありがとう」
「癸さん?」
 気づいた時から、少しずつ諦めてきた。加乃を想う気持ちの種類を、少しずつ別のものへとすり替えようと努めてきた。だから、きっと加乃は気付いていないだろう。自分が一時、どれほど加乃に恋焦がれていたか――。
「あ、あとね」
 癸の感傷は不意に破られた。加乃が懐の中から何かを取り出し、癸に見せる。
「今日、ここに来る途中でこんなものをいただいたのだけど、これ何かしら」
「ん?」
 どうやらそれは梅の枝だった。今にも咲きそうなくらい蕾が膨らんでいる。そしてその枝には和紙が結ばれていた。流麗な墨跡が透けて見える。
「……これ、誰にもらったの?」
 癸の表情が険しくなり、加乃は驚いたように少し身を引いた。
「藤原……」
「藤原?」
「蓮さま、と仰ったかしら。……この間うちでしばらくお世話していた方の、お遣いだって」
「…………」
 心臓が激しく脈打ち、それでいて癸の血は冷え切っていた。――もし今、目の前にその蓮という男がいたなら、何も考えずに殴ってしまうかもしれない。
「何か文字が書いてあるようだけど、私はまだあまり読めなくて……」
 加乃は最近透流と一緒に字を習っているらしいが、まだすらすら読むには至らないのだという。教えているのは昴だというから、微笑ましいではないか。
 癸はほっと体から力を抜いた。加乃は加乃だ、何も変わらない。たとえいつか、この距離がずっと遠くなってしまうことがあっても、それが彼女のしあわせなら、構わない……。
「燐さんに見せてごらん。僕よりもお詳しいよ」
「そう、かしら」
「うん。……ああ、ほらもう日が暮れてしまう。早くお帰り」
「そうね、ありがとう!」
 加乃は枝を懐に収め、そして足元の籠を抱え上げた。
「また遊びに来るから!」
 満面の笑みで振り返る彼女。癸は手を振り、それを見送る。――その小さな背中が見えなくなっても、彼はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
 
 
  二
  
 翌日。橘の屋敷を訪れた紫苑を出迎えたのは、見覚えのない少年だった。紫苑は牛車から降り立ったまま、眉をひそめて彼を眺める。
「誰だ?」
 少年はひと懐こい笑みを浮かべ、ぺこりと頭を下げた。
日向(ひなた)といいます。燐先生の弟子です!」
「で、弟子?!」
 目を剥く紫苑に、日向と名乗った少年は興味津々といった様子で近付いた。
「わあ、本当に紫色の目だ!」
「…………」
 体を強張らせる紫苑に構わず、日向はじっと彼の目を覗き込む。
「ねえ、どんな風に見えるんです? やはり全体的に少し紫がかって見えるんですか?」
「は?」
 思いがけない質問に、紫苑は目を瞬かせた。日向は根気強く質問を重ねる。
「空の色とか白い紙、紫色っぽく見えません?」
「見えていない……と思う」
「じゃあ目の色が違っても、見え方って変わらないのかなあ」
 日向はうんうん、と頷く。
「なるほどなるほど」
「『なるほどなるほど』、じゃないよっ」
 茫然と見守る紫苑の目の前に、すごい形相をした燐が駆けて来た。日向の頭を平手で軽く殴りつける。
「痛っ!」
「確かに来客の取次ぎはしろと言ったけれどねえ……お客さまに失礼な態度をとってどうするんだよ」
「し、失礼? 俺、失礼でしたか?!」
「気付いてないの?! まったく……」
「燐」
 紫苑の声に、取っ組み合っていたふたりはぴたりと動きを止めた。
「し、紫苑? 何を笑って――」
 言われてはじめて、紫苑は今自分が笑っていることに気付いた。
「いや。別に私は失礼など受けていないぞ」
 肩が震えるのを抑えられない。
 ――じゃあ目の色が違っても、見え方って変わらないのか。
 面白い、と思った。そういう質問を受けたのは、生まれて初めてのことだ。誰も思いつきもしなかったというわけではないだろう。今までに疑問に思った者もいたのかもしれないが、紫苑に遠慮して尋ねようとしなかったに違いない。いや、遠慮ではなくて恐怖が妨げたのかもしれないが……日向という少年は、それを率直に尋ねた。確かに聞きようによっては失礼ともいえるのだろう。だが、紫苑にとってはかえって気持ちのいい態度だった。
「そう? 君がそう言うのならそれでいいけど……」
 燐は不承不承といった様子で日向から手を離す。
「お前、ここに住んでいるのか」
「はい!」
 小柄な少年は、紫苑を見上げるようにして頷く。
「じゃあ、昴には会ったか」
「会いました! それで、同じことをお尋ねしましたから」
「何と言っていた?」
 期待を込めて尋ねる。日向は即答した。
「『私にとっては生まれた時から世界がこの色をしているの。他のひとの見え方なんてわからないわ』って」
「それもそうだな。だが、私は他人と色の見え方が違って苦労した記憶もないし……」
「あと、髪の色を火に透かして見ようとしたらあのでかいのに羽交い絞めにして止められました。見たかったのに」
「でかいの……ああ、透流か」
 紫苑は苦笑する。その光景が浮かぶようだった。
「好奇心を持つのはいいことだと思うが、度が過ぎて身を滅ぼさないようにな」
「はい! 気をつけます!!」
「……君たち、何を意気投合してるのさ……」
 気が付くと、燐は少し離れた場所でため息をついていた。――昨日宮中で会ったときには「弟子」の話などしていなかったから、日向がやってきたのは昨夜から今日の間ということになる。まだ短い時間のはずだが、燐は疲れ果てたような様子だ。紫苑はそれがおかしくて、また小さく笑った。
 
 
  三
  
 日向を追い払い、燐は屋敷の中へと通した。
「それにしても何だ、あの子供は。本当に弟子なのか」
 尋ねる紫苑に、燐は顔をしかめて答える。
「押しかけ弟子だよ……しかも昴さんの姿を見られちゃってさ。言いふらさないかわりにここに置けって、脅迫までされた」
「言いふらすような子にも見えないが……」
「まあ、僕もそう思うんだけど」
 燐は足を止め、そしてふう、と息をつきながら微笑んだ。
「学問がやりたいという気持ちは本物のようだからね。とりあえず透流くんや加乃ちゃんの勉強を見させるよ」
「そうか」
「うちにうまく馴染めるようなら……置いてあげてもいいと思う。家出してきたんだか何だか知らないけれど、行き場もないようだしね。野垂れ死にでもしたら寝覚めが悪い」
 口汚く聞こえるが、燐の口調には優しさが溢れている。紫苑は彼に見えないように微笑を浮かべた。
 廊下を歩み、燐の私室に入る。紫苑は帳を下ろす燐を見つめた。
「それで、相談というのは」
「ああ、うん」
 燐は文机の上においていたものを取り、紫苑に差し出した。
「これ。蓮くんから加乃ちゃんに届けられたんだけど」
 梅の枝、そして結わえられた文と思しき紙片。紫苑は瞬きを繰り返しながら燐を見返した。
「まさか――恋文?」
「君にしちゃあ鋭いね。加乃ちゃんが見てくれって言うから中身も見たけど……歌だ。まあ、あんまりできは良くないけど、意味はわかる。『貴方に会いたい気持ちがこの蕾のように膨らんで参ります』ってさ」
「……どうするつもりだ」
「僕の一存でどうこうできないよ。まだ加乃ちゃんにも意味は教えてない」
「相手は藤原家だしな……」
「蓮くんはいい子だと思うけれど、僕としては加乃ちゃんのしあわせを第一に考えたいんだ。この家に彼女を置いている以上、僕にとっては娘も同然――いや」
 燐は一度口を切り、はっきりと言い直した。
「本当に養女にしようかと考えているんだよ。橘家の名前が彼女のしあわせに役立つのなら、それもいい」
「…………」
 紫苑は手の中の梅の蕾を見つめた。そして我が家にいる水龍の双子、その弟を思い出す。彼は加乃を大切に思っていたはずだ。それが恋なのかどうなのか、紫苑にはわからなかったのだけれど……。
「癸は、何と言うのだろう」
 独り言のようなつぶやきに、燐は素早く反応した。
「加乃ちゃんは僕より先に癸君に相談したんだって。そうしたら彼は僕に聞けと言ったらしい。養女になることにも賛成だって」
「……そうか」
 紫苑は言葉少なに答える。――何となく、癸の胸のうちがわかるような気がした。癸は、加乃にひととして、ふつうのしあわせを手に入れて欲しいのだろう。そのためには、加乃の一番近くの位置を手放すことも厭わないのだ。
「加乃と話をするのが一番いい」
 紫苑は答えた。
「周りの者が決めることじゃない。あの子自身が考え、決めることだ」
「……そうだね」
 燐はうなずく。
 ――彼の手の中で、梅の蕾はわずかにほころんでいた。