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春宵の巻 第三章

  一

 春雨にけぶる中庭は、見慣れた我が家のものではない。朔は軒先から滴る雨だれをぼうっと眺めていた。しとしとと降りしきる雨。少し、肌寒い。
「朔」
 帳を押し上げ、屋敷の主が姿を見せる。朔は振り仰ぎ、その琥珀色の瞳を微笑ませた。
「紫苑さん……」
「帰ったのか」
 紫苑は机を挟み、朔の向かいに腰をおろした。白絹の衣がさらりと音を立てる。
「ええ、今さっき」
 朔は膝の上で丸くなっている猫の背中を撫でた。あたたかで、ふかふかとした毛並みが指に心地よい。この大人しい猫は神獣、白虎が姿を変じたものである。母の胎内で死した朔の魂を拾い、かりそめの命を与えたもの──。
「橘の屋敷にはまだ顔を出していないのか?」
「たぶん父はまだ帰っていないでしょうから、こちらに先に寄らせてもらいました」
 朔は数日ほど都を離れていた。出雲の国、玄武の巫女が治めていた邑の跡を訪れていたのである。それは神々が世界を渡った場所──神々を「封印」した地でもある。
「昴さんに言付けられたお花、ちゃんと捧げてきました。加乃ちゃんのお母さまのお墓も掃除して」
「そうか……」
 朔の控えめな言葉に、紫苑は複雑な表情をしてうなずいた。邑の最後の巫女、上宮昴。彼女は両親を奪った邑を恨み、その憎しみは邑の滅亡という結果を引き寄せてしまった……決してそれは彼女の願いなどではなかったのに。
「『封印』はあれ以降、特にゆるんでいるわけではないようです。ですから、やはりあの怨霊はあのとき、『封印』から漏れ出てきたものでしょう」
「本人が言っていた通りか」
 紫苑は軽く腕を組んだ。紫苑の叔父だという、あの亡霊──かつて「封印」が解けた瞬間、多重に存在する世界の互いの距離が近づき、死者が蘇ったのだろう。
「霊があれほどはっきりした意識を持っていたのは例外だと思います。やはり、鳳凰族ですからね」
「まあ、現世に残した恨みも相当なものだったろうしな」
 紫苑はふと朔を見つめた。
「それにしても早かったなあ。いくら白虎がいるとはいえ、五日くらいはかかると思っていた」
「ぼくは……生身の人間じゃありませんからね」
 朔は少し寂しげに微笑する。紫苑は虚をつかれたように黙り込んだ。燐の亡き妻、さくらの忘れ形見である朔。しかし、彼は一度死んでいる。そもそも生まれて三年くらいしか経たないはずなのに既にこれほど成長しているのも奇妙なことなのだ。──つい忘れそうになる。朔がふつうの子供であるように思い込んでしまう。むしろ、そう思いたいのかもしれない……。
「そういえば」
 沈みかけた空気を朔は自ら浮上させた。
「父が加乃さんを養女にしようかと考えていたみたいですが……どうなりましたか?」
「お前は賛成なのか?」
「ええ。加乃さんが姉になるなんて、素敵です」
 ──それに、ぼくはいつまでも生きていられるわけじゃないから。朔は口に出さずに思う。いつか彼が再び眠りに着く日がきたなら、また父をひとりにしてしまう。勝手な願いかもしれない。それでも――たとえ実の子でなくとも、加乃が娘として存在してくれたなら、少しでも痛みが和らぐかもしれない……。
「ああ、そうだ」
 朔は紫苑の声にはっと顔を上げる。
「朔は知らないよな」
「何を、です?」
「……これから橘邸に帰るのだろう?」
「え、ええ」
「面白いものに会えるぞ」
 にやりと笑う紫苑に、このひとはこんな表情もできたのだなあと、朔はいささか的外れな感想を抱いていた。

  二

 その日、燐の帰宅は日没のずっと後だった。雨は既に上がっているが、湿度を含んだ闇はややじっとりと重い。牛車から降りた燐は屋敷に一歩踏み入れ――そのまま硬直した。
「あ、燐さんおかえりなさい!」
「父さん、ただいま!!」
「おかえりなさい先生!」
「……ええっと……」
 燐は立ち尽くしたまま目を瞬かせる。目の前には小柄な三人が並んでいた。銀糸の髪をゆるく結わえた桔梗、亡くした妻と良く似た面影で微笑む朔、そして――日向。
「君たち、何してるの?」
 日向がすっと右腕を挙げて挙手の姿勢をとる。
「絵合わせで遊んでいました!」
「日向さん強いんですよ。もう、びっくりしました」
「あははは」
 朔が笑いながら燐に近付く。
「おかえりなさい、父さん」
「あ……うん、ただいま」
 茫然とつぶやいてから、はっと気を取り直す。
「朔! いつ帰ってきたの?!」
「ついさっきです。父さん今日遅いってわかっていたから、先に御門のお屋敷に寄って来ました」
「朔くんについて、私も遊びに来たんです」
「……紫苑は止めなかった?」
「え、どうしてです?」
 心底わからないといった様子で首をかしげる桔梗に、燐は眉をひそめた。――あやかしである桔梗をあっさりと自分の屋敷に寄越すとは……数日前までとは違って、今は日向がいるのだ。その意味がわからぬ紫苑でもないだろうに。
「まあ、いいんだけどね……」
 だが桔梗に向かって説教しても仕方がない。どうやら見たところ日向は桔梗とも打ち解けたようだし――そう考えてから、ふと気付いて日向を見つめる。
「君、今までにあやかしに会ったことがあるの?」
「いいえ、まさか!」
 日向はぶるぶると首を横に振る。
「桔梗さんがはじめてですよ!」
「……そう、だよねえ」
「それがどうかしましたか?」
「いや、驚かないんだなあと思って」
「驚きましたよう」
 日向は意味もなく首を上下左右に振り動かした。
「驚いたから、いろいろ聞いちゃいました」
「……聞かれたの?」
 今度は桔梗に話をふってみる。彼女はいつも通りおっとりと頷いた。
「さすが燐さんに弟子入りを希望するだけのことはありますね。すごい向学心」
「……そういうもんかなあ」
 燐は首をひねるが、やがて空腹に気付いて日向に声を掛けた。
「食事の用意はできている?」
「はい! ……あ、加乃ちゃんたちにお帰りを知らせてきますね」
 ぱたぱたと駆けて行く華奢な背中をぼうっと見送る。……不思議な少年だと思った。弟子入りなどと言い出して居座ったかと思えば、昴や朔など、ふつうでは考えられないような橘邸の住人に溶け込み、あの無愛想な紫苑とも話を弾ませていたし、桔梗とも仲良くなったらしい。
「変わった子だねえ」
「そうですね」
 わかっているのかいないのか、桔梗は鷹揚にうなずいた。
「何が変わってるって、あの格好ですよ」
「え? 格好?」
 振り返る燐に、桔梗は目を瞬かせた。
「あれ、燐さん気付いていないんですか?」
「何のこと? あの子の着物、変かな? 昔の僕のを貸してあげたんだけど……」
「ええと、そういうことじゃなくて……」
 桔梗はおろおろとした後、朔をちらりと見遣る。朔は済ました顔で笑っていた。
「まあ、いいじゃないですか」
 曖昧にとりなされ、桔梗はこくりと頷く。
「じゃあ、私そろそろ帰りますね」
「うん。紫苑によろしく」
「……はい!」
 紫苑の名前が出た途端、桔梗の表情がぱあっと明るくなる。紅潮した頬。綻ぶ唇。――眩しい、と思った。
「父さん、そろそろご飯の準備ができると思いますよ」
「……うん、行こうか」
 燐の手を引いて先を行く朔を見つめ、彼は小さくため息をついた。息子の頭を覆う桜色の髪。それは彼の愛したひとと同じ色――。
 燐に再婚の薦めがなかったわけではない。ただ、彼にはどうしてもその気になれなかった。それは亡き妻を裏切りたくなかったから……そして、おめおめとひとりだけ生き残った自分にしあわせを与えるなど許されないと思ったから。妻を殺したのは自分。その罪の意識は死ぬまで忘れてはならないと、心に刻み込んでいる。それに、一度はあやかしを妻とした燐だ。一体誰が望んで後妻になりたいと思うだろうか。もしそれでも、というものがいたなら、それはきっと燐を望んでのことではない。橘家という家柄が欲しいに過ぎないに決まっている。そんな愛のない結婚に何の意味があるだろう。妻などいらない。彼にはたくさんの友人がいる。紫苑がいて、桔梗がいて、壬と癸がいて、昴がいて、透流がいて、加乃がいて、朔がいて……。
「でも、僕は誰かの一番じゃない」
 燐はぽつりとつぶやく。朔には聞こえないようにと、ごくごく小さな声だった。
 ――それでも構わない。けれど、時々寂しくなるのだ。しあわせそうな紫苑らや昴らを見ていると、自分までもしあわせな気持ちになってくる。それは本当だ。それでも自分の傍らには彼らのような温もりは存在しないのだと、不意に思い知らされる。そんな気持ちになることすらさくらに申し訳なくて……。
「ねえ、父さん」
 不意に、朔が口を開いた。
「加乃ちゃん、僕のお姉さんになるんですか?」
「う……うん。一応、そのつもりだよ」
 加乃とはまだ短い話しかできていないが、たぶんそうなるだろうと燐は予想している。きっと、加乃のしあわせのためにはそうするのが良いだろうと……。
 そっか、と小さくつぶやき、朔はくるりと振り返った。
「家族が増えるのって、嬉しいことですね」
「…………」
 その笑顔は、あまりにもさくらと似ていた。
 ――ごめんね、さくら。外に出してあげられなくて……本当は君をいろんなところに連れて行きたいのに。
 都に連れて来てからというもの、さくらはずっと橘邸に閉じこもっていた。否、閉じこもらざるを得なかったのだ。あやかしであるさくらが都を闊歩するわけにはいかない。ただ謝ることしかできなかった燐に、さくらはいつだって笑って首を横に振ってくれた。
 ――いいの。貴方が毎日私のところに帰ってきてくれる。私は貴方の帰りを待つ。私たち、家族になったのよ。
「家族……か」
 燐はぽつり、とつぶやいた。