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春宵の巻 第一章

  一
  
 橘の屋敷の梅が見頃を迎えた。桔梗と昴はまるで花見のためにしつらえられたような、中庭に面した縁側で、ゆっくりとお茶を啜っている。
「このお団子は透流さんが作ったんですか?」
 桔梗が尋ねると、昴は少し頬を染めて頷いた。生来の白い肌が、まるで梅の花びらのように淡く上気している。――今更照れなくてもいいのに。桔梗は笑みを深めた。
「透流さんは器用ですよね。紫苑とは大違いです」
 桔梗はゆっくりとその団子を噛み締める。やわらかく、ほんのりと甘いそれはまだ少し暖かかった。
「……紫苑さんは不器用なの?」
「ええ、それはもう。だから家事は全部式神さんたち任せで」
「じゃあ貴方は?」
「…………」
 桔梗はぐっと言葉に詰まった。昴はくすりと笑う。
「……似たもの夫婦ね」
「…………」
 遠回しにお前も不器用だと宣告されたようなものではあるが、嫌な気はしない。むしろ何だか嬉しかった。――夫婦。紫苑と、私が。どこかしらそわそわして、落ち着かない。
 桔梗はくるりと背後を振り向いた。ちょうどそこには昴の部屋があって、文机の横には何やら古そうな書が積み上げられている。
「あれ、一体何なんですか?」
「ああ……」
 昴はちらりと視線を投げた。
「燐さんに頼んで、都にある文献をいろいろ集めたの。特に、神々に関する古代史をね」
 桔梗はすう、と眼差しを険しくした。
「それはやはりあの『封印』のことを……」
「ええ。邑に伝わる伝承とは違って、都には公式文書として遺されているものがある。あくまでそれはひと側からみた歴史だけれど――参考にはなるかと思って。それに」
 昴はくすりと笑った。きらきらと輝く黄金の髪は少し伸びたようで、ほっそりとした肩をかすめて揺れている。
「あんまり暇なのもね」
「…………」
 桔梗はそらを仰いだ。ぼんやりと霞がかった春の空。
「貴方はふだん何をしているの?」
「私、ですか? 私は――」
 式神たちと一緒に掃除をしたり、紫苑の身の回りのものを片付けたり……そして琴を奏でたり。紫苑が側にいない時の桔梗は、ひどくゆっくりと時を過ごしている。
「だから、ちょっとは式神さんをお手伝いしてるんですよ」
 先ほどの会話を思い出したのか、桔梗が妙に力を入れて主張する。まったく家事ができないわけではないのだ、と言いたいのだろう。
「じゃあ、あの双子たちは?」
「壬さんは力仕事をやってますよ。冬の間は薪を割ったりとか……。あ、癸さんはお庭の手入れとか、裏庭に小さな畑を作ったりとか」
「何だか不思議ねえ」
 昴はひとくち茶を啜った。どこか甘さを秘めた苦味が、舌をざらりと包み込む。
「最強のあやかしたちが三人――のんきに都暮らしを楽しんでいるなんて」
「そうですか?」
 桔梗は微笑んだ。
「そうよ。貴方はともかく、あの双子は何もここにいる必要なんてないでしょう?」
「まあ、それはそうですけれど……」
 壬がかつて住んでいた場所は、あやかしたちの小さな集落が近いという。彼らふたりはそこに帰ることもできたはず。彼らはもう御子という存在に執着していないのだから、桔梗を置いて帰っても良かったのだ。だが、そうしなかった。
「紫苑の側って居心地がいいんだと思います」
 桔梗は薄く目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは愛する男の面影。不器用で、無愛想で、無口で――それでも本当は優しくて、思いやり深く、自分に寄せられた想いを決して裏切らない。とても誠実なひとだと思う。壬のこともそうだった。元々は自分の命を狙いに来たというのに、今の紫苑はそれを忘れてしまったかのように接している。――本当に忘れてしまっているのかもしれない。短気な壬の癇癪にもきちんと付き合ってやっているし、弟のことも当たり前のように面倒を見ている。壬も本当は感謝しているのだろう、そういう理由もあって面倒な力仕事などを引き受けているに違いない。本人に問いただしたなら、きっと全面的に否定するのだろうが……彼もなかなかにおとなげがない。
「わかるような気がするわ」
 昴はぽつりとつぶやいた。
「自分の抱えてきた孤独とか、寂しさとか、悲しみとか、怒りとか――そういった負の感情がね、紫苑さんの周りでは力を失ってしまうの。不思議だけど」
 ――貴方は最初から不自由ではない。誰も貴方を縛ってなどいない。
 紫苑は自分を解き放ってくれた。憎しみという名の呪縛から。昴を本来の彼女に戻してくれたのは、紫苑だった……。
「昴さん……」
 桔梗が複雑そうな顔で昴を見つめている。昴はぷっと小さく吹き出した。
「そんな顔しなくていいわよ。紫苑さんは誰にでも親切だけれど――本当に見つめているのは、貴方のことだけだから」
 桔梗は目を瞬かせた。
「そ、そうでしょうか」
「そうよ。――決まってるでしょう」
「…………」
 桔梗は俯き加減になった。その口元は隠しようもなく緩んでいる。
 ――やれやれ。昴が桔梗の手元に残っている最後の団子を奪い去ろうと手を伸ばした時。
「――離せよ! 離せってば、このでかぶつ!!」
 とどろいた罵声にふたりは顔を見合わせる。静かな春の日差しが、一瞬にして翳ったようだった。
 
 
  二
  
 透流は腕をいっぱいに伸ばし、その人物の首根っこを押さえつけていた。そうでもしなければ振り回す腕に殴りつけられてしまう。
「何があったの?!」
 帳の向こうから掛けられる声に、透流は大声をあげた。
「昴さん、来ないで」
 彼女の髪と目を他人の視線にさらすわけにはいかない。透流の慕ってやまないその金髪も碧眼も、事情を知らぬものにはただ奇異に見えるだけだろう。
「離せって!!」
「ひとの家に勝手に入り込んでおいて、その言い草はないだろ」
 透流はその小柄な人物を見下ろし、嘆息した。大きな目がそんな彼をぎょろりと睨みつける。まだ年若い少年で、装束から判断するとさほど身分の高い家の子弟ではなさそうだった。まるで女かと見紛うような華奢な骨格――そして整った顔立ちをしている。
「おれはお前に用はない。橘家の当主を出してくれって言ってるんだよ!」
「だから今は宮中に……」
「だったら待たせろよ。いいだろ?!」
「ふつうひとさまの家には玄関からお邪魔するものでしょう。何だって壁をよじ登って来たんです」
「うっ……」
「何だか愉快な子ねえ」
 帳越しに聞いていたのだろう、昴がくすくすと笑い出した。少年はきっと昴のいる方角を睨みつける。透流は慌てて少年を捕まえる手に力を込めた。帳に向かって殴りかかりでもしたら大変なことになる。
「いいんじゃない? 待たせてあげれば?」
「え、でも……」
 屋敷には桔梗もいるし、たぶんもう少しすれば朔も帰ってくる。ふたりともふつうの人間とは違う容貌をしているから、少年の目に触れれば厄介だ。それに昴はこの家の主ではない。勝手にそんなことを決めてしまって良いのか……。
「ここでつまみ出してもどうせまた壁をよじ登って入ってくるのではなくて? それじゃあ意味がないわ」
「それは、そうですけれど」
「どこかの部屋に押し込んで、貴方が見張ってなさいな。下手なことをするようなら」
 どうやら昴は面白がっている。こういうときに見せる彼女の笑顔は本当に生き生きとして眩しいばかりだ。――だが、大抵その後に透流に告げられるのは……。
「貴方、その子の首をもいでしまいなさい?」
「なっ……?!」
「で、できませんよそんなこと!!」
 遠ざかっていく昴の気配に、透流は叫ぶ。――いくら想いを通じさせたところで、やはり昴は昴なのだった。
 
 
  三
  
 その日の夕刻。宮中から戻った燐を出迎えたのは、擦り傷だらけの見知らぬ少年と、むっつりと不機嫌そうな透流だった。
「え、何? 何があったわけ?」
「こいつがいきなりお屋敷に侵入してきて……」
「あ、あなたが」
 透流の言葉を遮り、少年が腰を浮かせた。透流は無言でその首根っこをとらえる。だが少年は意にも介していないようだった。
「貴方が、橘燐どの?!」
「う、うん。そうだけど」
 一歩退く燐に、少年は叫んだ。
「お、おれを……弟子にしてください!!」
 一瞬落ちる、沈黙。
『ええええええ?!』
 重なる声が三人分だったのは、どうやらこっそりと昴が聞き耳を立てているからのようだ。透流はどぎまぎと辺りを見回したが、少年は一向に気に留めていなかった。
「弟子……弟子って、何で」
 燐は呆気に取られた様子で聞き返す。少年はいたって本気のようで、まるで燐を睨みつけるようにその柳眉をつりあげている。
「おれ、学問がしたいんです。どうしても! でもうちは大学寮に入れるような、そんな家じゃないから」
「……うーん」
 燐は腕組みをした。少年の言うことはわからないではない。この時代まともに学問ができるのは大学寮以外にはなく、そして大学寮に入ることができるのは貴族の子弟に限られている。少年は町民でこそないようだが、家柄は決して高くはないのだろう。だが何故そんな彼が学問に執着するようになったのか……燐にはわからない。彼が言葉を捜しているうちに、少年はばっと床に這いつくばった。
「お願いします。おれに学問を教えてください!」
「うちは弟子なんて、取ってないよ……」
「じゃあおれが一番弟子で!」
「いやそんなことに一番も二番もないっていうか」
「何でもしますから! お願いします!!」
 燐は苦笑した。加乃も透流も家事に関しては非常に優秀だ。
「家のことはもう間に合ってるんだよね……。とりあえず君、おうちは?」
「い、いえは……」
 少年はぐっと言葉につまった。やがて小さな声でつぶやく。
「捨てました……」
「え?」
「と、とにかく! 家はないんです!!」
「いや、さすがにそんなわけないでしょ」
「お願いします! おれをここに置いて……っ!!」
「あ」
 少年は透流の隙を突いてその腕を逃れ、燐に向かって突進した。
「え?」
 燐はとっさにひょいと避ける。少年はその勢いのまま燐の背後に立てかけてあった衝立にぶつかり――それを、倒す――。
「え?」
 その声は一体誰のものだっただろう。衝立の向こうには、昴が茫然とたたずんでいた。
「あちゃー」
 透流は頭を抱える。ほの暗い灯火の下ですらはっきりとわかるその容姿。案の定、少年は腰を抜かしたようにへたり込み、昴の姿をただただ見上げている。
「あ……」
 凍りついた部屋の空気を溶かそうとするように、燐は小さくつぶやいた。
「あちゃー」
 生ぬるい風が部屋を吹き抜けていく。その温度に頬をなぶられてなお、四人は動けなかった……。