instagram

中秋の巻 第四章

  一
  
 中秋の名月。その日は心なしか夜闇もほんのりと光を含み、やわらかくあたりを包んでいるようだった。御門邸は珍しく活気づいている。忙しく立ち働いているのはひとではなく式神ではあるが、それでもふだんひっそり静まり返っている様子とは明らかに違っていた。もちろん、屋敷にいるのは式神だけではなく、壬と癸の兄弟、桔梗、紫苑ら常日頃からの住人もいる。だがその四人の姿はおもてには見当たらなかった。
 水龍の双子は、紫苑とともに室内にいる。癸は紫苑に礼装である布袴(ほうこ)の着付けを行い、壬はその様子を腕を組んで眺めていた。
「お前、こんなもんいつ着たんだ?」
 尋ねる兄に、弟は笑う。
「いや、今日初めて見たんだけど、大体こんな感じかな、と思って」
「器用だな」
「紫苑と正反対だよな」
「…………」
 壬にまぜっかえされ、紫苑は困ったように沈黙した。言い返す言葉につまったらしい。癸がとりなすように口を開いた。
「そろそろできますよ……、ほら、ここを結んで」
「桔梗の方は大丈夫なのか?」
 癸は尋ねる兄に向かい、頷いた。
「式神さんたちがいるし、さっき加乃ちゃんも来てくれていたよ」
「そうか」
 紫苑は自分の装束を不思議そうに見下ろしている。壬は笑った。
「初めて着たわけでもないだろ?」
「ん……まあ……」
「新しくあつらえたものだから、着慣れないのでしょうか?」
「別に古いものでも良かったのだがな」
「それじゃ駄目だって、燐さんに怒られたんですよね?」
「それは燐が正しいぞ」
「そうかなあ」
 癸は首をひねる紫苑に優しく微笑む。
「今夜はおふたりにとって新しい門出の日。やはりここはお召し物も改めていただいた方が」
「そんなものだろうか」
 煮え切らない紫苑に、壬が声を掛けた。
「そうは言うけど、桔梗にはちゃんと新しい唐衣とか裳とか、一式揃えてやったんだろうが」
「それは当然だ」
「同じことですよ」
 癸はくすくすと笑う。紫苑はやはりどこか解せないような表情で首をひねっていた。
 ――おかしな男だ。壬は改めて紫苑をまじまじと眺める。もし彼が自信満々で自意識過剰な男であったなら、それはそれで鼻について仕方がないだろうが、紫苑はもう少し自分のことを大切にしても良いのではないか。壬は苦笑した。はじめ出会ったときはあんなにいけ好かない男だと思ったのに、今では紫苑を昔からの友人のようにさえ思っている。――時の流れはひとを変える。壬には、頑固に変わろうとしなかった時期もあった。しかし、自分が変わろうとさえしていれば、誰しもが変わっていける。そのことを彼に教えたのは、紫苑であり、桔梗であり、燐だった。あの元巫女も、それに気付けばよいのだが……。
「ところで紫苑さん。祝言って具体的に何をするんです?」
「私も良く知らん」
 紫苑は一際困惑した表情で癸を見つめた。彼の顔に答えを探しているようですらある。そんなところには何もねえよ、と壬は思った。
「本来別々のところに暮らす男女が結ばれるための儀式だから、我々の場合とは前提から異なっているわけだし……別に改めて披露せねばならない親族がいるわけでもなし……」
「じゃ、燐のときはどうやったんだよ」
「それは……」
 ざっ、と帳が引き開けられて、燐が姿を見せた。
「忘れたって言うんじゃないだろうね、紫苑」
 紫苑は旧友の視線を受けてうろたえたように顔を伏せる。まるでいたずらが見つかった少年のようだった。
「覚えているとも。桜の舞い散る夜、橘邸で夜通し酒を酌み交わした。さくらが舞いを舞って……」
 紫電の瞳を細める。過ぎ去りし日を懐かしんでいるのだろうか。
「きれいだったなあ……」
「…………」
 不意に、壬の脳裏にその情景が浮かんだ。夜を彩る桜の花びら、それを盃で受ける男たち。彼らの瞳には軽やかに舞うさくらいろの少女が映る――それはとてもとても美しい光景であったろう。
「形式にこだわることなどないさ」
 夢幻の景色を、燐の声が破った。
「ただ、僕らに機会を与えてくれればいい」
「機会? 何のだ?」
 ――この期に及んで、こいつは。壬が呆れたようにため息をもらす。癸が笑って言葉を足した。
「貴方と桔梗さんの門出を祝う――そのための機会ですよ」
「…………」
 紫苑は少し目を見開いて口をつぐみ、やがてふ、と表情を緩めた。
「ありがとう」
「何を今更」
 ついつい憎まれ口をたたいてしまう壬をも、紫苑は優しい眼差しで見ている。きっと全て見通されているのだろう。壬が今、どんなにふたりの前途のしあわせを願っているのかを……。
 
 
  二
  
 綾織の唐衣を華奢な肩に羽織り、桔梗は外の月を眺めた。加乃や式神たちは彼女を残し、料理の支度をするために去っていった。手伝うという桔梗の申し出は一蹴されたのだが、まさかそれが彼女に料理を作らせるなという紫苑の命によるものだと彼女は知らない。
 一年。その歳月を短いと思うか、長いと思うか、それはひとによって違うのだろう。桔梗自身、どちらであるかはわからない。過ごした月日を思い返せばあっという間だったようで、しかし出会った頃の紫苑を思えば、今とは随分違っていた。――紫苑は、とても良くなった。常に付きまとっていた寂しそうで悲しそうな影がほとんどなりをひそめ、温和で素直な笑みが口元を飾っている。決してそれほど長くはない人生の中で、紫苑は何度となく傷つけられ、痛めつけられてきた。だがそれを乗り越えた強さが、彼の優しさを支えているのだと思う。これから先、紫苑の傍らに常に寄り添っていたい。涙を拭い、手を引いて、ともに歩いていきたい。彼の体が二度と孤独に凍てつかぬよう、そっと抱きしめていたい……。
 ほう、と息をついて顔を上げた彼女の目の前に、意外な者が佇んでいた。月と、同じ色をした髪。桔梗は息をのむ。
「昴さん……」
「随分と着飾ったものね」
 逆光になって、彼女の顔は良く見えない。まさかこの屋敷にいると思わなかった桔梗は、思わず訝しげに眉をひそめてしまう。
「そんな顔をするものじゃないわよ。わざわざお祝いしに来てあげたんだから」
「あ……ありがとうございます」
 おずおずとお礼を言うと、昴は笑ったようだった。
「貴方のため、じゃないわ。紫苑さまが私のことを気にかけていると聞いたから……」
「私だって」
 桔梗は昴をさえぎった。
「貴方のことを気にしていましたよ」
「……そう」
 昴の声がかすかに揺らぐ。桔梗は目を伏せた。
「ある意味では、私も自分の一族を守れなかった御子。ただひとりだけ逃げ出して、じっと息を潜めて眠っていた――卑怯な御子です」
「…………」
「運命なのだと、青龍は私に告げました。水龍が滅びたのは、運命だったのだと。私が生き延びることも、また運命だと」
「運命……」
「だけど」
 桔梗は顔を上げた。
「私はもう再び同じ過ちは繰り返しません。運命という言葉に、逃げはしない」
「…………」
「以前、紫苑はこう言いました」
 ――私は私のしたいように生きてきた。これからもずっとそうだ。だから、お前もそうしろ。
「私は、私のしたいように……」
 昴は鸚鵡返しにつぶやく。桔梗はうなずいた。
「ちょっと聞くとわがままなようだけど、違う。紫苑は自分のしたことは全て自分の責任だと、そう言うんです。どんな状況に置かれても、苛酷な選択を迫られても、その結果は自分が引き受けるのだと、その覚悟を決めている。運命にそれを背負わせたりはしない」
「…………」
「だから、私もそのように生きていこうと決めたのです。私は、私自身の責任で」
 胸の前で拳を握る。
「紫苑とずっとともにありたいと――そう思うのです」
「…………」
 昴は黙り込んだ。沈黙がその場を支配する。桔梗はただ昴をじっと見つめていた。表情はわからない。けれど、きっと届くと思っていた。
「……そう」
 やがて昴はため息混じりに短い言葉を吐き出した。
「だったら私も私のしたいようにするわ。それでいいのね?」
「はい」
「貴方の紫苑さまに、横恋慕しても良いと?」
「私にそれを禁じる資格はありません。でも」
 桔梗は表情を曇らせた。それでも胸の痛みは悟られないように、気丈に振る舞う。
「それは、皆を不幸にすることだと思う……貴方を含めて」
「なぜ?」
 昴が聞き返す。桔梗は答えた。
「貴方の持つ傷と、紫苑の持つ傷は、あまりにも似ているから」
 昴がわずかに体を強張らせ、退いた。――私は彼女の望むような存在にはなれない。私たちは確かに似ている。だからこそ、こころの隙間を埋め合うことはできない。先日耳にした紫苑の言葉、それを思い出し、昴は顔を引きつらせる。
「貴方は、貴方を無条件に受け入れてくれる存在に――まだ気付いていない」
 桔梗は微笑む。
「その存在こそが、貴方を本当に癒してくれる」
「…………」
 唇を開けるが、言葉は生まれてこなかった。その苛立ちもあらわに、踵を返す。
「昴さん」
 桔梗の言葉が、彼女の足を止めた。
「来てくれて嬉しい。……ありがとう」
 不意に涙が溢れそうになって、昴は足早に歩き出した。
「……馬鹿よ」
 紫苑も、桔梗も馬鹿だ。こんな自分を受け入れ、優しくしてくれる。救いようのない馬鹿ぞろいだ。――愛すべき、馬鹿たち。そして一番馬鹿なのは、きっと……。
「昴さん」
 廊下を曲がったところで見慣れた姿が駆け寄ってきた。燐にしつらえてもらった一張羅を着込んだ透流。しかし悲しいことに寸法が少々合っていない。彼の体格が良すぎるのだ。
「目を離すとすぐにふらふらどこかへ行ってしまうんですから」
「別にどこへも行きやしないわよ」
「本当かなあ」
 唇をとがらせた透流は、昴の手をぐいと掴みそのままずんずんと歩き出した。
「さ、広間はこちらですよ」
「ちょ、ちょっと!」
 ――手を離しなさいよ。その言葉は、喉の奥で消えた。手を引いて歩く透流の広い背中と、その上をまるで尻尾のように跳ねる黒い髪。悪態の代わりに唇に浮かんだのは、柔らかな笑みだった。