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中秋の巻 第五章

  一
  
 衣擦れの音、そして桔梗は膝を折り、座る。床に広がる裳や衣の裾は式神のひとり、竜胆が軽く整えてくれた。隣には紫苑が座っている。そのことを知りながら、桔梗は顔が上げられない。頬が燃えるようで、きっと真っ赤になっているだろう。そこにあるのは見慣れた横顔だとわかっているのに、それでも見られない。恥ずかしくて恥ずかしくて、ここから消えてしまいたいくらいだった。
 ――でも、逃げ出すわけにはいかない。揺らめく燭に目を細めながらも、桔梗は顔を上げた。広い部屋には二列にひとが並んでいる。桔梗側と紫苑側、それぞれが壁に沿うような形に座していた。紫苑の側には燐、朔、そして焔。桔梗の側には壬、癸、加乃。昴の姿はない。期待していたわけではなかったが、少し残念だった。それと同時にどこか安堵にも似た気持ちが胸に広がる。少しでもこころに想ったひとと、自分ではない別の相手との祝言の場になど、ふつうなら決して居合わせたいものではないだろうから。今は許せないかもしれない。でも、いつかは許して欲しい。昴は桔梗が親しく話を交わしたはじめての同性だった。紫苑のことは譲れないが、それでもせっかく生まれたほのかな友情が壊れてしまうのはつらかった。
「朔」
 燐の合図で、朔が向かいに掛けられていた帳を引き上げる。さっと月光が部屋を撫で、そよ風になぶられた燭がいっそうまたたいた。月に照らされた庭はその輪郭をぼんやりと闇に浮かび上がらせる。虫の音がかすかに響いていた。桔梗にとっては見慣れた御門家の庭――だが今夜はこんなにも違って見える。神聖で、厳かで。まるでこの世ではない別のところに繋がっているような……。
 不意に、庭に人影が現れた。ふたつだ。ひとつは女、ひとつは男だろう。光を背に浴びているせいでよく見えない。男は何か箱のようなものを捧げもち、女は薄い布のようなものでこうべを覆っている。
「…………」
 傍らの紫苑の動揺が伝わってきた。彼は、そのふたりが何者であるかわかったのだろうか。桔梗はその様子を気に掛けながらも、なおまだ紫苑の顔を見ることができない。ふたりが近付いて来るまでの間、桔梗は床に目を伏せて待つことにした。
「お二方、盃を」
 男の声。聞き覚えはあるが、はっきりしない。桔梗は目の前に伏せられていたそれを両手で持ち、頭の高さで待った。
「汝らの前途にさいわいあれ」
 次は女。その声に、桔梗は思わず盃を取り落とした。女が注ぎ込んでいた酒が飛び散る。
「あっ」
「あらあら」
 慌てて顔を上げた桔梗に、女は薄布の下から微笑んでみせた。昴だ。
「今度はちゃんと持ってなさいよ」
「昴さん……!」
 桔梗は昴の傍らで酒器を持つ男に視線をうつした。こちらは透流。いつものように優しく笑っている。
「おめでとうございます、桔梗さん」
「かたじけない」
 言葉を失っている桔梗の代わりに、紫苑が返事をした。彼女の瞳に涙が盛り上がる。
「……昴さっ……」
「せっかくのおめでたい席なのに泣くものじゃないわ。それに貴方が泣くなんて変でしょう。貴方はこれからしあわせになるんだから」
 昴はしゃがみこんで盃を広い、桔梗の手に持たせた。
「昴さんも」
 桔梗は涙を拭き、彼女を見つめる。
「昴さんも、しあわせになって下さい」
「…………」
 昴は一瞬目を見開き、やがて困ったように微笑んだ。
「貴方たちって本当に良く似ているのね」
 それだけを言って立ち上がり、並んで座っているものひとりひとりの盃へと酒を注ぎに行く。彼女の後姿をじっと見送っていた桔梗に、紫苑が声を掛けた。
「……良かったな」
「はい!」
 このとき初めて、桔梗は紫苑の顔を真正面から見た。いつもと変わらぬ紫苑の笑顔。優しく、静かで穏やかな――桔梗の大好きな、紫苑の笑顔。緊張が解けていく。
「昴には、しあわせになって欲しい」
 紫苑のつぶやきに、桔梗は頷くことで同意した。昴の傍らで畏まっている透流。彼はきっと昴を幸せにしてくれるだろう。予感ではない、既にそれは確信に近いものだ。
 全員に注ぎ終わった昴を、紫苑は手招きで呼んだ。こっそりと脇に伏せてあったふたつの盃を手に取り、歩み寄ってきた昴と透流に差し出す。
「お前たちには、私たちが注ごう」
「…………」
 顔を見合わせるふたりには構わず、紫苑は再び手招く。桔梗もそれに倣った。昴には桔梗が、透流には紫苑が。盃になみなみと酒を注ぎ入れる。
「……頼りにしている」
 紫苑のつぶやいたその言葉に、透流ははっきりと頷いた。きっと、この男になら昴を支えられる……。紫苑は微笑み、頷き返した。
「これからも、お友だちでいて下さい」
 桔梗の言葉に、昴は驚いたように瞬きを繰り返した。
「私と? 貴方が?」
「はい」
「……かなわないわね」
 昴は苦笑を浮かべ、桔梗の髪に手を伸ばす。銀の輝きの上を白い指が滑った。
「ありがとう」
 再び涙が零れそうになって、桔梗は俯いた。大好きなひと。大切なひと。皆がここにいて、彼女を祝福してくれる。何てしあわせなんだろう。
「では」
 昴の言葉に従い、皆が盃を手に持った。
「おめでとう」
「おめでとう!」
 口々に発せられた祝いの言葉が部屋を満たし、庭に零れ出す。
 ――その日、御門邸は溢れんばかりの祝福に満たされた。
 
 
  二
  
 夜半過ぎ、橘邸に戻る牛車を見送った後。紫苑は冷たくなった風に頬を冷やしながら、桔梗の待つ部屋へと戻った。既に装束を解き、白い寝間着に体を包んだ桔梗は中庭に面した縁に座り、ぼうっと空を眺めているようだった。紫苑は背後からゆっくりと彼女に歩み寄る。
「流れ星ですよ」
 桔梗が振り向き、空を指差した。紫苑が目を上げたときに、既にそこには何もない。
「寒くはないか」
 尋ねた紫苑に、桔梗は首を横に振った。苦笑する。
「寒いと言ったら暖めてやれるものを」
「寒いです! 凍えそう、死んじゃいますっ!」
「阿呆」
 紫苑は笑って桔梗の隣に腰を下ろし、その華奢な体を膝の上に抱えあげた。長い髪をそっと指で梳く。
「酔いはさめたか?」
「はい」
 胸元に擦り寄る桔梗はまるで仔猫のようで、しかしその姿態の中には女性らしい甘美な誘惑が見え隠れしていた。――さめていないのは自分の方かもしれないな。紫苑はそう思いながら、ただゆっくりと桔梗の髪を撫でる。
「あ」
 桔梗につられ、紫苑はまた夜空に瞳を向けた。今度ははっきりと、闇を切り裂いて落ちた光が見えた。
「今日は随分と多いんですね」
「……流れ星は」
 紫苑はつぶやく。
「星読みたちの間では凶兆として忌まれる」
「…………」
 桔梗は笑みを消し、紫苑を見上げた。
「私は星に詳しくないが、しかし」
 言葉を切り、紫苑は桔梗をもっと近くへと抱き込む。
「星にとっては知ったことではない。ただ、星はそこにあって、輝いているだけ。我々の思惑など関係なく、そこにあるものだ」
「紫苑……」
「禁忌と呼ばれる半妖が、こうしてここにあるように。凶兆とてその自覚などあるまいよ」
 笑顔を見せると、桔梗はほっとしたように表情を緩めた。
 紫苑はそらに月を探す。白く丸いそれは、徐々に地平線へと近付いていた。それが沈みきったとき、この夜は明ける。
「一年……」
 紫苑は目を閉じた。いろんな思い出が脳裏をよぎる。桔梗と出会った日のこと、名付けたときのこと、もうひとりの「桔梗」との邂逅、燐の帰京、母のこと、父のこと。そして出会ったひとたち――朔、壬、癸、昴、透流。一年前、自分には何もないと思っていた。大切なものもなく、彼を大切に想うものもなかった。それなのに、今はこんなにもたくさんの守りたいものがある。両腕では抱えきれないほど、彼ひとりでは守りきれないかもしれないほど。だが、それでいいのだ。彼はひとりではない。彼ひとりで全てを背負う必要はない。桔梗がいて、燐がいて……頼りがいのある仲間がいるのだから。
「紫苑」
「ん?」
 彼の腕の中で伸び上がった桔梗が、軽く唇を重ねた。
「眠くなりました」
「ああ、そうか」
 紫苑は桔梗を抱いたまま立ち上がる。寝所へと、ゆっくりと足を踏み出した。眠いと桔梗は言った。だが紫苑は全く眠気を感じていない。桔梗が眠ってしまっても、彼はずっと桔梗の寝顔を見つめているだろう。
「紫苑」
 もう一度、名を呼ばれて紫苑は足を止めた。
「どうした?」
 抱き上げた彼女を見上げる。桔梗は微笑んでいた。月あかりに照らされ、美しくも儚げに――どこか悲しげに。その表情を伏せるように、桔梗は彼の首筋にすがりついた。
「ずっと、一緒ですよ。ずうっと……」
「ああ、ずっと一緒だよ」
「死ぬまで、一緒ですよ」
「ああ」
 ――どちらが死ぬまで? 紫苑の脳裏に疑問符が浮かぶ。だが、紫苑は何も言わなかった。先に死ぬのは自分かもしれない。その漠然とした不安だけを胸に、紫苑は桔梗を強く抱いた。