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中秋の巻 第二章

  一
  
 翌朝。紫苑は桔梗がまだ眠る側から抜け出し、双子の兄弟の部屋を訪れた。
「あ、おはようございます」
 微笑む癸と、仏頂面で片手を軽く上げる壬。何度見ても対照的な彼らだが、やはりどこか似通っているのを紫苑は知っていた。むしろ、違っている部分はごく外面的なところに過ぎない。斜に構える壬、やわらかな物腰で包む癸、といったように。
「話があるのだが、構わないか」
「それよりお前、飯は食べたのか? 俺たちは先に食べたけど」
 不審そうな顔で尋ねる壬に、紫苑は首を横に振る。
「いい。私は桔梗が起きてから食べる」
「へえへえ、そうでしょうとも」
 けっ、と壬に毒づかれ、紫苑は目を瞬かせた。
「……どうした?」
「兄は紫苑さんをからかいたくて仕方がないんですよ。気にしないでやって下さい」
 癸は苦笑している。
「で、話って何だ?」
 真面目な様子の紫苑に、壬も居住まいを正す。正面に並んだふたりを交互に見て、紫苑は口を開いた。
「私は……桔梗を妻にしたい」
「…………」
 ぽかんとする壬と、ぐっと顎を引いて目を見開く癸。紫苑は目を伏せた。彼らの表情を真正面から見る勇気はない。
「……わかっている。私は半妖で、水龍の仇であったひとの血を引いているし、子を為す能力もない。お前たちにとっては承服しがたいことだろう。それでも」
 一度、言葉を切る。唾をごくりと飲み込んだ。
「それでも……できれば、お前たちには祝福してもらいたいと思うのだ。何と言ってもお前たちは桔梗の最後の……身内なのだから」
「…………」
 しばし、沈黙が続いた。やがてそれに耐え切れなくなった紫苑が目を上げると、壬がぼりぼりと髪を掻いている。その緊張感のない様子に、紫苑はきょとんと目を見開いた。
「あのなあ」
 壬の呆れたような口調。
「お前、今更何言ってんだよ」
「……え?」
 今度は紫苑が驚く番だった。癸は癸で、微笑みながら兄の言葉に頷く。
「本当に今更ですよ、紫苑さん」
「毎日毎日べたべたべたべたくっつきやがって。暑苦しいっての」
「随分涼しくなったと思うが……」
「誰が気候の話をしてるんだ馬鹿野郎」
「兄さん、口が過ぎるよ」
「お前は黙ってろ。大体なあ」
 壬は立ち上がり、紫苑の目の前までずかずかと歩み寄った。ひと差し指を紫苑の鼻先につきつける。
「こっちはいつお前が決断するのか、ひやひやしてたんだよ。『やっぱり私にその資格はない』ってうじうじしやがったら、遠慮なくぶっ飛ばしてやるつもりだったんだぜ」
 声真似までして力説する壬に、紫苑は圧倒される。
「お前、以前は私といることすら許せないって……」
「前は前、今は今だろうが!」
「兄さん、それはさすがに都合が良すぎると思うよ……」
「……そうかな」
 壬が僅かに身を引く。紫苑は呆然としたまま聞き返した。
「本当にいいのか?」
「いいも何も」
 代わって癸が口を開く。
「我らが御子――桔梗さんが貴方を選んだのなら、我々に異論のあるはずがありません」
「ま、そういうことだ」
「兄はこんな風に言っていますけど」
 癸は紫苑を真っ直ぐに見つめた。
「僕は、彼女の側にいるひとが貴方で良かったと思っています」
「…………」
 紫苑は声もない。癸は柔らかく微笑んだ。
「僕はまだ貴方を良く知らないけれど……、貴方は誰よりも優しくて、それでいて厳しいひとだと思う。御子の、いえ桔梗さんの側にふさわしいのは、貴方だ」
 すぐさま壬が混ぜっ返す。
「とりあえず、鈍いのだけは大概にしておくんだな。御子を泣かせたらただじゃ済まないぞ」
「……私は鈍いのか?」
「自覚ねえのかよ!」
 食って掛かる壬をふわりとかわし、紫苑は立ち上がった。微笑む。
「……ありがとう」
「礼を言われる覚えはねえよ」
「しあわせにしてあげてくださいね」
「……しかし」
 紫苑は顔を曇らせる。
「本当に良いのか。このままでは、水龍族は……」
「あのなあ」
 壬は彼を遮った。
「お前、水龍族にどれほどの価値があると思ってるんだ?」
「え?」
 当の本人からそのような言葉が出るとは、予想だにしなかった。紫苑は、呆気に取られた。
「水龍族が存続したって、桔梗がしあわせじゃなきゃ意味がないだろうが」
「そうですよ、紫苑さん」
「…………」
 それでもなお逡巡する紫苑を見かねたのか、壬が彼の肩に手を置いた。
「あのな。以前、御子は俺にこう言ったんだ」
 ――どうか、許して欲しい。私は紫苑の側に居たい。離れたくない。
「気位の高い御子が――そう言って俺に頭を下げた」
「…………」
 紫苑は目を見開き、彼の言葉に聞き入っている。
「で、今度はお前が来たって訳だ。ふたりとも本当に律儀だよな。何も俺たちの許可なんていらないのに……」
 壬は彼の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「俺から言わせればさ、形式上どうかは知らんが、ふたりはもう立派な夫婦だぜ。なあ?」
「そうだね。僕にもそう見えるよ」
「……そうか?」
「けじめとして祝言をあげたいっていうのはわかるけど、本当に何を今更」
「…………」
 紫苑は少しの間を空け、静かに微笑んだ。
「そうか……」
「ほら、桔梗のところに行ってやれよ。朝起きてお前がいないと怒るぞ」
「宮中に参内する日は割と先に起きているんだが……」
「その後、どれだけ機嫌悪いか知らないだろ。こっちは大変なんだからな」
「そうなのか?」
「そうなの。さっさと行けったら」
 急かす様子を見ると、どうやらそれは事実らしい。紫苑はくすりと笑った。
「いつもすまないな」
「いえいえ」
 紫苑は帳をあけて廊下に出る。――見上げた空は高く、雲ひとつなく澄み切っていた。

 紫苑の背中を見送り――そして、部屋には大きなため息が響いた。壬はどかりと床に腰を下ろし、頭を掻き毟る。
「あー、くやしい。覚悟はしてたけど、やっぱりくやしいな」
「兄さん……」
「…………」
 壬は俯いたまましばらく沈黙していたが、やがて顔を上げた。既に、その表情に曇りはない。
「まあいいや。ここで俺が反対したら、また紫苑がうじうじして桔梗が悲しむからな」
 水龍の血は絶える。そのことに衝撃がない訳ではない。自らの拠りどころを奪われたような、何とも寂しい心地がする。だが、そんな曖昧なものを守るために桔梗のしあわせを邪魔する権利など、誰にもない。
「兄さん、やっぱり変わったね」
 微笑む癸に、壬は少し嫌な顔をして見せた。
「そりゃお前、最近俺の周りは変なやつばっかりだからさ」
 笑い声が弾ける。そして、壬は願った。――きっと、みんなわかってくれるよな。今は亡き一族の者たちが、最後の御子が選んだ道を祝福してくれますようにと……。
 
 
  二
  
 昴はただひとり、橘邸の一室でうつらうつらとしていた。あの日以来、彼女はまともに睡眠を取っていない。眠りかけては悪夢を見て飛び起き、冷や汗を流す。だが彼女はそれを誰にも告げなかった。救いを求めることは、許されない。これは自分の犯した罪に対する罰なのだから、甘んじて受けなければならない……。だが、彼女の周りにいるものは誰もが優しかった。紫苑も、桔梗も、燐も、……そして透流も。彼女のせいで母を喪った加乃までもが、優しすぎる。その優しさが彼女の胸を締め付け、さいなんだ。そんな風に扱ってもらえる資格は、自分にはないのに。
「昴さま?」
 透流の声に、彼女ははっと目を覚ました。いつの間にか日が傾き、彼女の膝元にも長く影が伸びている。
「何?」
「薬湯をお持ちしました。飲んでいただけますか?」
「薬湯……?」
「ええ」
 帳を開け、透流が姿を見せる。がっしりとした体格は、旅の疲れなどものともしていないように見えた。その様子は、未だ食が戻らずにいる昴と対照的ですらある。
「以前紫苑さまから教えていただいたのです。『おんみょうじ』って、そういうこともご存知なのですね」
「そう……紫苑さまが」
 少しだけ緩む唇。透流はわずかに顔を曇らせたが、昴がそれに気付くより先に、また穏やかな微笑みに戻っていた。
「最近あまりお眠りになられていないようですし」
「どうしてそれを……?!」
 その言葉に、昴は眦を割いた。それだけは隠し通してきたつもりだったのに。誰にも心配されまいと、決して言わずにいたのに。
 透流は彼女の前の文机に、薬湯の満たされた椀を置く。さわやかな香りがあたりに満ちた。
「おれ、どうも布団じゃ眠れないんです。今までずっとわらの中で眠っていたせいかな」
 昴の厳しい視線をものともせず、透流は冗談めかして笑った。
「だから、昴さまの部屋の外の……廊下で眠っているんですよ」
「そんなところで?」
 寒いだろうに、と眉を寄せる昴に、透流は首を横に振る。
「そんなの気になりません。おれの一番は、あなたを守ることですから」
「どうして? 私はもう巫女じゃないのよ?」
 昴の喉がぐっとつまった。
「あなたがいくら私を守ってくれても、私が守るべき邑はもうどこにもないの! 私がこの手で、滅ぼしっ……」
 暖かく大きなものが、彼女の唇を塞いだ。透流の手のひらだ。
「…………」
 透流の目に映る自分は、涙を流している。透流はあわあわと慌てながら懐から布を取り出し、それがあまりきれいでないことに気付いたのかまた仕舞い込み、結局指先で彼女の涙を拭った。
「泣かないで……。ごめんなさい、おれ……」
 ――何故、透流が謝るのだろう。謝らなければならないのは自分の方なのに……。昴は自分の口元を覆う大きな手を剥がし、それを両手でぎゅっと握る。熱いくらいの熱を持つそれにすがりつきたい、その衝動は抑えがたいほどに大きかった。
「おれ……」
 透流はぽつりとつぶやいた。
「おれには、何にもないけど。親もいないし、字も読めないし、ばかだし、……本当に何にもないけど」
 古傷だらけの手。その上に、昴の涙が零れ落ちる。
「だけど、おれはあなたみたいなきれいなひとを見たことがない。だから、おれはあなたのことを守りたいんだ」
「……私はきれいなんかじゃないわ」
「おれにはきれいに見える」
 不器用に、透流の手が彼女の髪を撫でる。
「それに、あなたはおれの名付け親でしょう?」
「こんな大きな息子、要らないわよ」
 口を尖らせる昴に、透流は嬉しそうに微笑んだ。
「あ、いつもの昴さまだ」
 夕陽に照らされる笑顔は、何の曇りもなく――本当にきれいなのは、この男だと思った。過去にとらわれずただ真っ直ぐ前を見て、自分の足で一歩一歩、歩いていく力を持つ。その素直な輝きが、何よりも羨ましい。
 昴は顔を上げた。
「その、昴さまって呼ぶの。もうやめて欲しいの」
「え?」
「様は要らないわ。昴、でいい」
「昴、さん?」
「……それでいいわよ。加乃ちゃんにも伝えて」
「わかりました」
 透流は両手に椀を持ち、昴に差し出した。
「冷めてしまいますよ。どうぞ」
「あ……、ありがとう」
 昴は一口すする。ちょうどいいぬるさを持った湯が、喉を優しく癒した。
「おいしい」
「良かった。間違った薬草を摘んでいたらどうしようかと思いました。一応毒見はしたんですけど」
「毒見?」
「ええ。薬草と毒草って、似ているものが多いらしいので」
 あっさりと答える透流に、昴の血の気が引いた。透流が、毒かもしれないものを飲んだというのか……?
「そんな危ないものを飲むなんて!!」
 椀を机に置き、昴は透流に食って掛かる。彼は何故昴が怒るのかわからない、というようにきょとんとしていた。
「でも、おれだったらきっと腹を下すくらいですみますから」
「わからないじゃない、そんなこと! もし……もし本当に毒だったらそうするの! 本当に毒で、それで運悪く死んじゃったら……」
 止まったはずの涙が再び零れ落ちる。
「あんたが、死んじゃったら……」
 額をこつん、と彼の胸にぶつけた。太陽のような、あたたかな匂い。
「誰が……私を守ってくれるの……?」
「…………」
 透流の手が戸惑いながら、おそるおそる彼女の肩を撫でる。
「ご、ごめんなさい……」
「……謝らなくていいわ。その代わり」
 昴は顔を彼の胸元に押し付けたまま、小指を差し出した。
「約束して。もうしないって」
「約束します。もうしません」
 ごつごつとした感触が、彼女の小指を優しく包む。
「ですから、もう……泣かないで下さい」
 心底困ったように言う彼に、昴はいやいやと首を横に振った。
「もうしばらく泣いてやる」
「ええっ」
「だから……」
 昴は力を抜き、彼の腕に身を任せる。
「このままここにいなさい。わかった?」
「……は、はあ」
「動いちゃ駄目だからね」
 薬湯の効果だろうか。身体がふわふわと溶けてしまいそうだ。心地良く穏やかな眠りが、彼女を手招いている。
「だから、このまま……」
 父親の膝にすがる少女のように、昴は透流にもたれかかったまま目を閉じた。優しい闇に、彼女の意識は落ちていく。――実に半月以上ぶりの、深く安らかな眠りだった。

「昴……さん」
 彼女の目元が、赤い。透流は安らかな寝顔を見下ろしながら、その黄金色の髪を優しく梳いていた。
「さっき怒ったの……おれのこと、心配してくれたのかな」
 透流は言われたとおりに身じろぎもせず、ただじっと彼女を包んでいる。
「昴さん」
 その響きが愛しくてたまらないかのように、透流は静かに囁いた。――自分にはこれ以上何も要らない。ただ、彼女の側にいて、彼女を守ることができたなら……。邑を滅ぼしたことに恨みがないといえば嘘になる。それでも、彼女の孤独と悲哀に気付いてしまった今では、それをぶつけることなど到底できはしなかった。きっと加乃も同じだろう。自分たち邑人は、このひとから全てを奪ってきたのだ……。
「もう、悪い夢見ないといいですね……」
 彼女が毎晩悲鳴を上げながら飛び起きていることを、そしていつまでもいつまでもひとりで泣いていることを、透流は知っていた。だからせめて今だけでも、安らかな眠りを……。
「…………」
 一体何の夢を見ているのだろうか。ほんの少しだけ、昴の口元が微笑んだ。