instagram

中秋の巻 第三章

  一

 木犀の香に包まれた橘の屋敷。そこに一台の牛車が到着した。美しくはあるが無表情な童子が牛をつなぎ、車を止める。
「着いたぞ」
 中から姿を見せたのは御門紫苑であった。辺りに人影がないのを確認し、中に合図する。ふたりの青年が身軽に飛び降り、またひとりの娘が紫苑に手を取られて降りた。揃いの銀髪が秋の高い空を映して輝く。
「さすがに狭いな」
 壬はぼやきながら軽く屈伸。癸は迎えに出てきた燐に一礼し、その隣の加乃の姿に頬を緩めた。
「紫苑」
 燐の声に紫苑が振り向く。彼の前に佇んでいた童子は、すうっとそらに溶けて消えた。今更驚くこともない。きっと式神なのだろう。
(すすき)だ」
 式神の名を告げる紫苑に頷いてみせながら、燐は桔梗に視線を向けた。
「元気そうだね」
「はい。おかげさまで」
 微笑む彼女は、既に少女ではなかった。燐はその透き通るような笑みをまぶしそうに見つめる。あどけない目元はそのままに、輪郭は少し痩せたようだ。長い手足はまるで羽衣をまとっているかのようにかろやかに、しなやかに動く。それでも──紫苑を見つめるまなざしは変わらない。熱をふくんで、瞬きすら惜しむようにつぶらな瞳を輝かせて。出会った頃と同じ、いやそれ以上の想いがそこにあった。
「桔梗ちゃん、ちょっと話があるんだけど」
「私にお話、ですか?」
 桔梗は困惑したように紫苑を見上げる。
「うん。構わないだろう? 紫苑」
「ああ」
 紫苑は何も聞かない。燐を信頼しているのだと、その柔らかな紫の瞳が語っていた。
「じゃあ、いいかな?」
「はい」
 桔梗は微笑してうなずいた。

 歩み去るふたりを見送った後、紫苑は加乃へと問うた。
「昴どのはいずこにおられますか?」
「あちらの離れに」
 加乃は庭の向こうを指さす。かつてその場所はさくらのものだった。一度焼け落ちているから、全く同じ建物ではない。だがかつての燐ならば──決して他人を入れようとはしなかったのではないか。燐にも何か、心境の変化が起きているのかもしれない。
「案内しましょうか?」
「いや、大丈夫です」
 紫苑は水龍の双子に視線を送った。
「加乃さんにはそのふたりの相手を頼みます」
「かしこまりました」
 加乃はくすくすと笑う。だいぶ表情が戻ってきたな、と紫苑は安堵した。母を喪った直後は全身がこわばってしまっていたが……。
「では、後ほど」
 紫苑はそう言うと、その場を歩み去る。残された壬はぶつぶつとつぶやいた。
「ったく、子供扱いしやがって。本当は俺たちの方が年長なんだぜ」
「何の話をするんだろうね」
 紫苑が去った方角を見やり、癸は独り言のように言葉を発した。壬もまた、離れに視線を送る。
「あいつ、本当に律儀だよな……」
「やっぱり、そういうことなのかな」
 紫苑に、ほのかな好意のようなものを寄せていた昴。それが紫苑の言うような、似た境遇のものに寄せる執着心なのか、それとも恋慕の情なのかは壬にはわからない。どちらにせよ、桔梗を妻にすると決めた以上、紫苑はけじめをつけたいと思っているに違いない。たとえそれが昴を傷つけることになろうとも――紫苑は躊躇しないだろう。それに、昴が負う傷はきっとすぐに癒える。癒せるものが、側にいる。壬は朴訥な大男を思い浮かべ、小さく笑った。
「……昴さん、最近ようやく眠れるようになったんです」
 加乃の言葉に、兄弟の視線が集中した。彼女は少しうつむいている。
「透流さんが庭作りをはじめて……、燐さんのすすめで昴さんも手伝っているんです。体を動かすと夢も見ずに眠れるって」
「そうか」
 壬はほっと安堵のため息をついた。あの巫女──正直いけすかない女だとは思うが、邑が滅びた後の彼女の憔悴ぶりは見ていられなかった。以前のように、気丈に憎まれ口を叩くくらいがちょうどいい。
 加乃はぽつりとつぶやいた。
「母は……きっと昴さんを恨んでいない。最近、そう思うようになりました」
「加乃ちゃん……」
「それに、昴さんのおかげで癸さんがいてくれるようになったんですし」
 顔をあげる。加乃は涙を浮かべて──微笑んでいた。
「だから、私は昴さんを恨みはしません。昴さんはずっとひとりだったけど、私は今も昔もひとりじゃない」
「…………」
 壬は息を飲んだ。水龍族の仇だと、紫苑にいわれのない恨みをぶつけ、憎んだかつての自分。それと、あまりにも加乃は違っていた。その彼女の強さはどこか紫苑と似ている。先帝の長子でありながら、父母から引き離され、養父からも愛情を与えられずに育った。今なおひとから疎外され、あやかしに恨まれ──それでも最高位の陰陽師としてひとの世を守り、あやかしである壬らをかくまっている。その危険を知らぬわけでもないだろうに……。
「兄さん」
 癸の声に、壬ははっと我にかえった。
「中で待っていようよ」
「そうだな」
 庭を流れる甘い香り。前を行く癸と加乃の後を追いながら、壬は訳もない寂しさに襲われた。

  二

 燐が桔梗を通したのは、庭に面した明るい部屋だった。
「そういえば、朔くんは?」
「さくらの墓に、花を手向けに行ったよ。ついでにとらと遊んで来るってさ」
「……そうですか」
 燐はゆったりと足を組んで座った。
「――君は」
 薄水色の瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉をつむぐ。
「本当に紫苑と一生をともにするの……?」
「…………」
 桔梗の体に緊張が走り、少しぎくしゃくとした動きで、しかしすぐにうなずいた。
「そう……」
 燐はつぶやく。
「ひとの寿命は君たちあやかしよりも短い。両者の血を引く紫苑がどうかはわからないけれど、今まではひとと同じように年を取っている」
「…………」
 桔梗の表情に陰が差した。
「紫苑は君よりも早く老い、そして死ぬかもしれないよ」
「それは……」
 膝に置かれた手が震えている。
「覚悟の上です」
 子供ができないことも、ふたりの上を過ぎていく時間の速さが違うことも、ひとにもあやかしにも祝福されないことも……全てわかっている。
「それでも、紫苑と?」
「はい」
 桔梗は燐を真っ直ぐに見つめた。
「燐さんも、そうだったのでしょう?」
「…………」
 燐は胸をつかれたように息を飲んだ。──そうだ……。記憶が蘇る。あのとき、ちょうど今のように紫苑に尋ねられた。全てを知って、それでもさくらを選ぶのかと。彼はうなずいた。そのことを後悔したことは一度もない。
「ふたりでいて、悲しいこともたくさんあるでしょう。だけどそれ以上に楽しいこともあると思う」
 桔梗はとつとつと語る。
「悲しみも苦しみも、紫苑と一緒なら乗り越えられる。いえ」
 言葉を切り、言い直した。
「紫苑のためなら──がんばれる気がするんです」
「…………」
「寿命のことはまだわかりませんけど」
 桔梗は微笑む──だが目と口元に力を入れて必死に泣くまいとしている、そんな気がした。燐の胸が締めつけられる。
「もし私の方が長生きなら、紫苑をひとりで遺さずにすみます。それはしあわせなことだと思うから……」
「…………」
 燐はしばし目を閉じ、やがてゆっくりと口を開いた。もう、これ以上何も言うことはない。言う必要もないと思った。
「――紫苑を、頼んだよ。僕の大事な友達だからね」
「はい」
 桔梗はうなずく。その眼差しにさくらを重ね、燐は思った。――僕が生きることが彼女の最期の望みだった。だから僕は、生きていく。朔を守って、生きていく。

  三

 離れにはひとけがなく、しんと静まり返っていた。紫苑は足音を消し、廊下を歩む。そこから見える庭の景色は昔から比べるとだいぶ様変わりしているが、生き生きとした自然の息吹きを感じる伸びやかな造りであった。誰が作っているのかは知らないが、まだ途中なのだろう、ところどころに大きな庭石が放置されている。
「だれか、そこにいるのか?」
 紫苑は振り向いた。透流の声だが、ひどく押し殺している。
「御門紫苑だが……、入っても構わないだろうか」
 静かに問うと、声は応えた。
「昴さんは寝ておられますけれど、それでも良ければ」
「…………」
 紫苑は物音を立てないように注意しながら、帳の内側に滑り込んだ。薄暗い部屋の中、透流は白い麻の衣を着て座っていた。長く伸びた黒髪はそのままだが、小綺麗な身なりをしている。きっと燐の好意で整えたのだろう。彼の背後には寝具が引かれ、昴が眠っていた。彼女の右腕は寝具から突き出し、透流の手を握っている。それだけのことを見てとると、紫苑は透流の前に座った。
「朝早くから庭仕事をしていたから、疲れてしまったみたいで」
「そうか」
 透流の昴を見る目は優しい。
「最近は眠れていると聞いたが」
「ええ……。でも、ひとりにすると悪い夢を見て飛び起きるんです」
「それで、そうしているんだな」
「…………」
 透流は、昴に握られている自分の手を見つめた。
「おれにはよくわかりません。昴さんがおれに一体何を求めているのか」
「…………」
「おれが下人だったから、安心しているのかな。都合がいいのかもしれない」
 つぶやきながらも透流の表情はおだやかだ。
「でも、それでもかまわないんです。おれは昴さんの側にいたい。たとえ昴さんがあなたを好きでいても──」
「それは違う」
 紫苑は口を挟んだ。透流が顔をあげる。
「私と彼女の育った境遇が似ていた。だから、自分を理解してもらえると思ったのだろう。そして私は邑を出る手段でもあった……」
「それだけとは思えませんが」
「そうかな。たぶん、彼女は私の側でこんなにもおだやかに眠ることはできまい。本当にこころを許しているからこそ、お前を側に置きたいと思うのだ」
「……よくわかりません」
「私は彼女の望むような存在にはなれない」
 紫苑は視線を逸らした。
「私たちは確かに似ている。だからこそ、こころの隙間を埋め合うことはできない」
「あなたには、桔梗さんがいますものね」
 透流は微笑んだ。
「わかるような気がします……彼女は明るくて、きらきらしていて、まっすぐで──あなたがふさぎこんでもきっと元気にさせてくれる。あなたが何も言わなくても、ただ側にいて励ましてくれる。ずっと、あなたを見ていてくれる」
 紫苑は黙って微笑み返した。透流は何故こんなにもすべてを見通してしまうのだろう。黒々とした瞳は何もおそれるものなどないかのように、強い光を宿している。
「桔梗は、昴どのと少しずつ仲良くなっていると喜んでいた」
 紫苑は昴の寝顔に目を落とす。蒼白な肌に影ができていた。少し痩せたような気もする。
「ふたりが友達になってくれると、嬉しいのだがな……」
「…………」
 透流は黙って昴の顔を見つめる。紫苑は立ち上がった。
「邪魔をした。昴によろしく言っておいてくれ」
「はい」
「…………」
 紫苑は少し迷ったようだったが、ぽつりとつぶやいた。
「私は優しくなどない。ただわがままなだけだ」
「…………」
 透流は黙って彼を見上げる。
「桔梗も、昴も。燐も朔も、壬たちも、もちろんお前も……誰も失いたくない。私の大切なものたちを、手放したくない。たとえ」
 ひとつ、息をのむ。
「私が近くに在ることで相手を傷つけるとしても、それでもなお共に歩んでいきたいと願う。そんなものは本当の優しさではないだろう」
 それが恋ではないとしても、昴の気持ちが自分に向いていたのに気付いていながら、紫苑は桔梗を伴侶に選んだ。それでもなお、昴に自分たちを祝福して欲しいと願っている。昴に桔梗の良い友であって欲しいと思っている。昴のしあわせを、この目で見届けたいと願っている。昴を突き放すことはできない。できれば近くにいて欲しいと思う。これがわがままでなくて何だろう。
「私は、優しくなどない……」
 昴が寝返りを打つ。紫苑に背中を向ける形となった。それから目を背けるように、紫苑は部屋を出ようとする。
「紫苑さん!」
 透流の呼び声。昴を起こしてしまわないか、と紫苑は慌てて立ち止まる。
「おれと、仲良くしてくれますか」
「…………」
 一瞬、息がつまった。
「……ああ」
 それだけを言うのが精いっぱいだった。紫苑は逃げるように部屋を後にした。
 
 紫苑が出て行くのを見送った後、透流は小さく言った。
「昴さん」
「……何よ」
「起きていたでしょう」
「何でわかったの?」
「指先がこう、ぴくぴく震えていたから」
「……嫌な男ね」
 昴は寝具を頭までかぶる。その上から、透流は優しく撫でた。
「泣くのくらい、我慢しなくていいと思いますよ」
「な……泣いてなんかっ」
 言葉が途切れ、昴の肩が大きく揺れた。
「おれ、昔から辛いことがあったら藁に顔つっこんで思いっきり泣いていた」
 大きな手のひらで、ゆっくりと。何度も何度も撫でる。
「昴さんはいつも泣くのが下手だ。見ていられません」
「し、かたないじゃない。ずっと、泣かなかった、んだから」
「昴さん」
 透流は寝具に手をかけた。
「おれのこと、藁代わりにしてもいいよ」
「……とお、る」
 昴が顔を出す。その瞬間、透流の首筋に彼女の腕が巻きついていた。声を殺すことなく泣き始めた昴の背中を、透流はぽん、ぽん、とたたく。華奢な身体。大きく小さく震えるその身体を、透流はまるで壊れものを扱うかのように優しく包む。――そのまま暫しの時間が経ち、
「……はあ」
 意外に早く泣き止んだ彼女は、大きくため息をついた。
「藁は、背中なんか叩かないわよ……」
「あ、そうか」
 顔を上げた昴は目こそ真っ赤に泣き腫らしていたが口元は、気丈に笑っていた。ほっとした表情をする透流に、昴はもう一度抱きついた。
「ありがとう――透流」