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中秋の巻 第一章

  一

 半円の月は、既に西へと沈みかけている。紫苑は盃の中に映ってゆらゆらと揺れる自分の顔を、見るともなしに眺めていた。体にめぐった酒が彼の思考を鈍いものにしている。
「それにしても驚いたね」
 燐の声に、紫苑は顔をあげた。
「まさか今上が直々にうちの屋敷の再建を命じて下さっていたなんて」
「……そうだな」
 紫苑らが都に戻ってみると、以前焼け落ちたはずの橘邸が無言であるじを迎える準備を整えていた。燐はもちろん紫苑も仰天したが、今上ら宮中の意図もわからぬではない。紫苑の秘められた出自が明らかになり、彼は都を離れた。その途端に都には怪異が相次ぎ、都を荒らすもののけどもを彼ほどに鮮やかに調伏できる者は誰もいなかったのである。彼の唯一の友人である橘燐に目を掛けることで、半ば追い出されるように都を出た紫苑のこころを慰撫しようとしたのだろう。――悪くはない考えだ、と紫苑は他人ごとのように思った。結果的に橘家が安泰となるならば、それでいい。
 今、紫苑らはその新しい橘邸にいる。
「でも、助かったよね。正直みんなで紫苑の家に押しかけるのはどうかと思っていたから」
「別に私は構わなかったがな」
 紫苑の口元にうっすらとした笑みを浮かべた。都を出たときは三人だったのに、戻ってきたときには十人近くにも増えていたのだ。いくら御門邸にはかなり余裕があるとはいえ、皆が住まえば少々手狭に感じられたことだろう。
「昴さん……、本当にうちでいいのかな」
 燐がぽつり、とつぶやいた。紫苑は黙って盃を傾ける。
 出雲の国で邑を統治していた玄武の巫女、上宮昴。邑に父母を奪われ、神殿に閉じ込められていた彼女の悲しみは、結果として邑を滅ぼした。それが彼女の本当の望みではなかったとしても、邑人たちの命を奪った罪は彼女が背負わねばならぬ業だ。
「……彼女が望んだことだ」
 紫苑は静かに答える。その声に同情の色はなく、むしろ少し突き放したようですらあった。
 彼女の立場は、確かに自分と似ている。異端の片親を持ち、そしてそれが原因で両親と引き離されて育った。特別な力を持ち、崇められ――しかし本当のところは阻害され、忌諱されてきた。紫苑はひととあやかしの間に生まれ、そして昴はやまとびとではない者の血を引いている。違う、ということがそれほどまでに罪なのか。紫苑にはわからないし、昴とて納得できなかっただろう。その気持ちは良くわかる。それでも、昴のしたことは決して許されることではなかった。それは、今の昴のこころを慮ればこそだ。昴の心持ちは、復讐を遂げた達成感とは程遠いはず。むしろ後悔と、哀惜と……それらに押し潰されないようにと、紫苑は願っている。
「少しのんびりして、気持ちを癒すしかないだろうな」
「……うん」
 燐は視線を落とした。昴は燐の用意した部屋で既に休んでいる。どこかうつろな眼差しが気になるところだが、何ともしてやることができない。もし、彼女のこころに寄り添うことができるものがいるとしたら――。
「大丈夫だ。透流や加乃がいる」
 紫苑は少し微笑んだ。朴訥な大男と、利発な少女。幸運にも死を免れたふたりの邑人は、昴とともに都にやって来た。加乃の兄代わりであった癸は、兄と同じく式神を装って御門邸にとどまることになったが、加乃は昴の側にいることを望んだ。邑を滅ぼし、母の命を奪った彼女を憎んでいないのか――気遣う燐らに、彼女はただ黙って首を横に振るだけだった。
 全てを犠牲に邑を守り続け、しかし最後に邑を裏切った巫女。彼女に守られてきた側のものとして、加乃が何を思うのか――余人には計り知れぬ思いがあるのかもしれない。
 ちりちりと、燭の燃える音が響く。
「そういえば、あのときの怨霊」
 燐はふと思い出したように顔を上げた。
「一体どこへ行ってしまったんだろう。帰ってくる途中にも、噂ひとつ聞かなかったけれど」
「確かに気にはなるが、陰陽寮には星読みに長けた者もいる。何か不穏な動きがあればすぐに私に伝わって来るはずだ。今はまだ、心配するに及ばぬだろう」
「…………」
 すらすらと答える紫苑に、燐はわずかに顔をしかめる。
「どうした?」
「……君は、そうやってずっと都を守っていくのかい」
「え?」
 紫苑は目を見開いた。燐は彼から目を逸らす。
「君を決して受け入れない都のものたちを、君は身体を張って今まで守ってきた……」
 昴を見ていて、燐は紫苑とその姿を重ね合わせてしまった。――彼女と同じように、いつか紫苑も我慢できなくなるのではないか。都を、ひとを裏切るのではないか。そしていつかその時が来たならば、燐はきっと紫苑を止められない。彼の孤独、苦悩をずっと近くで見てきたのだから。
 紫苑は軽く肩をすくめた。
「まあ、それが私の仕事――役割だからな」
「そんな風に割り切れるもの?」
「昔は、本当にそうだった。つまり――都を守ることで、自分はここにいることが許されるのだと、そう思っていた」
 他に選択肢はないと、思い込んでいた。
「だが、今は少し違う」
 揺れる炎が、紫電の瞳に暖かな陰影を作る。燐はそれを見てほっと息をついた。
「……守りたいものがあるんだ」
 ぽつり、と。零れ落ちた言葉は、優しかった。
「桔梗ちゃんのこと?」
 いつでも彼の側に寄り添い、そのたおやかな手で彼を導く存在。その魂に青龍を宿す、あやかし最強の一族が残した最後の御子。しかし紫苑は曖昧に笑うだけで、うなずきはしなかった。
「桔梗だけではない。もっと、私は欲張りだ」
「もっと……?」
「燐、お前とこうして酒を飲むのも好きだ。朔が白虎と戯れているのを見るのも、なかなかにこころが和む。知っているか、最近桔梗と昴が仲良くなった。透流はああ見えて意外と気弱だし、加乃と癸との仲をやきもきしながら見守っている壬の様子も面白い」
 まるで照れているかのように口早に、紫苑は語る。燐の胸が熱くなった。何と友達甲斐のある男だろう。何故あんな人妖と親しくするのか、と陰口をたたく輩もいたが、燐は彼と友人であることを誇りに思う。
 紫苑は少し頬を赤らめているようだった。酔いの為か――それとも。
「誰も欠けて欲しくはない。もちろん、桔梗もだ」
 何か、応えたい。けれど燐の口から出て来たのは、
「……うん」
 という短いひとこと。それでも燐の想いは伝わったのか、紫苑は微笑を浮かべた。綺麗な顔をしていると思う。紫水晶の瞳は穏やかで、あたたかで、それでいて鼻筋や顎、眉目は男性的で鋭利な線を描いている。何も見た目のだけのためではないだろうが、桔梗が惹かれるのも、一時の昴が彼を気にしていたのも、わかる気がした。
「どうした?」
「いや」
 燐は首を横に振る。
「そろそろ帰らないと、桔梗ちゃんが心配するかもしれないよ」
「ああ、そうだな」
 からかったつもりだったのだが、紫苑は意外にも素直に立ち上がった。
「すまない。ついつい長居した」
「構わないよ。またいつでも来て」
「ああ。どうせ癸が来たがるに決まっている。となると、私も一緒でないといろいろとまずいだろう」
 あやかしである癸らを、自由に出歩かせるわけにはいかない。式神のふりをさせるのは心苦しいが、他に方法もなかった。
「そうだね」
 燐はくすくすと笑い、やがてそれをすっと引っ込めた。
「癸くんと、加乃ちゃん……どうするんだろうね」
 紫苑は静かに言う。
「どんな形であれ、ふたりがずっと家族でいられればいいと思うがな」
「…………」
 燐は表情を緩めた。
「そうだね……」

 紫苑が帰り、部屋に残されたふたつの盃。燐は静かにそれらを見つめる。――家族、か。紫苑と桔梗もまた、家族なのだろうか……。
 
 
  二

 紫苑と桔梗の視界に、月はもはや見当たらなかった。秋の気配を滲ませ始めた風は、心地良い温度でふたりの長い髪を乱していく。
「昴さん……、早く元気になるといいですね」
 先に口を開いたのは、桔梗だった。紫苑はうなずく。
「そうだな」
「ひとりじゃないから、きっと大丈夫ですよね」
「ああ」
 紫苑は隣に座る桔梗を、肩に抱き寄せた。
「……そうだな」
 夜半過ぎに帰宅した紫苑を、桔梗ら三人は待っていてくれた。双子の兄弟は紫苑が帰ってくるとすぐに眠ったようだが、彼らはまだ起きている。桔梗は眠くないのだろうか、と紫苑は彼女の顔を覗きこんだ。それに気付き、桔梗は首を少し傾げて彼を見上げる。
「どうかしましたか?」
「眠くはないか?」
「……そうですね、ちょっとだけ」
 笑みを浮かべ、桔梗は紫苑の腕に自分のそれをからめる。
「明日の朝は、寝坊しましょうか」
「壬にたたき起こされるぞ」
「大丈夫、そんな無粋なことしませんって」
「そうかなあ」
 疑いを含んだ眼差しを紫苑は庭に投げる。桔梗は隣でくすくすと笑っていた。
「長い間待たせて、すまなかったな」
「本当ですよ」
 桔梗はぷう、と頬を膨らませた。出会ってから一年。あやかしである彼女はわずか一年で、ひとでは考えられぬほどの成長を遂げた。しかし、このような仕草は一年前と全く同じだ。変わるもの。変わらぬもの。どちらも大切であり、また必要なことでもある。――そして、紫苑はまたひとつ、変えようとしていた。
「また昴さんにせまられていたら、どうしようかと思いました」
「何を、せまられるんだ?」
 きょとんとした顔の紫苑に、桔梗はため息をつく。
「まあ、昴さんも今はそれどころじゃないでしょうけど……」
 何のことだか良くわからない。困惑顔の紫苑の頬を、桔梗はつんつんとつついた。
「そろそろ寝ましょうか。夜が明けてしまいます」
「もうそんな時間か?」
 慌てて立ち上がる紫苑を見上げ、桔梗は両手を伸ばす。
「ん?」
 身をかがめた紫苑の首に、桔梗は両手でしっかりと抱きついた。どうやら抱き上げろということらしい。紫苑は顔をほころばせ、彼女を腕に抱き上げた。
「これでいいか?」
 それには答えず、桔梗は紫苑の額と自分の額とをあわせる。紫苑は目を閉じた。そっと触れ合う唇。
「…………」
 唇を離した後、彼女は顔を赤らめて紫苑の肩に顔をうずめる。紫苑はそれを追いかけるように、彼女の耳元へ唇を寄せた。
「なあ、覚えているか」
「何を、ですか?」
 腕にかかる桔梗の重さが心地良い。
「あの邑に着いた日、私がお前に言ったことだ」
「――――!!」
 桔梗は弾かれたように顔を上げ、彼女を見つめる紫苑と真っ直ぐに目が合った。そのまま視線を剥がせない。
「都に帰ったら……」
 桔梗の声が、震えていた。その先が、言えない。
「ああ、そうだ」
 紫苑はうなずく。
 湯煙に包まれたふたりだけの世界。そこで交わされた、約束。それはふたりを変えるものであり、そしてずっと変わらないでいるためのもの。
「…………」
 紫苑は再びその言葉を口にしようとして、しかしそれは桔梗の唇で塞がれた。紫苑が口をつぐむと桔梗はすぐに離れ、俯いて激しく首を横に振る。
「だめ。しあわせで、死んでしまいます」
「では言わないでおこうか」
「だめです。夢みたいで信じられませんから、ちゃんと聞かせてください」
「私はどうすればよいのだ」
 紫苑は思わず笑いを零し、桔梗を抱えたまま立ち尽くす。彼女の顔は既に真っ赤になっていた。――可愛らしい、と思った。
「桔梗」
「…………」
 潤む瞳に、自分が映っている。
「私でいいのか?」
 言外に込めた意味を、桔梗は悟っただろうか。半妖である紫苑に子は成せない。ここで彼女がうなずくということは、鳳凰族と水龍族、双方の血が途絶えることを意味する。だが、桔梗の決断は早かった。もうずっと以前から、こころを決めていたのかもしれない。
「紫苑じゃないと、だめなんです」
「そうか」
 紫苑は桔梗を抱く腕に力を込めた。
「それは、私もだ」
 いつの間にこんなにこころ惹かれていたのか、わからない。気がついたときには既に恋していた。今もずっと、こんなにも――恋している。言葉もなく、ただじっと見つめあった。そのうち、
「……あ」
 視線を東の空に投げ、桔梗が小さくつぶやいた。かすかに地平線が白んでいる。小鳥の囀りも聞こえてきたようだ。
「夜が明けてしまうな」
「ど、どうしましょう」
 桔梗は慌てるが、紫苑はむしろ落ち着き払っているようだった。
「仕方ない、昼まで寝るさ」
「え、でも……」
「あいつらも無粋な真似はせぬだろう?」
 片方の口元でにやりと笑ったその顔は、紫苑があまり見せないような少し意地悪な表情で――桔梗はぞくりと身を震わせた。彼の見せるどんな顔も、桔梗の視線を釘付けにして離さない。
「桔梗」
「はい?」
 強い口調で名を呼ばれ、桔梗は紫苑を見下ろす。彼は彼女を見ていなかった。ただ、真っ直ぐ前を睨みつけている。
「決して――離しはしないから」
「……はい!」
 笑みと、少しばかりの涙が零れる。しあわせ過ぎて、まるで夢を見ているようで、桔梗は小さく自分の手の甲をつねってみた。
「痛っ」
「馬鹿なことを」
 赤くなったそこに、紫苑が笑って唇をつける。まるで誓いを立てるように、恭しく――。

 変わるもの。変わらぬもの。変わっていくもの。変えていくもの。全てが少しずつ、動いていく……。