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昴の巻 第四章

  一
  
 屋敷に戻った頃、ぽつぽつと雨が降り始めた。
 紫苑は怪我を治療するという桔梗に連れられ、部屋に入る。落下する紫苑を桔梗がとっさに濃い雲状のもので受け止めてくれたお陰で、彼にたいした怪我はない。蹴り飛ばされた腹部に鈍痛が残る程度で、外傷ではないから治療のしようがないはずなのだが、紫苑は異を唱えなかった。桔梗に話しておかなければならないことがある。そして、壬には聞かせるわけにはいかないのだ。桔梗は気付いただろうか。だからふたりになろうとしたのだろうか……。
「紫苑?」
 彼の手を引いて、桔梗が床に座らせる。
「まだ痛みますか?」
「それほどではない」
「……ってことは、全く痛くないわけでもないってことですよね」
 ――鋭い。思わず視線をそらす紫苑に、桔梗は強い口調で迫った。
「脱いで下さい」
「……は?」
「やられたところ。見せて欲しいんです」
「い、いや、大したことは……」
「それは私が、客観的に判断させてもらいますから」
 ――そんなに怒って、客観性も何もないと紫苑は思う。だが、彼女をこれ以上怒らせたくはない。そもそも、桔梗は何故怒っているのだろう。
 紫苑はもぞもぞと脱ぎ始めた。袴を残し、前をはだける。少し、恥ずかしい。桔梗は真剣な表情でその小さな掌を彼の胸から腹へと滑らせた。吸い付くようなしっとりした柔らかな感触のものが、そうっと触れていく。ただ体の具合を見てくれているだけだというのに――背中がぞくりとした。
「紫苑、知っていますか?」
 桔梗が静かに問い掛ける。
「ひともあやかしも、その体を作るものは同じ。火と、土と、水と――」
「ああ」
 紫苑は頷いた。
「火は、命を燃やす。体を変化させていくもの。背が伸びるのもそうだし、ものを食べてもまたお腹がすくのもそう。体が温まるのも、火のおかげ」
「……そうだな」
「土は形を作る。どんなに年を取っても変わらない、その者の形を。魂を、心を容れる器を、作る」
 それは紫苑が陰陽道で学んだことと酷似している。――ふと紫苑は疑問に思った。桔梗は一体、いつそんなことを学んだのだろう。青龍の持っていた知識だろうか。
 彼女はただ淡々と続ける。ちょうど、紫苑が思い切り蹴られた場所に手を置いて。
「水は――維持する。その者の体温が大きく上下しないように、いつだって等しく鼓動が刻めるように、変わらないものを大切に守る役目」
 ――とくん、とくん。桔梗の掌が触れている場所に、何かが流れ込んでくる。
「私たちは『殺戮者』と呼ばれていたけれど、本当は水を操るのに長けているのだから」
 見上げた彼女はにっこりと微笑んだ。
「こんなこともできるはずなのですよね」
 痛みが――引いていく。紫苑は驚きをもって彼女を見つめた。
「まだ、痛みますか?」
 桔梗の手が肌から離れていく。
「い、いや」
「良かった」
 桔梗は微笑んだが、すぐにその表情は引っ込んでしまった。愛らしい頬に影が差す。
「……どうして」
「何?」
「どうして紫苑が戦う必要があったんですか」
「え……?」
 紫苑は目を瞬かせる。それが彼の役割だった。目に見えぬもの、妖異と戦うこと。それは彼に課せられた任務だったのだ――都では。
「ここでは我々は客人」
 桔梗はきっぱりと言う。
「面倒なことに巻き込まれねばならない筋合いはないはずです」
「そ、それはそうなのだが……」
「それとも」
 強い眼差しが彼を射た。
「紫苑には、何か理由でもあるのですか……?」
 ――桔梗は怒っている。先ほどまではどうやら心配が先立って平静を取り戻していたようだが、治療も済んだ今ははっきりと怒気が彼女の体を包んでいた。紫苑は何故自分が怒られているのかわからない。だが、何か答えなくては。紫苑は必死に頭を回転させた。
「わ――私は」
 桔梗は少しもそらさずに紫苑を見ている。
「ここに我々が滞在する以上、自分の身は自分で守らなければならない。だから――」
「紫苑は」
 遮られ、紫苑は黙り込む。
「自分の身を守ってはいないではないですか。むしろ危険に晒した」
 桔梗は言い募る。
「あのひとを――巫女を守るために、自分を危険に晒したんじゃないですか……!!」
「それは……」
 ――違う。紫苑は首を横に振った。あの時、あの巫女を守ろうとしたのではなかった。勿論、手に届くところにいたから庇ってはやったが……それだけのことなのだ。彼にとってはひどく本能的な行動だった。
「では」
 紫苑は静かに桔梗に問い掛ける。
「他に私に何ができた?」
「え……?」
 桔梗は戸惑ったように紫苑を見つめた。
「突然屋根が崩れたかと思えば、死体が落ちてきた。その状況で」
 手を桔梗の細い肩に置く。
「私に一体何ができた……?」
 屋内に留まれば危険は増す。袋のねずみも同じだからだ。攻撃する側にとってそれほど有利な状況はないだろう。――だから、
「外に飛び出すしかなかった。そこに『誰か』がいるのが分かっていても」
「……でも」
 桔梗の視線が強さを失って下がっていく。
「でも……、ひとりで戦わなくても良かったんです……」
「ああ、そうだな……」
 紫苑は掴んでいた肩を引き寄せた。そっと抱きしめる。
「お前が来てくれたじゃないか」
「それは……嫌な予感がして」
「私も」
 紫苑は細い銀髪を撫でながらつぶやく。
「お前が危険な目に遭っていたら、ちゃんと気付いてやれるだろうか」
「え?」
「私はお前ほど敏感ではないから、自信がない」
「だ……大丈夫です」
 桔梗の機嫌は直ったのだろうか、彼女の手がおずおずと彼の背中を抱きしめた。
「私が呼びますから……ちゃんと、紫苑にも聞こえるように」
「……そうか」
 紫苑はそれだけを答え、彼女の髪に顔を寄せる。――しばらくそうしていた彼は、やがてぽつりとつぶやいた。
「敏いお前のことだ――もしかして」
「…………」
 桔梗の体が強張る。
「では……やはり、あれは」
「多分、そうだろう」
「何故……」
 搾り出すような桔梗の声を聞きながら、紫苑は唇を噛み締めた。脳裏に浮かぶのは、壬の姿。
「何故……」
 桔梗はもう一度、つぶやいた。
 
 
  二
  
「昔、誰かに聞いたことがある」
 紫苑は桔梗を離し、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「海の向こうには、髪や目の色がひととは違う――大和びととは違うなりをした者たちの棲む国があると」
「え……」
 驚いたように目を見開く桔梗に頷いてみせる。
「じゃ――じゃあもしかすると」
「あの巫女は」
 紫苑はきっぱりと言う。
「あやかしの血など引いていない」
「…………」
「何のために紛らわしいことを言ったのかは知らんが、それは間違いない。もし何らかの力を使えるとしても、それはきっと玄武のものを借りているのだろう」
 ――何のために、って? 桔梗はため息をついた。
 雨音が聞こえる。いつの間にか勢いが激しさを増したようだ。
 この人は、本当に鈍い。そんなこと、決まっているではないか。孤独な身の上の紫苑に取り入るためだ。自分も彼と同じ、半妖なのだと装ってみせることによって。紫苑の陰陽師としての技量を見くびっていたせいで、こうやって看破されてしまったけれど――もしかすると危うかったのかもしれない。この世でたったひとりしかいないと思いながら生きてきた半妖。それに、もし――もし、仲間がいたら……。以前も胸をよぎった不安が、再び大きく広がる。――紫苑は仲間よりも私を選んでくれるだろうか……。
 紫苑はそんな桔梗の気を知ってか知らずか、彼女の髪をくしゃくしゃと撫でた。顔を上げると飛び込んでくる、彼の笑み。
「お前が何を心配していたのかは知らんが」
「…………?」
「私が簡単に他人を信用すると思ったか?」
 ――他人……。桔梗の胸がずきりと痛んだ。
「私はそもそもあの巫女を信用してはいない。だが、これでますます信用できなくなったな」
「……紫苑」
「何だ?」
 桔梗は顔を伏せた。
「私のことは……信用してくれていますか?」
「…………」
 わずかな沈黙の時間が、永遠にも思われた。やがて、紫苑はふう、と息をつく。
「私は信用していない人間の側で寝られるほど、豪胆ではないぞ」
「…………」
 視線で問い掛けると、彼はしっかりと頷いてくれる。
「それに、今更何を言っているんだ」
「え?」
「言っただろう。『私はお前を怖がらない』と」
 桔梗の瞳が驚きに見開かれた。紫苑の笑みが優しい。
「それは、お前を信じているからに他ならないのだぞ」
「……あ……」
 ――嬉しい。出会って間もなかったあの頃から、紫苑は自分を信じていてくれたのだという。自分が紫苑に対する想いを自覚する前から、ふたりの気持ちが通じ合うよりもずっと前から、紫苑は彼女を信じてくれていた……。
「お前は敏いが」
 紫苑にぐりぐりと頭を撫で回される。
「肝心なところで鈍いのだなあ」
 惚れた女を信用しない男がどこにいるというのだろうか。そんなことを考えて、紫苑は思わず顔を赤らめた。