昴の巻 第六章
一
「御門どの……?」
長老派の中から、畏れを含んだ声が上がった。無理もない。紫苑は濡れた顔に苦笑を浮かべる。この邑の術者が束になっても、彼の傍らにあるあやかしには勝てない。癸にも、そしてこの場にはいない壬にも――紫苑自身、きっと誰にも負けないだろうと思った。
「いかにも。私が御門紫苑です」
軽く礼をする。
「邑をあげてのこころ尽くしのご歓待、痛み入ります。御礼申し上げる」
「今はそれどころでは」
「もうひとり、もうひとりいたはずだ!」
口々に叫ぶのを、先頭の男が抑えた。静かに問い掛ける。
「もうひとりの客人はいかがなされたか?」
紫苑はすう、と目を細めた。
「その前に、御名をお教えいただけますか」
「睦月穂波と申す」
「睦月どの……」
紫苑はことさらゆっくりと言った。
「もうひとりの友、壬の行く先は我らも存じてはおりませぬ」
「何?」
「探そうとした矢先、ここが騒ぎになっていると知らされましてな」
「……左様ですか」
紫苑は意味ありげに癸を眺めた。
「血を分けた弟君なら……あるいは」
「…………」
言われるまでもなく、癸は泥の中に座り込んだまま静かに目を閉じている。あまりに離れていては気配が感じ取れないが、近くならば感覚を研ぎ澄ませば分かるはずだ。
──それは、思いのほか近いところにあった。巫女の住まう神殿。
「────!!」
癸の顔から血の気が引き、門を飛び越えると社の中へと消えた。
「なっ……」
驚きの表情を浮かべる睦月らに、紫苑は静かに言った。
「ここは我らにお任せ下さい」
「し、しかし」
「不肖の身ではございますが」
紫苑は振り返って微笑む。
「今上より陰陽博士を拝命致しております身なれば……どうか」
「…………」
やがて、睦月はゆっくりと頷いた。彼の背後から異義の声があがるのを聞こえないかのように無視し、紫苑は桔梗を促す。
「ゆくぞ」
「……はい」
自然と重ねられた手に、桔梗は顔をほころばせた。
二
唐突に出現した気配に、彼女が慌てることはなかった。
「何者ですか」
静かに問い掛けると同時、扉が吹き飛ぶ。
「…………」
昴が振り向くと、そこに白銀の獣がいた。眇められた瞳は濃い青。その視線に、肌がひりつくような殺気を感じた。気を抜くと震え出しそうになる体を叱咤し、昴は真っ直ぐにそれを見据える。
「あんたが巫女、か?」
「いかにも。して、そちらは?」
「……俺か?」
獣は薄く笑った。
「まあ俺のことはどうでもいい」
「…………」
「それに」
冷ややかな激情が、彼の表情の中に荒れ狂っている。
「予想はついてるんだろ?」
「貴方が何者かは分かります。しかし」
昴は気丈な眼差しを保った。
「何故、貴方がここに来たのかは分かりません」
「…………」
獣の浮かべていた笑みが消える。
「そうか」
「?!」
昴は玄武の力が引きずり出されるのを感じた。皮膚から無数の細い針がつき出してくるような感覚――痛みはないが、彼女はいつまでもこの感触に慣れることができない。
――からん。彼女の周りの床に落ちたのは、透明で鋭利な刃。それは氷でできたものなのだと気付く。
「……へえ」
獣は小さく口笛を吹いた。
「玄武の力ってのは、そういうものか」
水に住まう青龍、炎が生んだ朱雀、風を束ねる白虎、地を駆ける玄武。
「重さを与えたんだな……なるほど」
「…………」
昴は黙ったまま獣を見つめる。先ほどの攻撃は、恐ろしく早かった。彼女自身にはとても対応できなかっただろう。彼女には玄武の力を自由に操るほどの能力がないゆえに、半ば自動的に守られている。彼女に迫った危機に反応して、玄武の力が発動するのだ。情けない、と昴は思う──いっそこの身にあやかしの血が流れていれば……。
「今のはただの礼だ」
獣は片手を広げ、彼女の目の前に突きつけた。昴の喉が小さく鳴る。
「俺の弟に対する仕打ちに対する……な」
「仕打ち?」
彼女は薄く笑った。
「私は邑に彼を受け入れることを決め、長老らから庇護したつもりですが」
「都合のいい手駒として使うためにな」
「何のことです?」
「今日、紫苑と力を交えた者。あれは癸だ」
ぽつり、と告げられた声は無表情だった。
「…………」
「俺には分かる。同じ血をふたつに分けて生まれてきたんだからな」
昴はきっと睨む。
「私は彼の者に襲われたのですよ」
「本当に襲うつもりなら、屋根など落とさないさ」
獣は危険な笑みを浮かべた。
「壁や天井越しだって、気配が読めればそれでいい。就寝中なら更に楽だ。首の位置に」
「…………」
昴ははっとした。獣の銀髪が揺らめいている。
「こうやって刃を降らせばいいんだからな!」
飛び来る無数の氷塊に、昴は絶望的な思いで力を展開した。ばらばらと音を立てて落ちていく氷刃たち。精神力が吸い取られていくのを感じる。妖力を持たない昴は、玄武の力をその意志の強さでもって何とか具現化させているのだ。彼女が気を失えばその先にあるのは……死。
──嫌!
昴は奥歯を噛み締めた。
──こんなところで死ぬ訳にはいかない!!
胸元の首飾りが浮き上がる。昴はそれを見つめることで、精神の統一を図った。
――助けて……母さん、父さん!!
そのまま、どれほどの時を耐えただろう。
「…………?」
ふと気付くと、攻撃がやんでいた。怪訝に思いながらも力を解く。目の前に佇む獣は、彼女を見ていなかった。体を斜めにずらし、彼の後方を振り向いている。
「癸」
「兄さん」
ふたりの言葉が発せられたのは、同時だった。
三
「何で」
壬はぽつりとつぶやいた。
「何で、お前が」
「…………」
癸は険しい表情で立ち尽くしている。昴の方を見ようとはしなかった。
「この女に脅されたのか?! なあ、何でだよ?!」
兄は焦れたように叫ぶ。
「何でお前が、あんなふうに殺すなんて……!!」
「兄さん」
癸が口を開く。昴は何を言うつもりかと、彼の無表情な顔を見守る。
「兄さんは、僕が人間を殺すことが嫌なの?」
「…………!!」
壬ははっと息を呑んだ。
「もし僕が長老たちを殺したとして……、どうしてそれを兄さんが怒るの? 兄さんは」
癸は静かに微笑む。
「ひとのこと、嫌いでしょう? 僕たちの一族を滅ぼした、仇なんだから」
「……それは」
「それとも、兄さんは変わったのかな? あのひとに――紫苑さんに出会って」
「そ、そういうわけじゃ」
「じゃあ、どうして?」
「…………」
壬はぐっと拳を握り締めた。
「それは……」
「癸さん」
昴は声を上げる。癸が少しだけ視線を上げ、そしてまたすぐに降ろした。
「貴方が……長老さまたちを殺したのかしら」
壬の鋭い視線を感じる。きっと、彼女がしらばっくれていると思っているのに違いない。癸は強張った表情を崩そうとしなかった。
「答えたくありません」
「癸!」
「兄さんは黙ってて」
「貴方でないというのならば」
昴はただ癸だけを見つめている。
「それで構わないのですよ? 私は貴方を信じていますから」
「…………」
癸の肩がぴくりと動いた。
「もしかしたら」
昴の視線が癸から外れ、壬の上に固定される。
「貴方かもしれない」
「なっ……」
「昴さんっ?!」
癸が声を上げた。
「お、俺はあの日ずっと桔梗と一緒だったぞ?!」
「その、『ききょう』とかおっしゃる方は信用に足るのかしら?」
昴は落ち着き払って言葉を重ねる。
「その方と癸さんを比べるのならば、私は癸さんを信じますわ。私癸さんのことなら良く存じ上げていますから」
「…………」
良く似た表情で自分を睨みつける兄弟に、昴は笑みを零した。
「さあ、どうなさる……?」
「――さて、どうしましょう」
その声は背後から聞こえた。覚えがある、高く澄んだ女の声。確か、以前闇の中から響いてきた……。
「今日は来客の多い日ですこと」
昴は振り向くこともなく、視線をそちらへと流す。
「貴方が閉じこもっているから、こちらから出向くしかないのですよ」
「紫苑! 桔梗!」
「…………」
壬がほっとしたように彼らの名を呼ぶ。癸は警戒した様子で黙っていた。
「それにしても……お前が気付いていたとはな」
紫苑は苦笑を浮かべ壬を見つめる。本当は気付かせたくなかった。自分の弟が長老たちを殺して廻っているなど、壬にとっては愉快な話ではないと思ったからだ。
確かに、壬はひとを憎んでいるだろう。その気持ちは今も変わらないのかもしれない。だからといって、壬は本当にひとに対してその力を奮ったことがあっただろうか。無力な、抵抗できないものの命を奪うことなど、彼はきっとしないだろう。それは彼の水龍としての矜持であり、甘さなのかもしれなかった。そして、紫苑はそういう彼の矛盾したところを好ましいと思っている。
「兄弟なんだ」
壬はぽつりと答えた。癸がはっと兄の顔を見つめる。
「あの時……、俺はこいつを見失った。護れなかった。だから……」
「…………」
桔梗がひどく優しい顔で兄を見つめているのに、癸は気付いた。まるで姉のような、母のような。全てを包み込むような微笑。――これが御子か、と癸は思った。
「さて」
紫苑が口を開く。昴が振り向き、彼と対峙するような形になった。
「この辺にしていただきましょうか? 異国の血を引く、異端の巫女どの」
「…………!」
昴の表情から笑みが消え、代わりに驚愕が蒼白な顔に広がる。
「貴方の復讐劇も、これまでだ」
紫苑の横で、桔梗は微笑んでいた――だから警告したでしょう? とでも言うように。