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昴の巻 第五章

  一
  
 ばたばた、と廊下を駆ける音がした。それは真っ直ぐにこちらへと近付いてくる。紫苑が服を着直すのとほぼ同時に、帳が開けられた。
「御門さま」
 肩で息をつく梓の顔は青ざめ、普段の冷静沈着な様子はどこにもない。
「どうしました?」
「大社の前にひとだかりが……長老の一族郎党の方のようです」
「長老の?」
「ええ。巫女さまを出せ、と……巫女派の方も集まって来ておられます。今は睨みあっておられるだけですけれど、このままでは!!」
 悲鳴のような声に、紫苑は立ち上がった。
「紫苑?」
 見上げる彼女の手を取って立たせる。
「いい加減、決着をつけるしかないな」
「それにしても」
 桔梗は冷ややかな水色の瞳で梓を一瞥した。
「随分と都合のいいこと」
「…………」
 梓はただ黙って俯いていた。その表情からは何も読み取れない。桔梗はそれ以上彼女に声を掛けず、一歩先を行く紫苑の背中を追った。肝心なことは何ひとつ話さず、困ったときだけ利用しようとする。桔梗は、紫苑がそんな風に扱われるのが嫌でたまらない。半妖だと蔑みながらも手放そうとしない、都のひとびとを思い出すから。――紫苑は道具じゃない。物じゃない。ちゃんと、こころがある。何故それをわかろうとしないのだろう。彼のこころに触れようとしないのだろう。こんなにきれいで優しい、美しいこころを持っているのに。
「……巻き込んで、すまないな」
 屋敷を出るときに小さく告げられた謝罪。桔梗は首を横に振った。針のように細い雨が、彼らの体から静かに熱を奪っていく。
「行きましょう」
 屋敷に壬の姿はなかった。もしかすると、騒ぎを聞きつけて先に行ったのかもしれない。――壬は、気付いていないのかもしれない。紫苑と戦ったのが一体誰なのか。桔梗は奥歯を噛み締める。ぎり、と不快な音がした。
 
 
  二
  
 雨でけぶってよく見えない。だが、自分が対峙している人数は、自分の背後にいる者の数よりも多いのは確かだった。彼らは、巫女の敵たち。そして、彼の敵。
「癸さん……」
 加乃が小さく、怯えたような声を出す。本当は彼女をここに連れて来たくはなかった。彼女の怯えが、自分に向けられるのが怖い。化け物を見るような――そう、ちょうど今彼に突き刺さっているたくさんの視線と同じ、こんな目で彼女に見られたら、彼はきっと正気ではいられない。
 ――最初から、そういうつもりだったのか。
 癸は小さく舌打ちをした。多分、雨音で聞こえない。
 ――あの女……まんまと利用してくれたな。
「そこをどけ」
 一歩進み出たのは、確か睦月家の長男だ。先日当主が亡くなったから、次からは彼が長老衆に加わることになる。まだ壮年の彼に「長老」という言葉は似合わないが。
「どいたら、どうするつもりですか」
 我ながら、ひどく落ち着いた声だった。体の中を冷たい炎が駆け巡っている。これが水龍の力なのかもしれない。かつては決して使わないようにしていた、力。誰かを傷つけるのは嫌だった。だがそれは、多分そうまでして守るものがなかったから。今は違う。
「巫女――上宮昴に、聞きたいことがある」
 男は真顔になった。
「あれは、本当に『祟り』なのか――とな」
 癸は小さく苦笑した。
「何故そんなことが彼女にわかるのです?」
「……おい」
 最初に先頭を切っていた男の背後から、もうひとりの男が進み出た。こちらは水無月の家の者だったか。
「お前は所詮よそものの、しかもあやかしだろうが。何も知らんのなら黙って引っ込んでおくことだな」
「……それはどうでしょうか」
 わざと聞こえないようにつぶやく。だが、癸はすぐに声を張り上げた。
「こんなところで押し問答をしていても風邪を引くだけです。今日はお引取りいただけませんか?」
「そしてまた今夜誰かが死ぬんだ。そうだろう?」
 誰が発したのか分からないその声が引き金となって、目の前のひとだかりが発する殺気は膨れ上がった。
「そうだ! あの女のせいで」
「そもそも、俺はあやかしをこの邑に入れるのは反対だったんだ」
「父上だってそうだった――」
「それを強引に」
「『お力』をかさにきて」
「そもそも皆、あの女が殺したんじゃないのか!!」
 その言葉が一際大きく響くと同時に、空を切り裂いてひと粒の小石が飛来した。誰が投げたのかも分からないそれを、癸は手も動かさずに打ち落とす。降り注ぐ雨を、水でできた薄膜に変えたのだ。
「癸さん」
 加乃が彼の袖を引く。
「このままじゃ危ないよ! 長老家は強いんだ。代々術者の家系だもの……」
 実際、数人の者が何か呪を詠唱している声が聞こえる。彼らの力が兄を退けた御門紫苑に及ぶとは思えないが、何分にも多勢に無勢である。そして、癸の背後に佇む少数の邑びとたち。彼らを危険に晒すわけにはいかない。彼らは癸を守ってくれたひとたちなのだから。
「でも」
 彼は振り向かなかった。
「ここを通したら、巫女さまが」
 この興奮した者たちが、巫女を目の前にした時一体どういう行動に出るか。想像に難くはない。
「そうしたら、僕ももうここにはいられない――」
「癸、さん……」
「それは嫌なんだ」
 少しだけ振り向いて、癸は加乃の顔を見た。彼を心配する黒い瞳。彼女を、守りたい――そのためなら……僕は鬼にだってなる。
 癸が身構えたとき、突然に「それ」は襲い掛かってきた。思わず足元がふらついたくらい、強い水流。横殴りの激しい雨かと思ったが、そうではない。雨はこんな塊では降ってこない。――これは……。
「少しは頭を冷やした方がいいと思いますよ」
「桔梗、やりすぎだ」
 穏やかでありながら毅然とした細い声と、苦笑を含む低い声。聞き覚えがある。
「紫苑さん。それと――桔梗……さん?」
 呆然と癸はつぶやいた。ちょうど、相対している彼らを頂点として正三角形を形作る位置。
「はじめまして、癸さん」
 静かに微笑む桔梗と目が遭って、癸はずぶぬれの体をぶるっと震わせた。
 
 
  三
  
「早かったわね」
 昴は玄武の力によってもたらされる外の様子を聞きながら、苦笑を浮かべていた。――まさか、こんなに早く自分が疑われるとは。
「そこそこ従順にやってたつもりなんだけどな」
 部屋の片隅に置かれた壺にちらりと目をやる。髪染めの染料が入った壺。だが今、彼女の髪は生来の黄金色に輝いていた。
「それにしても『祟り』だって……『祟り』」
 くすくすと笑う。その様子は、心底おかしくてたまらないといった様子である。
「情けないと思わない? 母さん、父さん」
 身につけたまま決して離すことのない、首飾り。「ろざりお」というのだと昔聞いたような記憶があるが――定かではない。
「貴方たちを殺すと決めたときは、迷わなかったのにねえ――」
 雨音も響かない、この場所からようやく出て行ける。
「それにしても」
 昴はふと首を傾げた。青い瞳が疑惑をたたえて細められる。
「彼……どこまで気がついているのかしら?」
 その問いに答えるものは、どこにもいなかった。
 
 
  四
  
 桔梗の側で肩を落としていた紫苑が、癸の方へと歩いてくる。泥が跳ねて彼の藤色の袴の裾を汚した。
「?」
 不思議そうな顔で癸が見ていると、不意に紫苑が動いた。――早い! 避ける間もなく、癸は吹き飛ばされる。腹に感じる圧痛。唇から何かが零れた。喉が焼ける。蹴飛ばされたのだとわかった時には、既に体が地面に激突していた。泥の中にたたきつけられた彼に、加乃が駆け寄ってくる。
「癸さん?!」
「だいじょ……ぶだよ」
 癸は咳き込みながら紫苑を見上げる。非難はしない。抗議の声も上げない。紫苑は無表情に彼を見下ろしていたが、やがて唇の端をきゅっと吊り上げた。
「借りは返したぞ」
「――――!!」
 彼は、気付いていた……! 癸は微笑む。本当は大声を上げて笑い出したかった。蹴られた腹が痛むが、そんなことはどうでもいい。彼は気付いていた。気付いていたのだ……!
 雨と混じって涙が流れ落ちる。
 ――やっぱり、僕に鬼は向いていないのかもしれないな……。こんなにも安堵している自分に驚きながら、癸は目を閉じて空を振り仰いだ。雨が、気持ち良かった。