instagram

昴の巻 第二章

  一

 稲穂があおく、目に眩しい。壬はそれらを手入れする弟を眺めながら、口を開いた。
「なあ……、最近邑で何か変わったことはないか?」
「変わったこと?」
 癸は腰を伸ばし、汗を拭う。
「どうして?」
「いや……」
 壬は一瞬逡巡したが、すぐに続きを口にした。
「なんかな、足止め食ってるんだ。俺たち」
「足止め……?」
 癸は眉をひそめる。
「当分、この邑を出て行くなってさ」
「…………」
 癸は暫し沈黙した。
「何か心当たりはないか?」
「……ないわけじゃない。でも」
 癸の表情は硬い。
「でも?」
「…………」
 癸は顔を上げ、壬を真っ直ぐ見据えた。藍色の眼光は鋭く、やはり癸は自分と同じ水龍なのだと思い知らされる。だが、壬の感慨をよそに癸の声は固く強張っていた。
「兄さん。その髪のままここに来られると、ちょっと困るんだ」
「……え?」
「僕はいいけれど、加乃ちゃんやおばさんにまで迷惑が掛かる」
「…………」
 壬は信じられない思いで、茫然とした。
「この間はそんなこと、全然」
「あれは特別だよ。巫女さまのお許しがあったから」
「な……」
 壬は頭に血が上るのを感じた。
「何だよ、それ」
「…………」
 癸は答えない。
「どいつもこいつも巫女さま、巫女さま。そんなに偉いのかよ、そいつは!!」
「……違うんだ」
 癸は言った。小さな声だったが、壬ははっと息を飲む。癸のまとう空気は、あまりにも切迫したものであった。
「この邑は、巫女派と長老衆派に分かれている」
 誰かに聞かれるのを恐れるかのような、小さな声。
「この邑のあやかしを守っているのは巫女派で、長老衆側はそれが気に入らないんだよ。隙あらばあやかしを追い出したいと思っている」
「だから……」
 壬は自分の髪を一房、手に取った。夏の光に照らされて白銀に輝いている。
「俺がこのまま出歩くと、巫女の立場を悪くするかもしれん訳だな。それに、長老派に見られたらお前の世話になっている家族にも迷惑が掛かる、と……」
「……うん」
「そう、か……」
 壬はため息まじりに言葉を吐き出す。
「ごめんね、兄さん」
 癸はうつむいた。
「お前のせいじゃないさ」
 壬は笑った。
「俺が出るのが良くないなら、お前から来てくれればいい。それだけのことだ」
「……兄さん」
 癸は驚いたように目を見開いた。
「来てくれるだろ?」
「……うん」
 癸は微笑む。
「変わったね。……兄さん」
「そうか?」
 壬は不思議そうな顔をしているが、癸は笑って頷いた。──そう、兄は変わった。かつてはもっと苛烈で、容赦ない性格だった。強大な力を躊躇なく振るうさまは、同じ水龍の者たちさえも恐れさせることがあったのを覚えている。仲間への情に厚いところは今も昔も変わらないが、その負の部分──怒りっぽいところは、今ではかなり影を潜めている。代わりに、包容力を感じさせる穏やかな威厳が備わったようだ。
 ――あの人のお陰なのかな。あの風変わりな半妖を思い出す。飄々として、どこかとぼけたような無表情。神秘的な色の紫の瞳からは、暖かな温もりを感じた。──あの人も、兄も巻き込まれないといいのだけど……。
「兄さん」
 癸は意を決し、口を開いた。どうせいつかは兄の耳にも入ることである。
「実は今、次々に長老衆が殺されている」
「何?」
 壬が驚いて声を上げる。癸はごくりと唾を飲んだ。
「犯人は、まだ分かってない……」
「そりゃあ、お前」
 壬は声を低める。
「怪しいのは分かりきってるじゃないか」
「え?」
 癸は驚いて兄を見た。その横顔は思いのほか険しい。
「長老衆がいなくなって、一番得をするのは誰だ?」
 癸は思い当たって顔を引きつらせた。
「兄さん……、まさか」
「そう」
 壬は頷いた。
「巫女だよ」

  二

 二度目にまみえた昴は、その髪を黒く染めていた。
「わざわざお越し下さいまして、ありがとうございます」
「…………」
 紫苑は無言で頭を下げる。昴は彼の無愛想など気にも留めない様子で艶やかに微笑んだ。
「本日お呼び立て致しましたのは、ご相談したいことがあるからなのです」
「よそものである、私に?」
 嫌みでなく心底不思議そうに聞き返した紫苑に、昴は困った顔で笑う。
「第三者の公平な目線というのは、このように閉鎖された邑では貴重なのですわ」
「なるほど」
 紫苑は頷く。
「伺いましょう」
 良く晴れた日中であるにも関わらず、薄暗い室内。紫苑の白い衣と昴の薄紅の衣がぼんやりと浮かび上がっている。
「……この邑には」
 昴はゆっくりと、しかしなめらかに話し始めた。
「代々の巫女である上宮家と、十一の長老家がございます」
「十一?」
「睦月から師走まで──神有月以外の月の名前を冠しておられますので」
 紫苑は視線で先を促した。ふたりの距離は、僅か数歩。
「その家の当主が長老と呼ばれ、この邑を実質的に治めている」
「では」
 紫苑は鋭く口を挟む。
「巫女の役割は?」
「…………」
 昴は口をつぐみ、紫苑を見つめた。
「上宮家は何のために存在するのです?」
 紫苑は目をそらさない。
「…………」
 暫しの沈黙――やがて、昴が口を開いた。
「我々代々の巫女は、玄武の言葉を伝える役目を負っております。政治上の重要な案件や、大きな事件があったときに、巫女の意見が求められるのです」
「そうですか」
 紫苑はあっさりと頷き、それ以上の追求をやめた。
「お話の腰を折ってすみませんでした。どうぞ続きを」
「……はい」
 昴は目を伏せた。桔梗のものよりは少し濃い青の輝きが、睫毛の下に隠れる。
「その長老の方々が、何者かによって次々と殺害されている……」
 ――桔梗の言っていた通りか。紫苑はすっと目を細めた。口さがない都の者たちをも沈黙させる、鋭い眼光が現れる。
「詳しくお聞かせ願えますか?」
「殺害されたのは、睦月、水無月、文月、師走、葉月の皆さま。ご就寝中に寝所の中でお亡くなりになっていたそうです」
「一、六、七、十二、八……」
 紫苑はつぶやいた。
「特に規則性があるわけではありませんね」
「はい」
「殺害方法は?」
「恐らくは首を絞められたものと思いますが、凶器は今のところ分かっていません。ただ……」
「ただ?」
「遺体の周りが濡れていた、と。それも、とても冷たい水で」
「冷たい、水?」
「それから……」
 昴はす、とひと切れの紙を木の床に這わせた。紫苑はそれが見える程度に膝を進める。
「昨夜殺された、葉月さまのご遺体の上に……これが」
「『あと七人』……」
 紫苑はつぶやき、ふと指折り数えた。
「今お亡くなりになった方々は、五人ですね?」
「ええ」
 昴は頷く。
「残る長老家は六のはず」
 紫苑の言葉に、昴は顔を伏せた。
「そうですね」
「残るひとりは一体どなただとお考えですか」
「…………」
 昴は唇を噛む。
「私には……わかりません……」
「そうですか」
 紫苑は言い捨て、さっと立ち上がった。
「し、紫苑さま?」
 訝しげに声を上げる昴に、紫苑は一瞥を投げる。
「正直に話していただけないというのであれば、何も協力することはできませぬな。ご信頼なさっている方にお話になるのが良いでしょう。私は失礼致します」
「お待ち下さい!」
 身を翻して歩き始めた紫苑は、背中に軽い衝撃を受けて立ち止まった。自分の胸元に細い腕が回されている。昴が、彼の背に抱きついていたのだった。
 紫苑は当惑する。
「何です?」
「待って下さい。お話しますから。どうかお待ち下さい」
 柔らかな温もりが彼の背中に寄り添う。爽やかな香の匂いが、紫苑の鼻をくすぐった。
「……わかりました」
 紫苑はため息混じりにつぶやいた。
「わかりましたから、離して下さい」
 紫苑は彼女の腕を取って体を離した。
「…………」
 昴が紫苑を見上げる。その瞳に涙が浮いていた。
「……髪を」
 紫苑は口を開く。
「髪を染めているのは、長老衆の意向ですか。あやかしたちに染めさせているのと、同じ」
「…………」
 昴は無言で頷く。
「愚かなものですね」
 紫苑は口元を歪めた。
「そんなことをしても、何も奪えないのに」
「…………!!」
 昴ははっと息を呑む。
「現に、瞳の色は変えられないでしょう?」
 紫苑は昴から一歩ほどの距離を置き、優しく微笑んでいた。昴の初めて見た、紫苑のこころからの微笑み。胸の奥のどこか深い場所が、わずかにうずいた。
「まあ、それは私も同じですけれどね」
「…………」
 昴はうつむく。やがて、囁いているような小さな声が紫苑に届いた。
「長老衆は……私を疑っているのかもしれません。けれど」
 なだらかな肩の線が震えている。
「残る七人の内の『七人目』は」
 とん、と紫苑の胸に彼女の頭が触れた。
「私かもないのです……」
「…………」
 紫苑は立ち尽くす。目の前で小刻みに震えているこの華奢な体をどうしていいものか、彼にはわからなかった。