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昴の巻 第三章

  一

「……そういうことでしたか」
 戻ってきた壬から話を聞き、桔梗は静かに頷いた。
「桔梗はどう思う? 俺はやっぱりその巫女とやらが怪しいと思うんだが……」
「さあ、それはどうでしょう」
 桔梗は首を傾げる。長い銀髪が肩から零れ落ちた。
「たとえ巫女が関わっているとしても、手を下しているのは別人かもしれないし……何より」
 彼女の険しい表情に、壬はごくりと唾を飲む。
「何のために殺すのか。あやかしに関する意見の対立くらいの理由では、割に合いませんよね」
「まあ、確かにな……」
 桔梗は考え込むように視線を落とした。
「巫女は一体何者なのか……その身に本当にあやかしの血を宿すのか、どうか」
「けど」
 壬は異を唱える。
「ひとなら、黒目黒髪だろ? 巫女は黄金色の髪でしかも青い目だったって……紫苑が」
「…………」
 桔梗は答えない。
「巫女があやかしなら、共犯者すら要らねえんじゃないか」
「何か」
 桔梗はつぶやいた。壬は口をつぐむ。
「……何か、引っ掛かる」
 長い睫毛が薄い水色の瞳に影を落とす。そうしている時の彼女の眼差しには、まるで底なしの湖を覗いているような深みがあった。
「…………」
 壬は黙って桔梗を見つめた。彼女の細い眉がきゅっと寄せられる。――嫌な予感がする……。薄紅の唇が、この場にはいない想い人の名を刻んだ。
「……紫苑……」
 そのつぶやきは小さすぎて、壬の耳にも届かなかった。

  ニ

 紫苑は一歩退き、昴から体を離した。
「お聞きしたいことがあります」
「何でしょう?」
 濡れた青い瞳から、紫苑は目を逸らす。――その色に重ねてしまうからだ。もっと透き通った、しかし同じように青く煌めく瞳をした少女を。
「貴方は何者ですか?」
「紫苑さま?」
 不思議そうな昴に、紫苑ははっきりと言った。
「貴方に、あやかしの血は流れていない」
「…………」
 昴の表情が動く。それが一体どういう意味を持つのかまでは、紫苑には分からなかった。
「これでも陰陽師ですのでね。妖気を読むことには長けているのですよ」
 紫苑は笑うでもなく淡々と言葉を続けた。
「しかし、私は貴方のような髪や目の色をしたひとを見たことはない」
「…………」
「それでも」
 紫苑は昴を正面から見つめる。
「貴方はひとだ。紛れもなく」
 昴の瞳が揺らいだ。はっきりと迷いを浮かべている。
「わ……私は……」
 ――みしり。
「…………!!」
 天井の立てたかすかな音に気付き、紫苑ははっと天井を振り仰いだ。つられて仰向いた昴を抱え、低く横に跳ぶ。
「きゃあっ!!」
 昴が悲鳴を上げるのと、天井が轟音を立てながら崩れ落ちたのは、ほぼ同時だった。紫苑は自分の背中で昴を庇うようにしてしゃがみ込む。腕の中で昴が叫んだ。
「し、霜月さま──」
「?!」
 彼女の視線を追い、振り向いた紫苑が見たものは――瓦礫を染め上げる朱。ぽとり、とまるで時期外れの椿のように床に落ちた、初老の男の首。
「間もなく誰か来るだろう。ここにいろ」
 思わず礼儀も忘れ、紫苑は短く告げた。気配を感じる。強い――とても強い気配を。
「し、紫苑さま?!」
 昴が引き留める間もなく、紫苑は屋根の上に飛び上がった。
「…………」
 その後ろ姿をじっと見つめる青い瞳と、引き結ばれた紅い唇……紫苑の姿が見えなくなってから、ふっ、と緩む。
 ──昴よ。
 声が、響いた。昴にしか聞こえない……あの日から、聞こえるようになった声。
 ──まだ、続けるのか。
「当たり前でしょ」
 昴は座り込んでいた床から立ち上がる。
「誰も私を負かすことはできない」
 昴は笑う。
「貴方の言った通りよ……御門紫苑」
 昴は強い眼差しを虚空に向ける。
「私からは、何も奪うことなどできないのだから……」
 昴は目を閉じた。
 ――昴、昴。
 先ほどの声ではない。これは彼女の記憶。思い出と呼べるほど美しくもなく、過去と言うほど色褪せてもいない。ただ残酷なほど鮮烈な……。
 ――貴女は生きるのよ。玄武の力を利用して、何としてでも生き延びるの。それが私と……あの人の願いなのだから……。
 少女の首元から、細い鎖がこぼれ落ちた。先端に輝く、直角に組み合わされた二本の小さな金属棒。
「…………」
 昴はそれを愛しげな、それでいて悲しそうな眼差しで見つめた。だがそれも一瞬のことで、彼女はそれをすぐに胸元に押し込む。
「巫女さま!!」
「ご無事ですか?!」
 悲鳴混じりの呼び声と足音を聞き、少女は声を上げる。先ほどとは違う、冷ややかで無機質な声音。――巫女の、声。
「騒ぐことはありません。私は無事です」
 ちらりと足元に転がる首を見て、
「けれど……霜月正雪(しょうせつ)さまが……」
 痛ましい声を絞り出す。演技には、慣れていた。

  三

 夏の強い日差しは、いつの間にか陰っていた。もしかするとひと雨降るのかもしれない。屋根に飛び乗った紫苑は、目当ての人影を見つけて身構えた。
「何か用か? よそものよ」
 声も体格も男のものだ。身長は壬と同じくらい。つまり、紫苑ともそう変わらないということになる。頭から爪先まで黒い布で覆い隠しているために、他の特徴は分からない。
「お前が殺したのか?」
 紫苑は静かに尋ねる。
「…………」
 男はしばらく沈黙した後、口を開いた。
「そうだ……と言ったら?」
 押し殺したような低い声。だがそこには何の感情もない。
「他の長老たちも?」
 尋ねた紫苑に、男は僅かに苦笑の気配を漂わせた。
「だったらどうする?」
「何故だ? 何のために……」
「答える義理はない。そして――」
 男がかすかに体を動かした。途端に張りつめる妖気。
「邪魔をするつもりなら、容赦はしない」
 ──あやかしか! 紫苑は袖の中で印を結ぶ。
「…………!!」
 紫苑が結びの言葉を唱えて呪符を放つのとほぼ同時、男はこちらに向かって屋根の上を駆け出していた。不安定な足場をものともしない速度。
 目前で翼を広げて立ち塞がる鳥型の式神を鉤状に曲げた指で引き裂き、男は紫苑に肉薄した。紫苑は目を僅かに細める。――この男……かなり強い。ひらひらと舞い散る羽根が紙切れに戻っていくのを視界の端にとらえながら、紫苑は跳躍して別の棟の屋根に飛び移った。男が彼を追って宙に浮いた瞬間、紫苑は呪をつぶやく。すい、と伸ばした指先が真っ直ぐに男を指差した。
 ――がががががっ!! 逃げ場のない男を目掛けて鞠ほどの大きさの火の玉が降り注いだ。
「ちっ……」
 焦ったように舌打ちして、男は体を丸める。その体を何か……透明な薄い膜のようなものが包んだ。じゅっ、という軽い音と共に火が消える。男の纏った布には焦げ一つ生じていない。
「何?」
 紫苑が唖然とつぶやいた時、わずかな隙が生まれた。男はそれを見逃さない。
「――――っ?!」
 はっとした時にはもう遅く、紫苑の体は男に腹を蹴り跳ばされて宙を舞っていた。胃液が喉を焼く。息を塞ぐ圧迫感に、紫苑は声もなく喘いだ。
「――紫苑!!」
 聞き慣れた声。
 天地が逆さになって落ちていく紫苑を、何かが包んだ。白くて柔らかなもの――雲か? そんなことを思いながら、紫苑はやがてぐったりと地面に降りる。かろうじて体を起こした紫苑は、駆け寄ってくる人影を見て驚愕した。
「桔梗? ……何故こんなところに」
 桔梗は紫苑の側に立ち、先ほどの男の行方を捜すように屋根の上に視線を走らせた。
「壬から、多少の事情は聞きました。それに……嫌な予感がしたんです」
 日頃の、穏やかでのんびりした様子ではない。桔梗は水龍の御子の顔をしていた。
「大丈夫ですか?」
 ぼんやりと彼女を見上げていると、桔梗は不意に腰を屈めて顔を近付けた。彼女の吐息が頬に触れる。
「あ……ああ、たいしたことはない」
 細い腕が力強く彼の肩を抱きしめた。
「紫苑……私……」
「紫苑! 桔梗!」
 桔梗が何かつぶやこうとしたとき、彼らの目の前に壬が飛び降りてきた。どうやら紫苑の相手をしていた覆面の行方を探していたらしい。壬は頭を掻きながら憮然として言った。
「どうやら逃げられちまったみてえだ」
「そうか」
 紫苑は桔梗の手を借りながら立ち上がり、服を払った。
「帰るぞ」
「え……いいのか?」
 拍子抜けしたように尋ねる壬に、紫苑は頷いた。
「私に、少し考えがある」
 紫苑を支えながら、桔梗は彼を見上げる。その表情は決して明るいものではなく……それを見て取った彼女は、小さくため息をついた。