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封印の巻 第四章

  一
  
 翌日、空は晴れていた。日差しは強く、本格的な夏の到来を感じさせる。それでも都よりは過ごしやすい、と紫苑は思った。盆地にある都は一年を通して寒暖差が激しく、一日の間でも昼と夜とでは大分気温差がある。
 紫苑らが梓に連れられて神殿に着いた頃には、肌がじっとりと汗ばんでいた。桔梗は女物の笠をかぶっており、薄物で白い肌を覆い隠している。燐に手を引かれて歩く朔は、特に暑さを感じていないかのようにすずしげな顔をしていた。肩にはいつものように、白猫が乗っている。
「こちらで少々お待ち下さいませ」
 四人は風通しの良い離れに通され、冷えた水でもてなされた。喉を通るそれは体に染み渡っていく。
「そういえば壬くんは?」
 器を置き、燐が尋ねる。紫苑は唇を手の甲でぬぐった。
「癸のところで農作業を手伝っているそうだ」
「そうなんだ」
 燐は微笑む。
「彼らは仲が良いね」
「水龍は基本的に皆仲良しなんだそうですよ」
 桔梗は器を両手に抱えたまま口を開いた。
「昔は一族でひとつの群れをなしていたようですし」
「水龍は、同じあやかしからも畏れられていたと聞くからな」
 紫苑はつぶやく。その声音にどこか共感の響きを感じて、燐の胸がちりと痛んだ。ひとから畏れられた紫苑は、しかし群れをなすための同族すらいなかった……。
 燐はことさらに明るい声を出す。
「兄としては心配なのかもしれないね」
「そうですね。せっかく会えたんですし、ゆっくり話もしたいんだと思います」
 桔梗はにこりと微笑んだ。
「彼らは……」
 紫苑は顎を上げた。その紫電の瞳に、天井の梁がうつる。
「どうするつもりなのだろうな」
 選択肢は数多い。壬と癸がここに残るか、それともともに都に来るのか。壬は都に、癸はここに留まるか。もしくはともに新たな安住の地を求めるか。元に壬がいた場所は、恐らくそれなりに安心して暮らせる場所ではあったのだろう。どれを選ぼうとも、紫苑は全く構わない。壬を連れて帰るのはもちろん、癸が都に来たいと言ったならば断る理由などない。部屋は余っているし、自分の屋敷ならば彼らの外見を「式神だから」と説明してやることもできる。
「紫苑はお父さんみたいだねえ」
 燐がくすくすと笑った。
「そうか?」
「だっていつの間にかすごい大所帯だよ? 桔梗ちゃんに、僕ら親子に、壬くんに、癸くん……」
「最後のふたりは決まったわけじゃないぞ」
「でも行くあてがあるのか、心配はしてるんだろ?」
「…………」
 切り返されて紫苑は言葉につまる。燐は苦笑した。
「何も責めてるわけじゃない。感謝してるんだよ」
「……別に、私は何も」
 そっぽを向く紫苑の、しかし頬はかすかに赤らんでいる。桔梗が小さく笑った。彼女もまた紫苑の照れに気がついたのだろう。――少しの間、沈黙が落ちる。
「私は……ただ」
 紫苑は静かに口を開いた。
「私などを頼るほど困窮している者を、無碍(むげ)にできないだけだ」
「それは」
「違いますよ、紫苑」
 反論しかけた燐の声とほぼ同時に桔梗が言った。燐は目線で彼女をうながす。――こういうのは桔梗ちゃんの仕事だ。
「みんな、紫苑だから頼っているんです。紫苑の周りって居心地が良くって、だからついついとどまってしまう」
 敵愾心をむき出しにしていた壬でさえもが、今はあんなに和やかに時を過ごしている。それは紫苑という人物が与える影響なのだと、桔梗は思っていた。
「それは私も同じ」
 桔梗の手が床を這い、紫苑の指先にわずかにそれを触れさせる。
「紫苑の側にいたい。ただ、それだけ……」
「紫苑さん」
 唐突に口を開いた朔に、視線が集中する。その優しい色を身にまとった子供は、母親とそっくりな表情で穏やかに微笑んでいた。燐が思わず息をのむ。
「貴方は、僕の家族です。どうか貴方にも……そう思っていて欲しい」
「…………」
 紫苑はふ、と表情を緩めた。
「……ありがとう」
 傍らの桔梗の髪をくしゃりと撫で、紫苑はもう一度器を持ち上げ飲み干した。
 
 
  二
  
 昴は不機嫌な顔で足元を睨みつけている。そこにかしこまっているのは昨夜出会った男――透流だ。
「お供などいらないわ。紫苑さまだっていらっしゃるんだし」
「『しおんさま』とやらのことは知りませんけど」
 透流は顔を上げる。相変わらずの真っ直ぐな視線。光の中で見るその顔には、ところどころ傷跡が残っている。袖口から覗くごつごつした手にも、同じように無数の傷跡が走っていた。
「凪さまにきつく言われてるんです」
 凪は昴の身辺の世話をする女官のひとりである。昴の目にはおとなしいように見えるが、実は厳しいのだろうか。昴は軽く手を振った。
「凪には私から言っておくわ」
「駄目です」
 意外な抵抗にあい、昴の眉がつりあがる。
「どうして!」
「貴方はこの邑の巫女様でしょ」
 ――数年ぶりに外出したいと言ったら、これだ。昴は舌打ちしたい気分に駆られた。
「巫女さまなんて言って崇めるくらいなら」
 行儀悪く足を踏み鳴らす。
「ちょっとの外出くらい私の好きにさせなさいよ!」
「……昴さまって」
 先ほどまでの強い調子とは打って変わって、透流がぽつりとつぶやいた。
「結構わがままなんですね」
「何ですって?!」
「別に、外出してはいけないなんてひとことも言ってないじゃないですか」
 透流の言葉は素朴で、彼の視線と同じように直線的に届く。
「ただ、おれを連れて行って欲しいんです。それだけです」
「…………」
 昴は言葉につまる。
 透流の言うのは確かに正論だ。この邑にとって重要な意味を持つ自分が、ふらふらと出歩くわけにはいかない。邑びとたちから見て、紫苑らはあくまで外の人間。巫女を託すに足るわけがない。わかっている。わかってはいるのだが……。
「もし、おれのことが嫌なんだったら」
 透流の言葉に、昴の体がぴくりと跳ねた。彼はそうとも知らず言葉を続ける。
「凪さまに言ってひとを変えてもらいます。だから……」
「そんなんじゃないわよ」
 昴は透流を遮る。
「あんたが嫌だとか、そんなんじゃないの」
「…………」
 黒水晶のように透き通った瞳が、しかめっつらの彼女を映す。
「ただ……どこへ行くのも監視つき、紐つきって感じで気が悪かったのよ」
「監視?」
 透流は首をかしげる。
「おれにそんなことできませんよ。昴さまのお邪魔をするなんて」
「え……?」
 思わず昴は彼と視線を合わせた。彼は、そらさない。昴の青い眼差しを真っ直ぐに受け止めていた。
「おれは、ただ」
 微笑む。まるで子どものような笑み。
「昴さまをお守りするだけ」
「守る……って。何をするつもりよ」
 口ごもりながら強がり続ける昴に、透流は指折り数え始めた。
「足が痛くなったらおぶって差し上げますし、水が飲みたくなったら湧き水を探してきますよ。えっと、あと……お腹が空かれたら川で魚を獲ったり」
「…………」
 昴はあっけにとられる。――この男、本気か。
「そうだなあ、他に何ができるかなあ」
 首をかしげて考え込み始めた透流に、昴は頭上から深いため息を落とした。
「もういいわよ」
「え?」
「考えなくていいって言ってるの!」
 昴は座り込んでいる彼の側をすり抜け、歩き始める。背後で慌てて立ち上がる音がした。
「早くしなさい、客人を待たせすぎよ」
「……はい!」
 嬉しそうな声とともに、ぱたぱたと後を追って来る足音。――これではまるで犬の仔だ。昴は頭痛をこらえるように額に手を当てた。どうにも唇が緩む。それを隠したかった。
 
 
  三
  
「お待たせしました」
 半刻ほど待っただろうか、昴がようやく紫苑らの待つ離れにやってきた。その背後には見上げるような大男が従っている。護衛の者、ということだろうか。
「これ。透流」
 昴は男を指差してそっけなくそう紹介すると、紫苑に向けてあでやかな笑みを浮かべて見せた。
「お待たせしてすみません」
「あ……いや」
 紫苑の視線に気付いたのか、大男はにこりと笑って会釈した。紫苑もまた礼を返す。
「お初にお目にかかる。私は御門紫苑だ」
「桔梗です」
「橘、燐です。この子は僕の息子の、朔」
「はじめまして!」
 次々に名乗りをあげる客人らに、透流は動揺したらしい。
「え、えっと」
「…………」
 昴は内心ため息をつく。透流はずっと下人として働いてきた。このように礼をつくされた経験などないのだろう。
「あんたの名前なら私が紹介したわ。『よろしく』とか何とか言っておけばいいのよ」
「よ、よろしく」
 上ずった声で繰り返す透流を、四人は優しい眼差しで見つめる。――気持ちの良い男だ。紫苑の感想は、恐らく誰にも共通するものだったろう。昴がさらに説明を加える。
「彼は私の護衛ということで同行することになりました。構わないでしょうか?」
「もちろん」
 にこやかな桔梗の返事に、昴は一瞬眉をしかめる。――しまった。
「…………?」
 不思議そうにふたりを見比べる紫苑に、「相変わらず鈍いなあ」と燐は小さくつぶやいた。まるでそれに答えるように、白猫はにゃあと鳴く。
「さて、出掛けましょうか」
 履物を履こうとした昴が一瞬戸惑ったように視線を揺らし、控えていた女官に何事か言いつけた。走り去った彼女が持ってきたのは一足の新しい草鞋。それは、透流のためのものだった。