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封印の巻 第六章

  一
  
 蝉の声が聞こえる。陽は高く、邑を隈なく照らしていた。
「みずのとさーん、みずのえさーん」
 高い声が響き、ふたりは曲げていた腰を伸ばした。駆け寄ってくるのは、加乃だ。
 壬は泥だらけになった手を袴ではらいそうになり、慌ててぐっと拳を握った。癸はその様子を見て微笑む。
「大丈夫、加乃ちゃんが水桶を持ってきてくれるから」
「ああ」
 昼どきである。加乃は毎日癸のために弁当を作っているのだという。朝会ったとき、今日は壬の分も作ると言っていた。面映いような申し訳ないような、不思議な気分だ。
「お疲れさまです」
 加乃ははじけるような笑みを見せた。癸は既に髪を染めていないが、そのことを彼女は気にしていないらしい。邑びとからも特に何も言われなかったと聞き、壬は安堵した。癸はもう、邑びとの一員なのだろう。時間をかけて築いた絆があるのだ。
「お弁当持ってきましたよ」
 短い衣から伸びる手足は細く、長い。うなじで結んだ髪が背中でゆらゆらと揺れていた。
「さ、手を洗って下さいね」
 地面に置いた手桶には、なみなみと水が張ってある。覗き込んだ壬は忘れていた喉の渇きを思い出し、舌でぺろりと唇を湿した。
「ちゃんと竹筒も持ってきましたから、飲むときはそちらからどうぞ」
 傍らで加乃が微笑む。何故か、その面影に桔梗を思い出した。少しも似てはいないのに……。
 ――俺は、桔梗が好きだったのだろうか。壬はぼんやりと考える。自分の感情が失った御子への執着だったのか、それとも思慕だったのか。時々良くわからなくなる。だが、紫苑の側で生き生きとする桔梗を見ていても悔しさは湧いてこないし、むしろ微笑ましく見守っていたいと思う。まるで妹を見守る兄のような心情……と言ったら桔梗は嫌がるだろうか。
「あれ?」
 不意に癸が声をあげた。不審そうな声。
「どうした?」
 壬は手を洗い終え、顔を上げる。癸が山の方をじっと見つめていた。
「どうかしたのか?」
 改めて尋ね、壬は目を凝らす。
「いや、今……なんか……」
「…………!!」
 ――不意に、総毛立った。壬の額に冷や汗が浮かぶ。体の底から沸きあがるような悪寒。抑えられない寒気に、壬はぶるっと体を震わせた。
「これは……」
 癸もまた、青い顔をしている。
「どうしたの?」
 あやかしではない加乃には感じ取れないのだろうか。この、禍々しい瘴気――これは一体……?
「もしかして、紫苑さんたちが向かったところで、何か……」
「…………」
 壬ははっと息をのんだ。
「何か来るぞ!!」
 突然、山肌に湧き出した巨大な黒い塊。遠過ぎて何かは判別できないが、おそらく瘴気の発生源はあれだろう。
 ――おおおおおおおおおおおおおお!!
 唸り声のような雄叫びが響く。
 山裾へと駆け下ってくるその姿に、壬はぞっとした。――あれが人里に到達するようなことがあれば、何が起こるか……!
「兄さん!」
 癸が叫ぶ。
「ああ」
 壬は頷く。
「加乃ちゃんは家にいて、お母さんを頼んだよ!」
「う、うん」
 不安げに山の斜面を見詰めている加乃に声を掛け、癸は壬と共に駆け出す。あれが一体何なのかはわからない。ただ、何か良からぬものなのだということだけはわかっていた。そしてきっと――この邑に悪夢をもたらすのだということも。
 
 
  二
  
 白虎が咆哮し、朱雀が羽ばたく。桔梗の体から青龍が立ち上り、昴は玄武の力が引き摺り出されるのを感じた。
「結界……?」
 自分たちの周りを取り囲んだものに、燐は小さくつぶやく。白く光り輝くその外側では、何か黒いものが猛り狂っている。光と闇は激しくぶつかりあい、火花を散らした。
 ――おおおおおおおおおおおおお!!
 まるで、地獄から響く怨嗟の呻きのような……。
「え、えっとどうなってるんだ?」
「あぶない!」
 透流が立ち上がろうとしているのに気付き、燐は慌てて引き戻した。
「でも、昴さまが……」
「彼女は大丈夫だよ」
 おろおろする透流に、燐はきっぱりと言う。
「玄武が彼女を守るから」
 透流は混乱したように髪を掻き乱した。
「い、一体何が起こってるんです?!」
「僕にだってわからないよ。でも」
 燐は扉のあった方を睨みつける。
「あそこに封じられていた何かが……原因だ」
「何か……?」
 扉が開いたとき、紫苑は叫んだ――閉めろ、と。多分彼は察したのだろう。何か禍々しいものが溢れ出してくる気配を。だが、間に合わなかった。
「紫苑!!」
 燐は膝をついて立ち上がる。
「大丈夫かい?!」
「扉を閉める!」
 紫苑の声が遠く聞こえた。姿は結界に阻まれて見えない。
「桔梗、朔、昴、協力しろ!!」
「はい」
「わかりました」
 昴の声が、結界の中に響いた。
 
「扉よ。我らの前に立ち塞がれ」

 荒れ狂う闇はそのままに、しかしそれ以上激しくなることはない。

「我らは神に似て神とは非なるもの。四つのかけら。四つの血」

 彼女の言葉は早口に、しかしはっきりと紡がれる。

「途よ、我らの前に眠れ」

 ――それから何が起こったのか、燐にはわからなかった。ただ視界が真っ白に塗り潰され、鈍い耳鳴りがして……。
「燐!」
 誰かが駆け寄ってきて、彼を抱き起こす。
「あれが邑に向かった。急いで戻るぞ」
「ん……」
 一瞬気を失っていたのかもしれない。燐はぶるぶると首を横に振った。
「一体、何が……」
 ――我らにとっても誤算であった。
 白虎の深い声が脳裏に響く。
 ――まさか、あの戦の際の御霊が未だ彷徨っているとは……。
「戦?」
 燐が聞き返す。目が回復して、彼を支えている紫苑の横顔が見えた。険しい表情をしている。
「神を封じた地、戦……」
 単語をつぶやき、紫苑はぎゅっと唇を引き締めた。
「今流れ出してきたのは、戦死した怨霊か」
「父さん!」
 朔が駆け寄ってくる。
「僕の後ろ、白虎の背に乗って!」
「え?」
 燐の手をひっぱり、朔は駆け出す。後ろを振り向くと桔梗が朱雀の背に乗り、透流を引っぱりあげていた。紫苑もひらりとその首に跨る。炎に包まれた鳥はひどく熱そうに見えるが、そうでもないのだろうか。
「一体どういうわけ?」
 誰ともなく燐はつぶやく。その声にこたえたのは、彼の背後に腰掛けた昴だった。
「かつて、ここは戦場だったのね」
「戦場……?」
 ――誰と誰が戦ったのか。その問いを口にする前に、燐は悟っていた。
「あの封印は、神を封じるためのもの。つまり……」
「そう」
 白虎がそらを疾走し、昴の金髪が風に靡く。
「ではそれを施したのは一体誰か」
「ひとと……あやかし、か」
「おそらく」
 ――それだけではない。神もまた、あの封印に力を貸したのだ。
 白虎の声が脳裏に響いた。
「神が……?」
 昴は怪訝そうに眉を寄せる。
 既に里はすぐ、そこであった。
 
 
  三
  
 里の北の外れ、壬と癸はそれと対峙していた。
「何だってんだ、これ?!」
 壬の放つ水の刃はことごとく闇の中に吸い込まれていく。癸はじっとそれを観察していた。刃を受けても全く形態に変化がない。これは、まるで……。
「実体がない、のか」
 癸はつぶやく。壬ははっと息をのんだ。
「実体が……ない?」
「だって物質攻撃が全然効いていない」
「……確かに」
 壬は再び掌を向ける。蠢く闇の一部を凍らせようとしたのだが――失敗した。周囲の木々が冷気を浴びて、ぽきりと折れる。
「どうしろっていうんだ」
 当惑する壬だが、背後から近付いてくる気配にはっと振り向いた。複数の足音も聞こえる。
「何事だ?!」
「癸、これは……」
「睦月さま、僕にも何が何だか……」
 癸の言葉を聞き、壬はようやく彼らが長老家の者だということに気付いた。邑の一大事に気付き、慌てて集まったに違いない。
「お主らでも敵わぬのか……」
 先日父が殺害され、家を継いだばかりの睦月家の若き当主は顔を歪めた。水龍の妖力を思い、自らの力がこれに通用するのかと暗澹たる思いを抱いたのだろう。その認識は正しい、と壬は思った。
 闇は上下に弾むように蠢きながら、少しずつじりじりと近付いて来る。今のところはまだ攻撃を仕掛けてきていないが、もしこれが動いたらどうなるか……。
「これ、本当に一体何なんだ……?」
 癸のつぶやきに応えるように、睦月家当主は静かに口を開く。
「古い伝承にある。これは――」
「あっ!!」
 闇が不意に膨張した。表面にぼこぼこと凹凸が生じる。当主の背後に佇んでいた者たちが、はっと身構えた。壬も異変に気付き、腰を落とす。
「――離れろ!!」
 そらから声が響いた。壬は咄嗟に地面に伏せ、隣で癸が這いつくばっているのを横目で確認する。次の瞬間、強い衝撃が襲い――壬は硬く目をつぶったまま、ただひたすらに耐えるしかなかった。