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封印の巻 第八章

  一
  
「帰ってきた?」
 燐がぽつりとつぶやき、紫苑は顔を上げた。その視線の先に、音もなく舞い降りてきた白虎がふわり、と着地する。
「あっ」
 癸が小さく叫び、支えていた壬の手を振り解いて立ち上がった。よほどの衝撃を受けたのか、足元はまだおぼつかない。
「加乃ちゃん……?!」
 それでも朔の腕に抱えられた少女の傍らに駆け寄り、癸はそっとその身体を受け取った。
「邑は?」
 紫苑は言葉少なに朔に尋ねる。加乃を癸に受け渡した朔は、無言で首を横に振った。
「……そうか」
 朔の背後で透流が身動きした。紫苑はそちらに視線を投げ、絶句する。透流に身体を預けた昴。だが彼女は身動きもしていない。青い目はうつろに見開かれたまま、薄く涙の膜を張っている。時折それが零れ落ちては頬に二本の筋を作っていた。ただ、その涙のあとだけが彼女の人間としての証のようで――まるで人形のように力なく、ぐったりとしている。
「昴どの……?」
 紫苑が手を伸ばそうとする、それを透流は自分の身体でさえぎった。
「とお――」
「あんたらが、来たから」
 ぽつりとつぶやかれた言葉は、重い。
「あんたらが来なければ、この邑は……」
 ――滅びることなどなかった……!!
 ずきり。胸の痛みに耐えかねたように、紫苑の手が力なく落ちた。脳裏に、邑で出会ったひとびとの顔が浮かぶ。それほど親しく過ごしたわけではない。しかし彼らは、自分たちが来るまで何の不自由もなく暮らしていた、ふつうのひとびとだった……。
「何をしに来たんだよ」
 透流は顔を上げない。だがその声は怒りに震えていた。
「あんたら、一体何をしに来たんだよ!」
「…………」
 言葉を失う紫苑の手を、誰かがそっと引いた。振り返り、紫苑は顔をゆがめる。佇んでいるのは、桔梗だった。
「……確かに」
 彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私たちはこの邑に波乱をもたらした。『封印』だって、私たちが揃わなければ解けることはなかったでしょう」
 風が吹き、彼女の長い髪を乱す。
「けれど」
 桔梗はすっと昴に視線を向けた。痛ましげに細められる瞳。けれどそこに浮かぶのは同情ではなかった。
「長老を恨み、邑を恨み……、玄武はその想いに応えただけ。恨んだのは、彼女。昴さんなんですよ」
 ――ぴくり、と昴の肩が少し震えた。
「彼女の両親を殺したのは誰? 邑びとたちでしょう。彼女をずっと神殿に閉じ込めたのは? それも邑びとたち」
「そ、そんなこと知らない!」
「そうでしょうね。でも、無知は時として罪になる」
 桔梗の声音は優しく、しかし厳しい。
「痛みを誰にも知ってもらえない、理解されない。そのことさえも、こころを深く傷つけていくから」
「だ……だからって……こんな……」
 透流は昴を抱きしめてうずくまる。まるで父親が娘を守ろうとするかのようだった。
「――玄武」
 桔梗の声音が、微妙に変化した。紫苑ははっと彼女を見る。瞳の青がすっと濃くなり、銀の髪がふわりと浮き上がった。
「そろそろ姿を見せて――語って欲しいのですが」
「え……?」
『ひとの子よ』
 昴が口を開き、透流は目を見開いた。昴はもう泣いていない。
『手を、離してくれ』
 いつの間にか強くかき抱いていた透流に、昴は冷ややかな視線を向ける。透流はびくっと震えた。
「で、でも、昴さま……」
『昴は今、この胸の奥深くで泣いておるわ。仕方がないから私が出て来たのだ』
 昴のかたちをしたそれは、自分の胸元を指差した。
『……相当堪えたようだな』
 つぶやかれた声は、意外にも優しい。
「ようやく逢えましたね、玄武」
 厳しい眼差しの桔梗を静かに見据えた後、
『魂に青龍を宿すあやかし――そして朱雀を御す半妖』
 彼女の瞳が順番にめぐる。
『白虎に育まれた、生と死の狭間のもの……』
 「昴」は立ち上がる。紅い袴の裾が風に翻った。
『何を聞きたい? 何を知りたい? 問われたことには答えよう』
 紫苑は少し考え、やがて口を開いた。
「『封印』とは何なのか。その全てを――」

  二
  
 かつて、大和の地に神々が舞い降りた。神々はひとと交わり、また神の血のみを受け継ぐ子孫であるあやかしが生まれ――やがて、彼らは親たる神を疎みはじめた。子は、いつか親の手を離れる。ひとはひとの大王(おおきみ)を戴き、あやかしは四天王を崇め。神は、次第に居場所を失っていった……。
「そして、戦が起こったのか」
 紫苑の問いに、「昴」の姿をした玄武はうなずいた。
『この地に神は必要ない、と。ひととあやかしが唯一手を結んだ瞬間であった』
「……集団というものは」
 紫苑はつぶやく。
「敵を目の前にしたとき、最も結束する。そしてその敵を排除した後は、新たな敵を味方だったものの中から探し出す――」
『まさにその通り』
「…………」
 桔梗の目が悲しげに細められた。
『神々もまた、この地を離れることを決意したのだ。戦とはいうものの、神は自ら身を引いた。この世界から薄紙ひとつを隔てた世界へと――身をうつした』
「薄紙ひとつを……?」
 不思議そうにつぶやく燐に、紫苑は言う。
「式神の魂を召還する場所をそう呼ぶが……、同じところなのだろうか」
『世界はひとつではない。ただ目には見えぬし聞くこともできぬ。ふつうは行き来することもかなわぬが、それは確かに存在している』
「でも、感じることはできるのですね。そうでしょう?」
 桔梗の言葉に、玄武は少しだけ驚いた表情をして、ゆっくりとうなずいた。
「私たちは神々を感じることができる。その拠り所がただの抜け殻だとしても――」
 紫苑はぽつりとつぶやいた。
「お社、か……」
「それとこの大惨事と、何の関係があるの?」
 燐が声をあげた。玄武はすうっとその青い瞳を細める。
『「封印」は、神々がこちらの世界に再び現れることができぬようにと施された。世界の行き来は神にとっては不可能なものではない。様々なものの力を借りれば――たとえば神有月のように、少しばかり世界の距離は縮まるときがある。そういうときであれば……』
「そのための、『封印』か」
『そうだ。この世界から神々の力を閉め出す為の、「封印」。神々もまた、自らの世界の平穏を乱されることを嫌った。そのために我ら神獣が力を貸したのだ』
「つまり、番人のようなもの……?」
『よく言えば、そうだろう。もしくは――ただの監視だともいえる。ひとやあやかしが信じているように、この世界を守護するために我らが在るのではない』
「……それで、この封印を施すとき何があったの?」
 燐は食い下がる。玄武は彼を一瞥した。
『世界から神々を押し出すとき――少しばかりの数のひととあやかしをも、ともに閉じ込めてしまったのだ』
「え……?」
 岩盤にはめ込まれていた扉。あれが閉められたとき、その向こうには仲間であるひととあやかしがまだいたというのか。それでは、その後彼らは一体どうなってしまったのか……。
『神々は世界を渡る。しかし、ひとやあやかしにはかなわない』
 玄武はただ淡々と言葉を続ける。その単調な響きが、紫苑の身体を震わせた。
『飢えたか、凍えたか、どうしたか――私は知らない。ただ、その魂は怨霊となってずっと逆巻いていた……』
「それを」
 紫苑は唇を噛む。
「我らは解き放ってしまったのか……」
『この邑は、「封印」を守るために作られた』
 「昴」と同じ顔をしながら、彼女とは違う。表情は全く動かず、目は半分閉じられたまま。透流はそんな彼女をただじっと見つめていた。
『巫女と呼ばれるひとりの女を私の拠り代として差し出すことで、この邑は続いてきたのだ』
「まるで」
 桔梗はつぶやいた。
「生け贄のようですね……」
『そのとおり。だが、巫女だけではない』
 透流の額に汗がにじむ。とてつもなく不吉な予感がして、この先を聞いてはいけないような、そんな気がする。しかし、玄武は容赦なく言葉を続けた。
『この邑そのものが、封印のために差し出された生け贄のようなものなのだからな……』

  三
  
 沈黙を割いたのは、癸の声だった。
「ちょっとすみません」
 止まっていた時が動き出したかのように、紫苑や桔梗は背後を振り返る。そこには加乃を支えて立つ癸と壬の姿があった。ふたりの髪には少しずつ銀の輝きが戻ってきている。彼らにつかまるようにしながらも歩いてくる加乃。表情はどこかうつろだった。
「昴さんと、お話がしたいのですが」
 癸の表情は険しい。朔から事情を聞いたのか――自分を受け入れてくれた邑が、今はもうどこにもないということを知り、今は何を思うのか……。
『昴、か』
 玄武は冷ややかに告げる。
『彼女の身体を失うわけにはいかないのでな。今起こせば、どうなるかわからぬ』
「どういうことですか」
『彼女に会って何をする気だ? なじるか? 怒るか? それとも殺す気か?』
「…………」
『お前たち邑びとがこの巫女にしたのは、今と同じことだ。異人であるというだけで父親を殺し、母親をも殺害し――幼子をひとり、巫女として閉じ込めた』
「確かに、それはひどいと思う。だけどそんなの、ほとんどの邑びとには関係ないことだ」
 癸の眼光にもひるむことなく、玄武は冷笑を浮かべた。
『関係ない、か。便利な言葉だ』
「何だって?」
『邑がこうして完全に自立して生活できたのは、誰のお陰だったのだろうな? 天候を予測し、災害を予知し――それは巫女の役目だったのではないか』
 社の奥、たったひとりで玄武と対話し、邑のためだけに生きる。それが巫女に与えられた役目だった。代々の巫女が一体何を思い、何を願って死んでいったのか。また、玄武はそれを見ながら何を思ってきたのだろう。
「…………」
 癸は沈黙する。
「先ほど、貴方は『封印』を守るために邑があると言った」
 紫苑が口を開く。
「それならば、今後はどうなさるおつもりだ? 邑は既にない。毎月のように強化してきた長老家のものもいなくなってしまった……」
 玄武はふっと笑った。
『神々は、この世界には来ない。既に見捨てておられる』
 一瞬ひるんだ紫苑だが、さらに問いを重ねる。
「では、何のために『封印』を?」
『それは……お前たちのためだ』
 玄武の目が桔梗と、壬、癸に向けられる。
『あやかしとひととが――ひとつの世界にいられなくなった時のため……』
 紫苑は息をのんだ。
「それは、どういう……?」
「巫女さま!」
 叫び声が響き、紫苑は口をつぐんだ。少女の声だ。
「加乃ちゃん?」
 癸の手を離し、彼女は「昴」の元へとふらふらと歩み寄った。そして――彼女は力いっぱいに、昴を抱きしめた。
「加乃、ちゃ……」
 癸は呆然とつぶやく。壬はその肩に手を置いた。追おうとしていた癸の足が止まる。
 加乃の背中は大きく波打っていた。泣いているのだろう。少女は母を、邑を失った。その悲しみの深さは、計り知れない。
『…………』
 「昴」が目を閉じる。少女のなすがままにされながら、微動だにしない。――いや、違う。透流ははっと目を見開いた。彼女の手が、ゆっくりと加乃の背に回る。そして、そうっと撫でた。加乃の泣き声が大きくなる。
「昴さま……?」
 透流はおそるおそる声を掛けた。返事はない。ただ、彼女の華奢な肩が小刻みに震えている。
 ――昴だ。
 紫苑は深く息をついた。玄武は去ったのか、眠ったのか――ひとまず彼女は自分の身体を取り戻したらしい。
 加乃はなじるでもなく、怒るでもなく、手を上げることもなく、ただただ泣きじゃくっていた。今、この悲しみを共有できるものは昴しかいないとでもいうように……。
 
 不意に、白虎が吼えた。
 細く長く、大気を震わせる。風が巻き起こり、澱んだ大気を薙いでいく。
 
 朱雀が羽ばたいた。
 苛烈でありながら壮麗な、炎が邑を覆い尽くす。それは破壊ではなく新生の火。

 そして、桔梗が――彼女の内に眠る青龍が、手を差し伸べた。
 焼け跡から湧き出す水が、その流れが、地表を優しく慰撫する。土がそれを吸い、焼け残った木の芽がしぶきを浴びて瑞々しく輝いた。
 
 ――神々しいとはこのことか。誰もが声もなく、その光景を眺めていた。
「…………」
 いつの間にか加乃も泣き止み、昴と寄り添って呆然と見つめている。先ほどまでの廃墟のような邑ではない。魂が眠るのにふさわしい場所へと、変貌を遂げていく。
「昴さま」
 透流が名を呼んだ。昴は振り返る。彼が何の意図で名を呼んだのか、彼女にはわからなかった。差し伸べられた手を取り、一歩進み出る。その途端、彼女は自分に課せられた使命を理解した。透流はそのつもりで彼女を呼んだのではないだろう。しかし、彼女はそうせずにはいられなかった。
 ひざまずき、祈る。
 
「この地に、言祝(ことほ)ぎを。実りを」

 それは彼女が何千と繰り返してきた祝詞(のりと)。邑にさちあれと、豊饒を祈るための言葉。今となってはそらぞらしいとさえ言えるかもしれない。それでも、昴は祈らずにいられなかった。
 彼女から全てを奪った、それでいて彼女の全てであった邑へ。憎しみ、愛した邑へ。彼女を生み育んだ、そして彼女によって葬られた邑へ。
 昴は祈った。
 虹が、そらを駆ける。紫苑は眩しげにそれを見上げた。その脳裏に、玄武の言葉が蘇る。
 
『あやかしとひととが――ひとつの世界にいられなくなった時のため……』

 傍らに立つ桔梗が、半歩近寄って寄り添う。紫苑はその手をぎゅっと握りしめた。