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封印の巻 第二章

  一
  
 梟が、鳴いている。紫苑は襟元をくつろげ、扇で風を送っていた。その眼前には燐が座っている。ふたりの間には盃がふたつ。紫苑のものはなみなみと酒で満たされたまま、燐のものはだいぶ減っていた。
 桔梗は朔と共に隣の部屋にいる。時々笑いさざめく声が聞こえていた。
「神と……あやかし、そしてひと」
 紫苑がつぶやく。
「その三者が一体どういう関係にあるのか、知る必要がありそうだな」
「君も知らないの?」
 陰陽師である紫苑は、そう言ったことにも精通しているのではないかと思っていたのだが。意外そうに問い掛ける燐に、紫苑は苦笑した。陰陽道はあくまで唐の国から伝えられた、陰陽五行を基にしている。かつてこのやまとの地に居たといわれるやおよろずの神に触れられることは、あまりない。
「期待にこたえられなくてすまないな」
「いや、そんなことは構わないのだけど……」
「――酒が減ったな」
 紫苑は突然そう言い、一度、手を打ち鳴らした。
「焔」
 酒器を捧げ持った男が、姿を現す。赤を身にまとうその男は、朱雀が姿を変えたものだ。焔は無言で燐の盃に酒を注ぐ。燐は会釈して、満ちていく水面を眺めていた。
「幾つか、聞きたいことがある」
「……はい」
 焔は静かに答える。
 本当に彼は神獣なのか――燐は不意にそんなことを思った。こうしていると焔はいたってふつうの式神だ。焔自身も唯々諾々としてその状況にあまんじているように見える。そういえば、朱雀は何故紫苑を選んだのだろう……。燐はそのいきさつを知らない。彼が気付いた頃には、既に紫苑は四聖獣の一を従える術者として名を馳せていた。まだ、燐にはその本当の意味などわからなかったのだけど……。
 紫苑は真っ直ぐに焔を見つめ、口を開いた。
「神とは、何だ」
「神とは」
 焔はその赤い瞳を伏せるようにして答える。
「神とは、やまとのくにを作り出した存在。ひとにあらゆる恵みを与えたもの。あやかしを生み出したもの――」
「え?」
 燐は思わず聞き返す。神々は、やまとのくにを作った。そのことは燐も知っているし、数々の紀伝書にもそう書かれている。しかし、あやかしを生み出したのが神とは――。
「どういうことだ?」
 口をつぐんだ焔に対し、紫苑は重ねて尋ねる。
「……神は」
 焔の乾いた声が部屋を打った。
「ひとと交わり、ひとの血の中に彼らの力を宿しました。陰陽師と呼ばれるものたちの奮う力に、その片鱗が見られます。――神が居なくなって長い時間が経つゆえ、その力は徐々に弱まりつつありますが……」
「ひとと、交わった……」
「確かに、そういう記述はたくさん見られるね」
 燐は盃を取り上げて一口飲んだ。冷えた液体が喉を潤す。燐は酒に強いが、一方の紫苑はさほどでもない。今も、彼は少しずつ舐めるように嗜んでいた。
「では、あやかしは?」
「あやかしは」
 焔が目を開いた。燃え盛る炎の色――神々しい、と燐は思った。
「あやかしは――神々の子孫」
 紫苑は何度か瞬いた。酒のせいか、言葉が頭に染み渡るのに時間がかかるようだ。
「神々の……子孫?」
「神と神が交わってできたこどもは、はじめは神でありました」
 焔は淡々と言葉を続ける。
「しかし、そのこどもがまた神と交わり、そのこどもがまた……、と繰り返していくうち、血が濃くなりすぎた」
「それが、あやかしだというのか」
「神はひとと良く似た姿であったのですが、その神の血を濃くひくものは、少々異なったかたちになったのです」
 尖った耳、額に刻まれた文様。鮮やかな髪と瞳の色。それらはすべて神々が濃い血脈を受け継ぐものに施した烙印だったのだという。
「やがて、神とあやかしは完全に分かたれた――」
 焔の紡ぐ物語は神話にも似て、しかし実際は異なっている。神獣が語るこの物語は、厳然たる事実。かつて、この地で本当に起こったことなのだ。
「では、神がこの地から消えた理由は?」
「……それは」
 焔の口調が初めてよどんだ。
「明日、『封印』を目の前にしてから――」
「……そうか」
 紫苑はあっさりと頷いた。
「ありがとう」
「いや」
 焔は軽くかぶりを振る。
「私はお前に力を与えるため、この世に降り立った」
 先ほどまでとは口調が違っていた。紫苑の式神である「焔」から、四聖獣の一、朱雀へと。
「…………」
 紫苑が目を細める。――まるで何かを懐かしむようだ、と燐は思った。
「知識は力になる。そして」
 焔は厳かな口調で言う。
「我々神獣は……運命が行き着く最終地点のために存在しているのだから」
 ――しん、と静まり返る。梟すら、既に鳴いてはいなかった。
 
 
  二
  
 神々の子孫。そう告げた朱雀の声が、脳裏を未だめぐっている。紫苑は軽く寝返りを打ち、傍らで眠る桔梗の顔を眺めた。――彼女も、そうなのか。
 何故、神はこの地を去ったのだろう。明日には明かされることとは知りながら、紫苑はどうしても思考を止められない。「封印」とは一体何なのか。一体、誰が、何を封印したのだろう。
「…………?」
 紫苑はふと呼吸を止めた。――誰が……何を……?
「しおん……?」
 もぞ、と寝具が動いた。紫苑は慌てて息を止める。
「眠れないの?」
 こどもをあやそうとするかのように、桔梗の手が紫苑の胸の上をゆっくりと撫でた。
「大丈夫だ」
 紫苑はその手を上から握って止めた。桔梗の体温は、暖かい。
「まだ明け方には遠い。ゆっくり休め」
「……紫苑」
 暗闇の中で、桔梗の顔は見えない。
「早く、都に戻れるといいですね」
「……ああ、そうだな」
「あの巫女さんも、行きたいのなら一緒に都に行けばいいと思います」
「いいのか?」
 桔梗は反対しているとばかり思っていた。意外そうに聞き返す紫苑に、桔梗は言う。
「だってこのままひとりきりでここにいるのは――さびしいもの」
 紫苑を彼女に渡す気は毛頭ない。それでも――昴の孤独を放置するのは、桔梗の良心が許さなかった。都には燐がいる。朔もいる。壬も、式神さんも、いつだって屋敷には誰かがいる。そして桔梗は、いつだって笑っていられる。しあわせでいられる。
「時々思うんです」
 桔梗は目が覚めてしまったのか、とつとつと語った。
「もし、あのひとのほうが早く紫苑に出会っていたら」
 それでも紫苑は私を選んでくれただろうか。今のようなしあわせがあっただろうか……。そんな自信など、ない。
「だから、感謝しているんです」
 ――自分を早く紫苑と出会わせてくれた運命に。
 だからこそ、昴に対してどこかすまないような気持ちを抱いてしまうのだろう。もしかすると二人の立場は逆転していたのかもしれないのだから……。どこか寂しげにそう語る桔梗に、紫苑はため息をついた。天井を見つめていた桔梗の頭を無理やり抱え込み、乱暴に髪を撫でる。
「お前は馬鹿だなあ」
「……え?」
「もう忘れてしまったのか?」
 笑みを含んだ声に、桔梗は首を傾げる。
「以前、お前には言ったはずだぞ」
 ――私はお前に呼ばれた。だから出会ったのだ。運命に呼ばれたのではない。
 桔梗は目を見開く。
「あ……」
「私を呼んだのは、お前だ。他の誰でもなく、な。――それとも」
 紫苑は口を切り、彼女の顔を覗き込んだ。暗がりの中で、彼女の髪だけがぼんやりと輝いている。
「それは私の独りよがりなのか? 私などを呼んではいなかったのに、私は勝手なことをしたのか?」
「違います!」
「だったら」
 勢い込む桔梗を紫苑はやんわりととどめ、今度は優しく髪を指で梳いてやった。
「そんなことを言わないでくれ」
 どんな運命が待ち受けていようとも、あの時呼び声に応えたことを後悔するつもりはないのだから。
 桔梗は目を閉じる。それでも目尻から涙が溢れそうだった。
「……はい」
 彼女は思う。自分だって後悔しない。あの日、あの時、紫苑と出会ったこと。それ以来歩んできたふたりの道のり。笑って、泣いて、傷ついて、癒された。この道がどこに続こうとも、絶対に後悔しない――。
「巫女どののことは、また考えよう」
 紫苑は静かにつぶやく。
「傲慢かもしれないが、彼女にもしあわせになって欲しいのだ」
 彼女の想いにはこたえられなくても――それでも、「異端」という烙印を押され、疎外感を味わってきた彼女の姿は、決して他人事とは思えないから。
「手伝ってくれるだろう?」
「……はい」
 桔梗は頷く。
「この間ちょっと意地悪しちゃったから、謝っておきます」
 彼女のいる大社に出向いたときのことだ。敵意を剥き出しにして威圧してしまったのは、我ながらおとなげなかったと思う。ただ、紫苑を失いたくない一心だったのだが……。
「おなご同士、良い友達になれるといいのだが」
「……それは、難しいと思いますよ」
 昴が紫苑を諦めさえすれば簡単なのだけど。桔梗は、そのことは言わずに置いた。