封印の巻 第三章
一
夜更け――昴は寝付けず、濡れ縁に腰を下ろして夜風に吹かれていた。月はなく、辺りは暗い。髪に指を通してその軽さに戸惑った。まだこの長さには慣れていないのだ。
紫苑は屋敷に、自分はこの神殿にいる。言い知れぬ寂しさが彼女の胸を襲った。あの紫電の瞳は……、ただひとりしか映していない。そんなことは既にわかっている。それでも、割り切れない。
――どうしても貴方が捨てられないものがある。
優しい、けれど厳しい声。
――それは、
「私自身……か……」
何を偉そうに、と反発する気持ちがなかったわけではないし、今も邑を憎む気持ちは消えていない。父を惨殺し、母を死に追いやったこの邑を、いつかは出て行きたいと思う。彼らの行なったことを許すことは、決してできない。けれど、あの瞬間――何かが変わった。怒りは、憎しみは、自分のもの。悲しかったのは、私。自分は両親の仇をとるために生きているのではないのだ、と。そんな当たり前のことを忘れてしまっていた。周りが何も見えなくなっていた……。
「昴……さま……?」
「…………」
彼女は振り向いた。声に聞き覚えがある。多分神殿仕えの男だ。昴に接するのはほとんどが女性だが、男手の必要な仕事もあるのだろう。昴自身はそういった男たちには会ったことがないが、彼らの声を耳にした記憶はあった。
暗がりの中でぼんやりと浮かび上がる人影。昴の右手に立っている。昴は目を細めてそれを見上げた。以前なら内心慌てていただろう。彼女の髪は金で、瞳も青い。どう見てもふつうのひとではない。――怯えるか、事情を知る者ならば目を背けるか。大抵はそのいずれかだ。
佇んでいる青年は昴と同い年くらい。体格が良い以外に目立つところはないが、目尻の下がったところが優しげで、それが愛嬌といえるかもしれない。
「誰?」
昴は尋ねる。
青年はしばらく沈黙した後、やがてほう、とため息をついた。
「すごく……きれいだ……」
昴は驚愕に息をのんだ。
「な、何よあんた」
思わず素の口調が出る。男は慌てたように口を手で塞いだ。もちろん間に合うはずがない。
「すみません、聞こえましたか」
彼女から少し離れた場所にすとんと腰を下ろし、真っ直ぐに目を合わせてくる。昴は体を引いた。
「ちょうど見回っていたところだったんですけど」
うなじで無造作にくくった髪を、ぼりぼりと掻く。
「誰かが座ってたから、つい声を掛けてしまって」
「私が誰だか、わかってるの」
「ええ。だってさっきおれ、名前呼びましたよね?」
「ああ……そうだったわね」
昴はため息をついた。
「で、あんたの名前は?」
「おれ?」
男は軒先を見上げる。
「名前はありません」
「え?」
昴は聞き返す。
「親が早く亡くなって、ずっとここにお仕えしていたから。名前なんて必要なかったんです」
男は穏やかに言って微笑む。
「そんなものなの……?」
彼女は戸惑って聞き返した。青年は頷く。
「『おい』とか『お前』とか。それで用は事足りますからね」
「……そう」
昴は空を見上げた。相変わらず月はない。星も見えないということは、新月なのではなく雲が出ているということか。
昴は横顔に強い視線を感じていた。面映い。
「あんまりひとの顔をじろじろ見るもんじゃないわよ」
「あ……すみません」
男は首をすくめた。その様子はまるで叱られた大型犬のようで、昴は少し口元を緩めた。
「でも、びっくりしたんです。貴方の髪がきらきらして、きれいだったから。おれがずっと仕えていた巫女がこんなきれいなひとだなんて。知らなかった」
「…………」
昴は立ち上がる。これ以上ここにいるのが――怖かった。この男はあまりにも素直で、透明過ぎる。
「もう休むわ。あんたも仕事に戻りなさいな」
「はい。……おやすみなさい」
男の声を背後に受ける。
「……お」
昴は思わず応えそうになり、ぎゅっと唇に力を込めた。代わりに口に出したのは、全く別のことだった。
「――名前をあげる」
男が立ち上がったのか、ざらりとした衣擦れの音がした。縫い取りも荒い、着心地の悪そうな服だ。
「名前?」
「そうよ」
昴は首だけでくるりと振り向いた。
「あんたは透流。どう?」
あまりにも彼の眼差しが透き通っていたから。とっさに浮かんだのがその二文字だった。
「…………」
男は笑ったようだった。
「とおる……とおる。ありがとうございます!」
再び背を向けた昴に、彼は――透流は小声で叫んだ。
「おやすみなさい」
「…………」
昴は無言で立ち去った。
「――変な男」
足早に歩く彼女の頬は、少し火照っていた。
二
――今、何刻だろう。燐は何十度目かの寝返りを打った。寝付けない。隣の寝具で眠る朔を、何度となく確かめてしまう。息をしているだろうか、ちゃんとそこにいるだろうか、眠っているうちに消えてしまわないだろうか――。
「父さん」
朔の声がして、燐は思わず息を止めた。寝ているふりをした方がいいのかと思案するが、しかしきっと息子は気付いているのだろうと思いなおす。
「何? 朔」
「……まだ、時間はあるから」
その声に、燐は身を起こした。朔は目を大きく開けて、天井を睨んでいる。
「僕は、父さんの側にいたい。ずっと……ずっと」
「朔」
「生きていたい」
――朔は一度死んだ存在。ほんの少し、魂が神の側に近いもの。朔は、本当には生きていない。そのことを、既に燐は知っている。それでも……。
燐は朔の側に這いより、その華奢な体を抱きしめた。亡き妻に似た、甘い花のにおい。
「朔……」
こんなに朔の体は温かいのに、この命は偽ものだというのか。燐の鼻筋を涙が伝って落ちた。
「父さん……」
朔のくぐもった声がする。
「僕……帰って来ないほうが良かったのかもしれないね」
「どうして?!」
なじるように尋ねる燐に、朔はつらそうに顔を背けた。
「だって」
その頬に、燐の涙が落ちる。
「父さんにとっては……僕は二度死ぬようなものだもの」
諦めの滲んだ声音。だが燐は首を横に振る。
「まだ、そうと決まったわけじゃない。まだ奇跡が起こっていないからって、これからも起こらないとは限らない」
「…………」
「今度こそ、僕は君を守りたいんだ」
燐は少年の体を抱きしめたまま、祈るようにつぶやいた。
「もう二度とあんな後悔はしたくない」
腕の中から零れ落ちた、妻の温もり。彼女に宿っていたいのちが、今燐の腕の中にある。――もう二度と離しはしない。そのためになら、僕は何も怖れない……!
「母さんも、きっと守ってくれる」
「……うん」
「だから、朔も……諦めちゃ駄目だ」
運命を受け入れてはいけないのだと、そう説く父の声に朔は目を閉じた。眦から涙が零れる。
――部屋の片隅でうずくまっていた白い猫が、いつの間にか体を起こしていた。その金の目はただ無感情に、抱き合う親子をじっと見つめていた。