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封印の巻 第七章

  一
  
 目を凝らし、紫苑は地上の様子を眺める。壬と癸、そして背後に邑びとらしき影。彼らが相対しているのは、巨大な闇。――あれが、怨霊か。
「行くぞ」
 紫苑が朱雀から飛び降りようと体勢を整える。しかし、
「駄目!!」
 桔梗が背後から抱きついてくるのと同時に――地上で変化が起こった。
「な、何あれ……」
 白虎の背に掴まっている燐が、呆然とした声をあげる。昴が小さく悲鳴を上げた。
「邑が……っ!!」
 紫苑はあらん限りの声を上げ、叫んだ。
「離れろ!!」
 壬は動いたような気がする。しかし、癸は。
 ――どうっ!!
 濁流。怨嗟の声と、瘴気と。死に引きずり込まれるような感覚。
 紫苑の体中から冷たくて嫌な汗が滴り、歯の根がかちかちと鳴った。背中にしがみついている桔梗もかすかに震えている。――誰も、何も動けなかった。
 
 
  二
  
「う……」
 一瞬、気を失っていたような気がする。何かに引きずられていきそうになるのを耐えているうちに、ふっと意識が途絶えていた。あのまま連れ去られていたら、今頃は……。壬はぶるっと体を震わせる。
 そのまま伏せていたいという欲求を何とか振り切り、壬は何とか身体を起こした。髪のひとふさが目に入り、驚きの叫び声をあげる。真っ白になっていた。
「壬!!」
 駆け寄ってくる気配に、目をこする。桔梗だ。
「大丈夫?!」
「大丈夫、に見えるか?」
 ごほごほと咳き込みながらも、壬は不敵に笑ってみせる。
「壬……」
 桔梗の手がすっと壬の髪に触れた。
「生命力を奪われたのだな。少し経てば治るだろうが……」
 桔梗の背後に立つのは、紫苑だ。
「さっきの……どうなった?」
 尋ねる。紫苑は首を横に振った。
「消えた」
「消えた……?」
 壬は唖然と問い返す。紫苑は深く頷いた。――怨霊の塊は邑を覆い尽くすように這いずり回り、そして……。
「さっと四散してしまった。どこへ行ったのかはわからぬ……」
「だ、大丈夫なのか、それ?!」
 壬はふらつきながらも立ち上がる。その身体を咄嗟に紫苑が支えた。
「後を追うにも、どうしたら良いのか……。とにかく、今は邑の様子を調べねば」
「あっ」
 壬は紫苑の手を離し、傍らに倒れ伏している癸を助け起こした。泥に塗れたその顔は蒼白で、髪も白く色が抜けてしまっている。
「癸!」
 揺り動かすと、ゆっくりと瞼が開いた。
「に……兄さん?」
「よかった」
 かき抱くと、癸の手が壬に触れた。
「兄さんも。無事で、良かった」
 彼らの脳裏をよぎったのは、かつて彼らの集落が全滅したときの記憶だった。気がつくとふたりはばらばらになっていて……ついさっきまで側にいたのにも関わらず、互いの姿を見失っていた。そしてその後、長い間独りで彷徨うことになる。――もう、あんな想いは経験したくない。
「紫苑」
 不吉な、低い声。壬は顔を上げる。燐が青ざめた顔を横に振っていた。紫苑も強張った表情でうなずいている。
「……どうした?」
「…………」
 紫苑は黙って壬を見返す。何と言っていいか、迷っているようでもあった。壬は癸を膝に抱えたまま、背中を伸ばして辺りを見回す。そして――言葉を失った。
 彼らの背後に集まっていた、長老家の者たち。真っ白な頭と、土気色の肌が泥の中から覗いている。彼らの身体は、少しも動く様子がない。
「ち……、ちょっと、これ」
 壬の声がひきつる。
「まさか、そんな」
「邑は?!」
 癸が身体を起こし、叫んだ。
「邑のひとは、みんなは……!」
「今、朔が白虎とともに見回っている。昴も一緒だ」
 紫苑はようやく口を開いた。その拳はきつく握り締められ、ぶるぶると震えている。
「どうして、こんなことに……」
 桔梗が小さくつぶやいた。その声は細かく震えていた。そして、辺りに怒号が響いた。
「どういうことだ!!」
 びくっ、と壬は震えた。肌がびりびりするほどの怒気に、身体がすくむ。紫苑が怒っている。認めたくはないことではあるが、壬は完全に圧倒されていた。
「朱雀……、これは一体!!」
 血を吐くような叫び。桔梗が泣き出しそうな顔で紫苑を見ている。
「こんなことになるのなら、『封印』など……!!」
 解くのではなかった。どうしようもないほどに深い後悔、自責の念。痛みの滲むその声に、壬は唇を噛む。癸は――泣いていた。
「『封印』を解くことが誰かの命よりも大切なことだったと、そう言うのか!! そのために」
 ――私たちを利用したのか……!!
「紫苑……」
 紫苑の拳に、桔梗はそっと触れた。ただ、それだけしかできない。紫苑の想いは、痛いほどわかるから。
 炎を纏う神鳥は一度だけ、羽ばたいた。
 ――これは我らの意図ではない。
「何?」
 ――「封印」の管理を任されているのは玄武。これは玄武の思惑であろう。
「玄武の……?」
 紫苑のつぶやきを聞き、桔梗がはっと目を見開いた。
 ――十五年間、つらいことばかりだった。そのためになら何だってしようと思ったわ。他人を利用することだって、何とも思わなかった。自由になりたかった。こんな風に生を受けた運命から、解き放たれたかった。全部終わったら、この邑を捨てるの。玄武の力は返したっていい。とにかく全部捨てたかった……。
「まさか……」
 桔梗は小さくつぶやく。
 あの意地っ張りで、強がりで、寂しがりやの、哀しい巫女。彼女の悲痛な願いが、この悲劇を呼んだとしたら。両親を奪い、幼い頃から彼女を抑圧してきたのは邑びとたちの罪。それに彼女が報いたのだとしたら――誰が彼女を責められるだろう。
 しかし、本当の悲劇はそこにはない。
「あのひとは……きっと、そんなこと望んでいなかったはず……」
 まだ見ぬ神獣、玄武。それは一体、何を考えているのか……。桔梗の中に眠る青龍が鎌首をもたげ、低く唸った。
 
 
  三
  
 風を切る白虎。その背から、朔は足元を見下ろしてつぶやいた。
「ひどい……」
「…………」
 昴は目を瞑っている。その彼女を支えているのは、透流だった。
 邑は、まるで何百年も放置されていたかのように荒れ果てている。田畑は枯れ、家は朽ちている。つい先ほどまでいつも通りにひとびとが生活していたなど、信じられないほどの有様だ。
「とら。感じる?」
 ――微弱だが、ひとつだけ……。
 その生命の気配を辿り、白虎は駆けていた。
「そう……ひとつ、だけ」
 朔はつぶやく。
「何で……こんなことに……」
「玄武」
 不意に、昴が口を開いた。その声は冷たく、固い。
「これが貴方の……約束の守り方だったのね」
「昴さま?」
 透流の腕の中で、昴の身体は小刻みに震えていた。
「私が……、私が望んだのはっ」
 朔ははっと振り向く。昴の手に握られているのは――短剣。
「こんなんじゃないっ……!!」
「昴さま!!」
 ――きん!! 金属音がして、刃は跳ね返された。朔はひとまずほっと息をつく。玄武の力に守られたのだ。それが彼女の願いではないとしても……。
「やめてください、昴さん。そんなことをしてもっ」
「誰も生き返らない! わかってるわよ!!」
 ――きん!! ぎいん!! 昴は何度も自らの腹部に短剣をつきたてようとする。だがそのたびに何かが刃の行方を阻んだ。
「わかってるけど!! でも、……でもっ!!」
 泣いている。昴は歯を食いしばり、泣いていた。
「わたしはっ……」
「昴さま!!」
 ざくり、と嫌な音がして、朔は慌てて振り向いた。その頬に血しぶきがかかる。その血は昴のものではなく――透流のもの。昴の短剣を、刃を掴んでひったくったのだ。昴はぽたぽたと滴る血をその身に受けながら、呆然としていた。青く澄んだ瞳からはまだ次々と涙が溢れている。
「と、透流さん」
 朔は慌てて懐から布を取り出した。
「これで縛って!!」
「ありがとうございます」
 透流は落ち着き払った様子で処置する。慣れた手つきだった。
「と……」
 つぶやきかけた昴に、透流は怪我をしていない方の手を振り上げた。――ぱん!! 朔は息をのむ。平手を受けてよろめいた昴の身体を、透流は強く抱きしめた。
「あんたが……、あんたのせいで邑が滅んだなら」
 温和な表情はどこにもなく、透流は呻くように言葉を紡ぐ。
「おれはあんたを許さない。だけど」
 体を離し、透流はがくがくと昴をゆすぶった。彼女はなされるがままにしている。
「あんたが死ぬのは、もっと許さないからな!! そんなの、絶対、絶対に許さないから!!」
 泣いている。透流もまた、悲しみで胸を引き裂かれている。
「ご……」
 昴が顔を上げた。その片頬は、赤く腫れている。
「ご、ごめ、んなさい」
 透流の胸に顔を埋め、昴は叫んだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい!!」
 謝っても許されることではない。彼女の身をもっても贖える罪ではない。それでも、今彼女にできるのはただ謝ること……。
「す、昴さま」
 透流は我に返ったように、昴の背中をそっと撫でた。
「おれ、昴さまを」
 ――殴ってしまった。慌てて彼女の頬にそっと手を触れさせる。そこはじんじんと熱を持っていた。
「ごめん、ごめんなさい」
 ふたりして謝り続ける様は奇妙でもあり、しかし……。
 ――ここだ。
 白虎がすっと地面に降りた。唯一の生存者が、ここにいるという。
「ぼくが行きます」
 朔はそういい、白虎の背から降りる。あたりは変わらず廃墟のようだった。だが、目の前の瓦礫がかすかに音を立てている。――中にだれか?
「とら!!」
 朔の声に従い、風が巻き起こる。それが収まった頃……、朔はあっと声をあげた。
 女性が倒れている。その下に抱かれているのは、少女。母娘だろうか。母は……動いていない。だが少女の手はぴくり、ぴくりと跳ねていた。母親が、身を挺して娘を救ったのだ。
 ――ぼくの母さんも……ぼくを……。
 目の前がぼやけてくるのを感じながら、朔は少女に駆け寄る。どうか生きていて欲しい。母親のためにも、どうか。力ない母親の身体をそっと除け、少女を揺り動かす。
「大丈夫ですか?! しっかりして下さい!」
「ん……」
 声を漏らしながら、ゆっくりと瞬く。
「だれ……? みずの……とさん……?」
 ――生きている!! 朔は狂喜して、白虎に向かって叫んだ。
「彼女を乗せて、みんなのところに!!」
 先ほど癸、と言った。彼の知り合いかもしれない。一刻も早く、彼に会わせたい。母を失った痛みに気付く前に、少しでもそれが和らげられるように。
 白虎が再びそらを駆け始める。再び気を失った少女を支えながら、朔はぎゅっと唇を噛み締めていた。