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壬の巻 第四章

  一

 湯浴みを終えて出てきたふたりの目の前には、新しい着物が置いてあった。壬が置いたわけでもないだろうから、梓か、もしくは誰かこの屋敷の家人が置いたのだろう。白地の単に、紺の狩衣。そして藤の色目を使った小袿。紫苑は思わず立ちすくむ。
「どうしました?」
 桔梗は器用に布を体に巻き付けたまま身支度を終え、最後に足元からするりとさらしだけを抜いた。
「何故、ふたり分……」
 顔に血を上らせて紫苑がつぶやく。桔梗はくすりと笑って、
「声が聞こえたのでしょう?」
 と答えた。
「…………」
 沈黙する紫苑に、桔梗は衣を差し出す。紫苑はそれを受け取り、そそくさと身にまとった。いつまでも布一枚を腰に巻いているわけにもいかない。
「いいじゃないですか」
 一瞬だけ視線が下を向いて、すぐに紫苑を射抜いた。強い眼差しだった。紫苑が僅かにたじろぐほど、強い。透き通った、混じりけのない色。
「私は、紫苑を誰にも渡したくない」
「……桔梗?」
 紫苑は怪訝そうに聞き返す。どうしたのだろう、今までにない桔梗の様子だった。こんな風に、桔梗が不安そうにしたことはない……。
「どうかしたのか?」
「…………」
 桔梗は答えず、少し背伸びをして紫苑に顔を寄せた。紫苑は彼女を抱き止め、その小さな果実のような唇を啄む。甘くて、暖かくて、柔らかい。
「紫苑」
「ん?」
「私のこと……、その……」
 桔梗はためらうように視線をさまよわせた。
「…………」
 紫苑は微笑む。湯浴みを共にするのは何とも思わないくせに、何故こんなことくらいで照れるのだろう。
「お前を、大切に思っているよ」
 紫苑はもう一度、彼女を抱きしめる。
「誰よりも……想っている」
 桔梗は彼の肩に顔を埋め、小さく頷いた。
「私も……です……」

  二

 梓はちょうど一刻半後に姿を見せた。玄関に揃った三人を見渡し、満足げに頷く。壬もいつの間にか、新しい着物に着替えていた。
「それでは、参りましょう」
 後も見ず歩き出す彼女に、紫苑と桔梗、そして壬が続く。壬は足を速めて紫苑の左隣に肩を並べた。
「なあ」
「何だ?」
 紫苑は真っ直ぐ梓を見たまま答えた。
「何か、変じゃねえか?」
「……今更だ」
 紫苑は苦笑する。だが壬はにこりともしない。
「大丈夫かな?」
「……お前らしくないな」
 一瞬だけ、驚いたような視線。
「何か、不安なことがあるのか?」
「…………」
 壬は唇を噛んだ。
「何ってわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「何もかもがいけ好かない。それだけだ」
「…………」
 紫苑は黙って辺りを見回す。整然とした街並み。だが、相変わらずひとの姿は見当たらない。
 ――そういえば、そろそろ夏になるな。紫苑は軽く額をぬぐう。梓は随分と足早で、紫苑ですら少々急いで歩かなければ見失ってしまいそうだった。湯浴みをしたばかりだというのに……。ふとその情景を思い出してしまい、思わず顔に血が上る。湯に隠れた桔梗の白い肢体。濡れた銀髪の下で輝く水晶の瞳。優しい弧を描く紅い唇――。
 桔梗が彼の右手を握った。紫苑はびくり、と肩を震わせる。
「どうしました?」
 桔梗が彼を見上げて尋ねた。紫苑は首を横に振る。
「何でもないよ」
 上手く微笑むことができたか、自信はない。鼓動が早鐘のように体中を鳴り響いている。桔梗と繋いだ自分の手がひどく汗ばんでいるような気がして、綺麗に拭いたかった。
 大切に想っている。先ほど自分はそう言った。本当だろうか? 紫苑は自問した。十月程前、彼女と出会った頃は、ただ守ってやりたいだけだった。自分に似た孤独を、癒してやりたかった。そして……、彼女の存在は徐々に紫苑の中で大きくなっていった。彼女は、紫苑を守ると言う。側にいたいと――好きだと言う。それは紫苑も同じだ。桔梗を守りたい。側にいて欲しい――好きだ。だから、伝えた。「都に帰ったら、自分の妻になって欲しい」と。
 結婚など、死ぬまでしないと思っていた。どうせ彼に子孫を作る能力はない。婚姻など勢力争いの道具としてしか見ていない貴族たちにとって、自分の娘や妹を紫苑に(めあわ)せるなど、考えられぬことだ。本人たちとて、それを望むことはあるまい。紫苑自身も、独り身であることに何の抵抗もなかった。蝶よ花よと育てられた深窓の姫君たちに、紫苑の孤独が分かるとは思えない。それならば、いっそ独りでいい。
 けれど、桔梗だけは特別だった。滅びた一族の最期の御子。その身に運命を背負い、青龍を魂に宿す特別な存在――そんなことなど、全く関係がなかった。少なくとも紫苑の前では、桔梗はごく普通の少女だ。笑い、泣き、怒り、拗ねる。それを毎日のように繰り返す。彼女の感情の豊かさに、寡黙な紫苑は振り回されてばかりだった。だが、それが心地良い。ひっそりと静まり返っていた屋敷が急に活気付いた。式神たちさえもが桔梗によって変わっていく。心温かく、優しく――ずっと、そんな日々が続くと思っていた。昨日と変わらない今日。今日と変わらない明日。そして、そこには当たり前のように桔梗の姿がある。そんなしあわせな日々が、ずっと続けば良い。
 しかし、少しずつ彼らの関係は変わっていたのだろう。ふたりともが気がつかないくらいに、ゆっくりと。それは、壬が現れてから顕著になった。桔梗が側にいることが漠然とではあるが当たり前になっていた紫苑にとって、壬の出現は大きな衝撃だった。そして――思った。「離れたくない」「失いたくない」「側にいて欲しい」と。それは、きっと「大切に想う」のとは違う。もっと自分勝手な感情だ。自分のための感情。自分が、桔梗を欲している。求めている。いなくなることに耐えられない。それだけだ。彼女のしあわせは二の次で、自分の想いを満たしたいだけ。それでいいのだろうか。桔梗がもし自分のこんな感情に気付いても、許してくれるだろうか。それとも――桔梗も、自分と同じなのだろうか……。
 ――私は、紫苑を誰にも渡したくない。桔梗の言葉が脳裏に蘇る。苦しそうな声だった。けれど、それは紫苑も同じ。どうしようもなく苦しい想い。そして……。
「私も、桔梗を誰にも渡すつもりはない……」
 紫苑は小さくつぶやいた。
 
 
  三
  
 巫女が住まうという大社に到着した頃には、日はすっかり沈んでいた。梓は開けられたままの門をくぐり抜け、さらに歩みを進める。門番がいるかもしれぬと紫苑は辺りを見回したが、相変わらず人影は見当たらなかった。真正面に、大きな建物が鎮座している。それを取り囲むように塔が幾つかと、離れの屋敷。御所と同じとまでは言わぬまでも、かなり立派な造りである。だがひとけはなく静まり返っていて、どことなく不気味な雰囲気を醸し出していた。
「あちらが」
 梓が足を止めた。細い手は正面の建物を指している。
「巫女さまのお社にございます」
「左様か」
 梓は紫苑、桔梗、壬を順に見渡した。
「恐れ入りますが、御門紫苑さま以外のお二方にはお目通りはかないませぬ。申し訳ありませぬが、今暫く離れでお待ち下さいませ」
「何?」
 紫苑が聞き返す。
「何故です? そんな話は全く……」
「申し訳御座いませぬ」
「…………」
 黙った紫苑に変わり、壬が進み出た。
「ちょっと待て。俺は弟と会えると聞いたからここまで来たんだ。違うのか」
「違いはしませぬが」
 梓は怯みもせずに言い返した。
「今すぐにというわけにはいかぬと、おわかりいただけることと存じますが」
「俺は直接巫女の口から聞きたかったんだがな」
「申し訳ありませぬ」
「何故紫苑だけなんだ」
「それは」
 梓の表情は少しも動かなかった。
「巫女さまのお考えなれば、わたくしめには計りかねます――」
「わかりました」
 口を開いたのは、桔梗だった。紫苑は驚いて彼女を見つめる。壬も同じだった。そっと、桔梗は紫苑の手を離す。
「おっしゃるとおりに致しましょう。巫女どのとのお話が終わるまで、紫苑を待ちます」
「桔梗……」
 何か言いかける壬を視線で制し、
「ただし……」
 桔梗は言葉を継いだ。
「もし、そちらが約束を違えたり、もしくは紫苑の身に危害が及ぶようなことがあれば――」
 梓が小さく震える。紫苑からは桔梗の顔は見えなかったが、きっと彼女は今、「御子」の顔をしているのだろう。
「御覚悟のほどを」
 桔梗がくるりと微笑む。どこか凄みを残した妖艶な微笑。恐ろしくはない。恐ろしいはずなどない。ただ――美しい、と思った。