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壬の巻 第六章

  一
  
 紫苑が桔梗たちの待つ離れにやってきたのは意外にも早く、別れてから半刻ほどしか経っていなかった。それでも辺りはすっかり暗くなり、雲ひとつない闇空にはかすかに星の光が揺らめき始めている。先ほど、部屋の四方に燭が置かれた。
 簾を開けて、紫苑が姿を見せる。
「おかえりなさい」
 実は彼の足音が聞こえたときから桔梗は既に腰を浮かせていて、壬は苦笑を浮かべながらその様子を見守っていた。紫苑は少し疲れたような表情をしている。
「待たせたな」
「巫女やらと話はできたのか?」
 壬は床に腰を下ろしたまま尋ねる。彼らを案内してきた凪という女はここにいない。もしかしたらまた梓が迎えに来るのかもしれないな、と彼は思った。
「ああ」
 紫苑は頷いた。
「お前の弟とは、明日会えるそうだぞ」
「…………」
 あまりにもあっさりと告げられた言葉に、壬は絶句する。
「……っか」
 声が詰まったようだった。
「そうか……」
 胡座をかいた膝に両手をつき、俯く。泣いているのかもしれない。紫苑は彼から目をそらし、桔梗を見遣った。彼女はすぐ側に立っている。薄い水色の瞳がじっと彼を見つめていた。
「どうかしたか?」
 紫苑は優しく微笑んだ。
「…………」
 桔梗は黙ったまま首を横に振り、彼の腕にしがみつく。
「ん?」
 紫苑は少し驚いたようだったが、彼女のなすがままに腕から力を抜いた。
「どうした? 腹が減ったのか?」
「え?」
 桔梗は思わず声を上げた。
「お腹?」
「ああ」
 紫苑は言う。
「もう夜だからな。腹が減ったのだろう?」
「…………」
 桔梗はきょとんとした後、やがて小さく噴き出した。
「違うのか?」
「違いますよ」
 桔梗は笑う。紫苑が壬の方を見ると、彼は顔を上げて哀れむような視線で彼を眺めていた。
「お前、阿呆だろ」
「何故」
「阿呆だからだ」
 壬は断定し、紫苑が何かを言おうとするより前に口を開いた。
「そういえば巫女はどんな様子だったんだ?」
 おそらく、桔梗はそれが気になっていたに違いない。何しろ紫苑が自分以外の女とふたりきりで会っていたのだ、気にならないはずがない。紫苑は鈍い男だから気付かなかったのだろうが……それにしても空腹なのか、とはまた随分と大きく外したものだ。
「巫女、か」
 紫苑はつぶやいた。
「良く分からない」
「ん?」
「この邑は」
 紫苑は言う。桔梗が見上げてくる視線を、痛いほどに感じていた。
「あやかしとひととが共に生きているのだそうだ」
「へえ?」
 壬は言う。
「変なの」
「…………」
 紫苑は考え込むように視線を落とす。
「紫苑?」
 桔梗の声がした。紫苑は目を上げない。
「もしかすると……」
 その声はとても小さく、しかし桔梗と壬の耳にははっきりと届いた。
「彼女は、私と同じなのかもしれない」

  二
  
 髪を梳く。燭台の光を反射して、それはきらきらと輝いた。
「…………」
 それを一房とり、彼女はじっと見つめる。青い瞳には何の感情もこもっていないようでいて、しかし口元はきゅっと引き締められていた。
「ねえ、玄武」
 彼女ひとりきりの狭い部屋に、小さな声が響く。
「私に約束したこと……、忘れていないでしょうね?」
 沈黙が、満ちる。何かを待つように目を伏せて、やがて彼女はふっと微笑んだ。
「そう。それならばいいのよ」
 彼女は顔から表情が消えた。
「私は忘れてなどいない。愚かな邑びとたちが私にしたこと。私の父や母にしたことを、決して忘れない」
 静かな声。淡々と紡がれるそれは、どこか呪詛にも似ていた。
 彼女の視線が部屋の一角に注がれる。美しい花の描かれた壺が置かれており、その中は何やら黒く粘度の高い液体で満たされていた。
「でも……あの男。そう、御門紫苑といったかしら」
 彼女は話し続けながら、その壺から刷毛(はけ)で少し液体を掬い取った。髪に絡めていく。その液体は、草花から特別に作られた――彼女が作らせたのではないが――染料なのだった。
「私が髪を染めずに出て行っても、何も言わなかった」
 長老たちなどの一部の者たち以外は、誰も知らないことなのに。誰にも知らせてはならないことなのに。彼の口から広まったらどうしよう――だが、そんなことはどうでも良かった。手馴れた手つきで少しずつ、髪を黒く染める。ずっと何年もの間、毎日毎日繰り返してきたこと。
「瞳だけじゃ気付いてもらえないかと思って……でも、彼はどう思ったかしら」
 そしてくすっと笑う。
「私のこと。興味を持ってくれたかしら?」
 この後、長老たちに会わなければならない。きっと紫苑について尋ねるつもりなのだろう。彼らは彼女本来の髪の色を知っているのに、彼女は染めなければならないのだ。それが彼らの意向だからという、それだけの理由で。
「馬鹿馬鹿しい」
 彼女の唇が嘲笑の形に歪んだ。
「こんな茶番、もうすぐ終わらせてやるわ」
 青い瞳が宙を睨む。
「そう、もうすぐ……」

  三
  
 あれから間もなく、彼らは梓に伴われて屋敷に戻った。夕食を摂り終え、彼らは誰からともなく部屋に引き取る。まだ旅の疲れは癒えていない。とにかくゆっくり眠る必要がありそうだった。
 壬は明日弟に会えると聞いて少し落ち着かない様子だったが、口に出しては何も言わなかった。桔梗は同じ水龍族に会えるからか、嬉しそうにしていた。良かった、と紫苑も思う。桔梗を水龍の元に返す気は、今はもうない。それでも桔梗が壬と上手くやれればいいと思う。何より、彼らはもうほとんど滅びてしまって、仲間のいない種族なのだ――彼の母方の血である、鳳凰族と同じように。
 鳳凰族にも彼らのような、ひと知れず生き残っている者がいるのだろうか。もしいるとするならば、いつか会えるだろうか。その時、そのあやかしは彼のような半端な存在をどう思うのだろうか。鳳凰族の母と、その一族を滅ぼした先帝の子。憎まれるだろうか。恨まれるだろうか。それとも……。
「もう休みますか?」
 紫苑らにあてがわれている屋敷には多くの部屋があるのだが、桔梗はまるでそれが当然であるかのように紫苑と共にある。彼も敢えてとがめだてはしなかった。
「そうだな」
 紫苑は頷いた。桔梗が部屋の隅の燭を吹き消し、辺りは暗闇に満ちる。ゆっくりと闇に目が慣れて、紫苑は桔梗を視界に捕らえた。闇に滲む彼女の輪郭が、何故かひどく儚げに見えて、
「桔梗」
 思わず、声を掛けた。
「はい?」
 一般的に、ひとよりもあやかしの方が夜目はきくという。桔梗は紫苑が見えていないと勘違いしたのかもしれない。立ちすくむ彼の手をとった。
「…………」
 紫苑はその手を握り、彼女の華奢な体を腕の中に包み込む。
「紫苑……?」
 桔梗の声が上ずる。紫苑はただ力を込めて、彼女を抱きしめた。
「どうしたんですか?」
「…………」
 説明できない。紫苑は言葉に窮した。まさか、桔梗が夜に溶けてしまいそうだった、とは言えない。自分の前から消えてしまいそうで、怖かった。そして何よりも――この邑が、怖い。
「…………」
 桔梗は腕を回して紫苑の背中を優しく叩いた。
「ねえ、聞かせてください」
「何をだ?」
「巫女さんのこと。どんなひとでした?」
「何故、今頃」
 不思議そうにいう紫苑に、桔梗は頬をふくらませたようだった。姿はもうすっかり成人なのに、そういうところだけはいつまでも子供のようだ。
「気になりますよ、だって」
「そうか?」
「紫苑と同じかもしれないって、何がです?」
「ああ……そのことか」
 紫苑はつぶやいた。桔梗は黙って彼を見上げている。闇の中でさえその瞳は力を持って、類まれな宝玉であるかのように輝いていた。紫苑はその目を真っ直ぐに見つめる。
「彼女の髪の色が、こがね色だった」
「え……?」
 桔梗はさすがに驚いたように目を見開いた。
「そして瞳は」
 紫苑はさらに言葉を継ぐ。
「青」
「それって……」
 桔梗の言葉の先を察し、紫苑は首を横に振った。
「分からない。だが、あやかしには見受けられなかった」
「ということは」
 桔梗は声を低める。
「……半妖かもしれないってことですか」
「可能性は、ある」
 紫苑は頷いた。
「…………」
 桔梗は紫苑を見上げる。しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「紫苑」
「何だ?」
「今夜は、ずっと手を繋いでいてください」
「寝ている時もか?」
「はい」
「構わないが……指が痺れるかもしれないぞ」
「……いいんです」
 桔梗は頷く。
「寝ている間に、紫苑がどこかに行ってしまわないように」
「…………」
 紫苑は少し驚いたように、紫電の瞳を瞬かせた。
「どこに行くというんだ? 私はここにいる。他に行くところなどない」
「…………」
 桔梗は唇を噛んだ。けれど、もしその巫女が半妖だったら……紫苑と同じだったら……彼女の側も紫苑の居場所になるかもしれない。
 紫苑は桔梗を腕に抱いたまま言葉を継いだ。鈍い彼は、きっと彼女の胸のうちなど知らない――そのはずなのに。
「お前がここに居るんだ。私の居場所は、お前の側にしかない。そうだろう?」
 不覚にも泣きそうになる。桔梗は自分の肩に置かれている紫苑の手をぎゅっと握り締めた。
「……はい」
 声の震えは気付かれなかったはず。頬に涙が一粒だけ伝った。桔梗は願う。闇が、涙を隠してくれますように。これは悲しい涙ではないのだから、紫苑が心配しなくていいように――安らかに眠れるように。