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壬の巻 第八章

  第八章
  
  
  一
  

 水龍族は、時に水晶に喩えられる。その白い肌を彩る美しい銀髪と青い瞳によるものだろう。「殺戮者」との異名をとるほどの殺性を持ちながらも忌諱されるのではなく畏怖の対象であったのは、その美しくも儚げな色彩によるところが大きいのかもしれない。だが、今はもうその貴重な宝玉のほとんどは失われてしまった。残るのは桔梗と、壬と。そして、癸だけ――。
「髪……、ああ」
 癸は訳知り顔で頷いた。
「驚かせてごめんね、兄さん」
「…………」
 壬は唖然としたまま弟を見ている。静かな青い瞳は昔のまま、朝日をうつして穏やかに揺らめいていた。けれど、彼の髪は……。
 癸は問い掛ける。
「この邑のこと、どれくらい聞いた?」
「い、いや……俺は」
 そもそも何から話し始めればいいのだろう。紫苑のこと、桔梗のこと、何故か燐のことまでも……取り留めなく頭の中をぐるぐると回る。口ごもる壬を見つめ、癸は鋭く息を吐いた。
「まあ」
 癸は柔らかな身のこなしで腰を下ろす。壬も自分が立ち尽くしたままだったことに気付き、癸にならって床に座した。
「昴さんに……巫女に会ったのは、紫苑さんだっけ、そのひとだけだと聞いたから、まだあまり良く知らないのかもしれないけれど」
 癸は髪の先を指に絡めた。長い黒髪はうなじで一つに結ばれ、背中をつややかに流れている。
「この邑があやかしを受け入れるようになったのは、十年ほど前。僕が初めてここに来たときなんだ」
「……十年……」
「うん。水龍が滅びてから、僕はずっと」
 目を伏せて小さく微笑む。その寂しげな微笑に、子供の頃の無邪気な面影はない。
「ひとりきりで放浪していた。ひとに見つからないように、逃げて、逃げて……」
 勿論、水龍族である癸がひとに負けるわけにはないのだけれど、彼はその力で他人を傷つけることを嫌う。昔から、そうだった。
「あるとき、この邑に辿り着いた」
 壬は口を挟むことなく聞き入った。
「邑は恐慌状態に陥ったよ……だって、僕は水龍だものね」
 何かを思い出すように細められた眼差しは、深い海の色。
「殺してしまえという者、ただ恐れる者、手を差し伸べようとする者……いろんなひとがいたけれど、ここの長老の意見は大体同じだった」
 一度口をつぐみ、そして、言葉はため息混じりに吐き出された。
「関わるな、と。自分たちは何も見なかった、聞かなかった。だから、どこか遠くへ行ってくれ……」
「…………」
「ずっと人里のないところをうろついていたから相当空腹だったし、しかもちょうど冬で、このあたりは完全に雪に閉ざされていた。いよいよ凍死するしかないかな、って思ったよ」
 壬はぐっとこぶしを握る。彼は――たまたま他のあやかしたちの集う集落に辿り着くことができた。だが、そうでないものたちは、きっと次々と命を落としていっただろう。飢え死にしたもの、凍え死んだもの――もしかすると野犬に襲われたものもいたかもしれない。
 癸は兄にちらりと視線を向けた。
「その時――巫女が言ったんだ」
 ――その者をこの邑に住まわせよ。
「玄武のお告げだって、言って」
「玄武の?」
 疑わしそうな視線を向ける壬に、癸は頷いて見せる。
「僕も怪しいと思った。勿論、長老たちは大反対」
「そりゃなあ……」
 思わずつぶやいていた。紫苑が都で受けている扱いを、彼は知っている。あやかしの血を半分受け継いでいる、というだけであれほどまでに忌み嫌われているのである。純粋にあやかしで、しかも一度は朝敵と見なされた水龍族の生き残りである癸。いくらこの邑が都から離れていて朝廷の目の届かない場所だと言っても、暖かく歓迎されるわけがない。
「それからどういうやりとりがあったのか、僕は知らない。ただ、三日ほど経って、ひとつの条件が出された」
 ――その条件が、
「髪を染めること。銀の髪は、どうしたって目立つから」
「それで……?」
「うん。目の色や耳の形はどうしようもないから、別に構わないってことになった。とにかく邑びとたちが慣れるのを待ってくれと――そう言われた」
「誰に?」
「……巫女と呼ばれている、彼女」
「上宮――」
「昴さん、だよ」
 壬は目を上げた。
「それで、その髪か」
「うん」
「…………」
 複雑な気持ちだった。子供じみた感傷なのかもしれない。けれど、水龍としての絆に傷をつけられたような――そんな気持ちがする。癸は兄の葛藤には気付かない。もしくは気付かないふりをしていた。
「巫女は当時まだ十歳くらいだったはずだけれど、とてもしっかりしていて、実質的な邑の支配者である長老たちを上手く御していた。今もそれは変わらない……不思議なひとだよ」
「十歳……」
 壬はつぶやいた。巫女は今、二十歳前後ということか。
「以来、この邑はあやかしを受け入れ始めたんだ。『髪を染めること』と『邑の秩序を乱さないこと』……これを条件として」
「……そうか」
 壬は搾り出すように答える。そういえば紫苑が言っていた。「この邑はあやかしとひととが共に生きているのだそうだ」――と。
 そして、癸の髪が黒い理由はわかった。わかったのだが――癸には、聞かなければならないことがある。壬は顔を上げ、弟の顔を真正面から見つめる。両手をきつくきつく握り締めた。爪が皮膚に食い込むほどに。――これを聞くために、自分はここまで来たのだ。
「お前は今、しあわせか?」
 癸の瞳が大きく見開かれる。唇がきゅっと引き結ばれた。ごくり――壬は唾を飲む。
「…………」
 暫しの間の後、癸は静かに首を動かした。
 
 
  二
  
 昼にも関わらず、部屋にたゆとう薄闇。その内に潜む何かの気配を敏感に感じ取り――もしかすると無意識の内に玄武によって教えられたのかもしれないが――昴は体を起こした。
「誰?」
 燭の火は消えている。昴は小さく舌を鳴らした。しばらく誰も本殿に近づかないようにと申し渡したのは自分自身である。おそらく声を上げても誰も来ないであろう。
 昨夜の長老たちの審問は夜更けにまで及び、昴は朝方ようやく眠りについた。長老たちは御門紫苑を、そして彼の連れである水龍を恐れているのだ。今はもう邑びとの一員であるはずの、邑に住むあやかしたちに何らかの影響を及ぼすのではないかと。――彼らにそのような意図は見られなかった。昴はそう思っている。だが、実際そんなことは彼女にとってどうでも良かった。彼女が本当に待っているのは……。
「お初にお目にかかります。突然の訪問、ご無礼をお許し下さい」
 声の主は女性だった。昴は僅かに安堵する。
「名を、お名乗り下さい」
 ともし火は点けぬまま、昴は聞き返した。安易に明かりを点けるわけにはいかない。眠る前に染料は髪から洗い落としてしまったのだ。今の彼女の髪は、生来の色――黄金色である。
「名を申し上げても」
 澄んだ音色は音楽のように昴の耳を打つ。
「貴方にはお心当たりはないかもしれません。でも――」
 ざわり、と皮膚が粟立った。
「水龍族最後の御子。そう申し上げれば、貴方は……もしくは貴方の内の玄武が。おそらくは何かご存知でしょう」
 昴は絶句した。水龍族最後の御子。青龍をその魂に宿すもの。御門紫苑と共にこの地を訪れている、あやかしのうちのひとり。その彼女が、何故今ここに……。
「兄弟の対面を邪魔するつもりはないので、今紫苑と私は少し暇なんです」
 彼女の胸のうちを読んだかのように、声は語る。
「紫苑には屋敷の中を散歩するって言って出てきてしまいましたから、すぐに戻るつもりでいますけれど」
「だ、誰かに」
 かすかに声が掠れていた。昴はそんな自分を叱咤する。こんなことで気圧されてどうするのか。何も見えぬ闇をしっかりと見据え、
「見咎められたらどうするおつもりでしたか」
 きつい声で言う。
「貴方の軽率な行動で、御門どののお立場が危うくなるやもしれませぬのに」
「ご心配なく」
 空気が揺れる。闇に潜む者は笑ったようだった。
「そんなことになるくらいなら、見た者の口を封じますから」
「…………」
 再び絶句。昴が立ち直る前に、闇は続けて言った。
「冗談ですけれど」
「……悪い冗談はお控え下さい」
「ご気分を害されたようですね。申し訳ありませんでした」
「一体、貴方は何をしにいらしたのですか」
 苛立ちを隠す様子もなく、昴は言う。この者が何であるか、そんなことは関係ない。自分は上宮昴だ。あの時――この世にたったひとりぼっちになったとき、誇り高く生きていくと決めた。いつだって前を向いて、うな垂れることなく昂然と頭をもたげていようと。こんなところで萎縮してはいけない。気高く、毅然としていなければ……。
「そうそう、本題を忘れるところでした」
「…………」
 昴は唇を噛み締めた。その小さな痛みが、彼女の背筋をぴんと伸ばさせる。
「貴方の目的が何かは知らないけれど……」
 りん、と空気が震える。
「紫苑を利用することは、許しません」
「…………」
 はっと息を呑む。次の瞬間、気配は忽然と消えうせていた。――夢? いや、違う。昴は掌が汗ばむのを感じた。あれは、警告なのだ。自分に対する、警告。
「……面白いわ」
 さらり、と髪をかき上げる。あの御子がどれほどのものかは知らないけれど……。
「私の邪魔をするのなら、後悔してもらう」
 昴の首元で、何かがじゃらりと音を立てた。