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壬の巻 第五章

  一

 遠ざかっていく、紫苑と梓のふたつの背中。それをじっと見つめる桔梗に、壬が声を掛けた。
「良かったのか?」
「…………」
 桔梗は少しだけ口元で笑う。薄い色の瞳は、どこか寂しそうだった。
「勿論、ついて行けるものなら行きたかった。でも」
 桔梗の瞳が壬を映し出した。
「貴方の弟は、向こうの手の内にあるのですし」
「…………」
 壬は思わず息を飲んだ。まさか、自分の弟のことを気遣って退いたのだとは思わなかった。紫苑を傷つけ、都から離れなければならない状況にまで追い込んだのは自分なのに──。
「そうはいっても」
 桔梗は穏やかに言う。
「さっきも言ったとおり、紫苑に何かあれば遠慮はしませんけれど」
 桔梗の微笑は優しく、静かだった。そしてそれは壬に向いている。
「壬たち兄弟は私と同じ、水龍ですものね」
「み……」
 ──御子、と呼びそうになって、壬は慌てて咳払いをした。
「ありがとう」
 嬉しかった。まさか彼女の口からそんな言葉を聞けるとは。彼女の存在は、そしてその運命は、水龍がどうとか、そんな狭いところには留まらないものなのだろう。
 かつて、燐が言っていた言葉を思い出す――桔梗ちゃんは、確かに君の知る「御子」ではないかもしれない。でも君と同じ水龍族であることには変わりない。その絆を、君は大切にできないかい。そのとき、壬はためらった。紫苑が許せない。いや、人間たちが許せない。自分から「御子」を奪った全てが許せない。そう思っていた。けれど、本当は……。
「わかってたよ」
 壬はふっと表情を緩めた。桔梗が怪訝そうに首を傾ける。
「俺じゃ駄目だってことくらい」
 青龍の魂を宿す、運命の御子。その全てを受け止められる度量は、自分にはない。あの男のようには、できない。だから、今自分にできることは弟を探すこと。弟がしあわせでいるかどうかをこの目で確かめたい。もしここで彼がしあわせに暮らしているのなら、そのときは……。
 ふと何者かの気配を感じて、ふたりは同時に視線をそちらへと向けた。ざり、ざり、と小石を踏む小さな音。梓と同い年くらいの若い娘が、いくらか離れた場所に佇んでいた。薄布をかぶっていて、顔は良く見えない。ほっそりと、儚げな印象の少女だった。
「おふたりを離れにご案内致します」
「お名前は?」
 桔梗が尋ねた。早くも踵を返そうと背を向けかけていた娘は、そのままの体勢で返事をする。
「……凪と申します」
 そうしてそれ以上の会話を拒絶するように、凪は足早に歩き始めた。
「…………」
 桔梗と壬は一瞬視線を見交わし、やがて彼女の後を追った。
 
 
  二
  
 紫苑は幾つもの回廊を通り、ようやく本殿へと到着した。大きな門の両脇には、武装した門番らしい男がふたり、立っている。梓と紫苑が現れても、そちらに視線を向けることすらなかった。
 梓は手早く門を押し開ける。鍵は掛かっていないらしい。
「こちらでございます」
「…………」
 入れということだろうか。困惑した紫苑が梓に視線で問うが、彼女はただ黙って見返してくる。
「…………」
 紫苑は致し方なく門の内へと足を踏み入れた。中に入って数歩進んだところで、音を立てて背後の扉が閉ざされる。紫苑は振り向こうかと思ったが、やめた。壁の両脇にずらりと並んだ燭が、一瞬の外気に煽られて揺れる。
「お待ちしておりました」
 りん、とした声が響き渡った。
 紫苑は足を止め、奥を眺める。背の高い燭台を両脇に従えるようにして一段高い場所がある。普段は帳で仕切っているのだろうが、今日は高く引き上げられていて、奥に女性らしき人影が見えた。都では、年頃の貴族の子女は決して他人の前に顔を見せない。紫苑は思わぬ状況に少々面食らった。まさか、巫女自らが顔を見せるとは――。
「どうぞ、こちらへ」
 薄紅から濃赤へと重ねられた単の、一番上には白い衣。袴の色も赤であるようだった。紫苑は不躾かと思いながらも、真っ直ぐに見据える。お互いの顔がはっきりと見えるようになった頃、女は一礼した。
「はじめまして」
 長い髪が、零れ落ちる。
「上宮昴と申します」
 その結い上げられた髪は、見たこともないほど鮮やかな黄金の色。その額の下には、まるで深く済んだ泉のような青い瞳が微笑んでいた。
「…………!」
 紫苑は一瞬絶句するが、今自分のなすべきことを思い出し、気を取り直した。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
 座している相手に合わせるように、彼もまた腰を下ろす。ひんやりとした床が心地良かった。
「御門紫苑と申します。この度は突然の来訪により多大なご迷惑を掛けたにもかかわらず、ご歓待いただき心より感謝申し上げます」
「突然ではありませんでした」
 昴は穏やかに言う。
「玄武が知らせてくれましたから」
「…………」
 紫苑は黙する。
 昴は、ひとにしか見えない。見たところ肌は陶器のように白く、どこにも文様はないし、耳も尖ってはいない。しかし、彼女以外にこのような髪や目を持つひとを、紫苑は知らなかった。――自分を除いては。もしかして、この女性は自分と同じなのだろうか。自分と同じ、半妖なのだろうか……。
「ご同行の方の弟ぎみ、癸には既に話を通してあります」
 昴はあくまでも微笑を崩さない。まるで面でも貼り付けているようだ、と思った。
「明日にでもお会いできるでしょう、とお伝え下さい」
「かたじけない」
「いいえ」
 強縮する紫苑を慰撫するように、昴は目を細める。その目も髪も、白磁の肌との対照が眩しい。
「はるばる都からご高名な御門紫苑さまがいらっしゃるのですもの。これくらいは当たり前のことです」
「ご高名、ね」
 紫苑は思わず苦笑した。
「何で高名なのかは敢えてお尋ねしませぬが……」
「わたくしたちの里では」
 昴は強い口調でさえぎった。
「あやかしとひととが共存しております」
「…………」
 紫苑はじっと昴を見据えた。多分、今自分は笑っていない。
「きっと、快適にご滞在されることと存じますわ」
 ふわりと笑うさまは、清楚でいて華やかな、胡蝶蘭のようでさえある。しかし、
「できるだけご迷惑は掛けますまい」
 紫苑は固い表情でそう言うと、まるでそれを隠すかのように深々と一礼した。
「…………」
 昴はそれを高座で眺めながら、こっそりと深く息を吐く。――これじゃあ駄目か。誰にも聞こえぬつぶやきを、胸の内に洩らしながら。
 
 
  三
  
 翌日、都は雨だった。朔は縁に座り、滴に打たれる木々の葉を眺めている。いつしか、式神も葉月という男性の形をしたものと、あざみという女房姿のものに変わった。紫苑はあまり名づけの才がないのかもしれない。いかにも単純な名であった。
 父、燐は宮中に参内しており、朔はひとりだ。否、傍らには白猫が寝そべっている。この小柄な猫が四聖獣の一、白虎のかりそめの姿であるとは誰も気付くまい。
「紫苑さんたち、もう着いたかなあ」
 猫が小さく鳴いた。どうやら肯定の返事を返したらしい。
「そっかあ」
 朔は顔を綻ばせる。上気した頬は彼の髪と同じ、咲き誇る桜の色だった。――それは、今は亡き母から受け継いだもの。
「でも、大丈夫かな。昴さん、変なひとだから」
 そう言って顔を翳らせる。その表情は、父と瓜ふたつであった。
「ぼくが思うに、きっとあのひとは紫苑さんを気に入ると思うんだよ」
 朔はうんうん、と頷く。
「ということは、紫苑さんを巡って桔梗さんと昴さんが争っちゃうかもしれないよね」
 年齢よりもずっと大人びた外見で、さらに大人びたことを言う。こんなところも父親譲りだろうか。
「紫苑さんは桔梗さんにぞっこんだと思うけど、その程度で引き下がる昴さんじゃないだろうし……」
 朔は思い出す。――「わたし、都に行きたいわ」と、昴は透き通った声で歌うように言った。
「こんなところに閉じ込められているのはうんざり。どうせわたしは傀儡(かいらい)、いけ好かない長老どもがいればこの邑は維持できるのだから」
 きらきらと輝く宝玉のような瞳が、朔を見つめて微笑む――「あなたがもっと大きかったら、誘惑して連れ出してもらうのだけどね?」
「紫苑さんに、実行しようとしてないといいけど……」
 憂い顔で空を仰ぎ、彼は小さく叫んだ。
「やあ、虹だ!」
 いつの間にか雨が上がり、ぼんやりとした七色の架け橋が立ち上がっている。まるでそれは出雲の国に続いているようで……。空は徐々に明るさを取り戻し、厚い雲は辺縁へと散り散りになっていく。差し込む光はぼんやりと、しかし真夏の訪れを思わせる眩しさで辺りを照らし出していた。
「綺麗だね、とら!」
 朔は年齢相応の笑顔を取り戻し、いつしかその光が消えてしまうまでずっと空を眺めていた。