instagram

壬の巻 第二章

  一
  
 燭の火がゆらり、と揺れる。白木造りの壁に墨汁を流したような影。
「……そう」
 つぶやかれた声は空間に広がることもなく、減衰して消える。それほどまでにここは静謐だった。木の厚い壁は外のさざめきも、風のそよぎも、何も通さない。時の流れさえもが緩んでいた。そこにひとり居る、彼女。紅唇に微笑を含む。
「彼らが、来るのね」
 間。余人には聞こえぬ「声」を聞いて、彼女は笑った。
「案ずるな。ちゃんとあの水龍兄弟の対面は取り計らってある」
 さらに、間。彼女は、笑わなかった。
「それは余計なお世話よ」
 何かを断ち切るように、彼女は吐き捨てる。
「私は貴方の操り人形などにはならない。勘違いしないことね」
 目を閉じた。気配は去る。
 彼女は、ひとり。訪れた沈黙はあまりに長く、深かった。

  二

 ――何かが変わった。桔梗はそう思う。壬の言葉から刺々しさが消え、代わりに力の抜けた悪戯心が散見されるようになった。変わったのは壬だけではない。紫苑もだ。壬に向ける表情はもはやかすかに強ばることすらないし、声も桔梗にしか気付かれない程度の固さを帯びることもない。まるで、ふたりが会話の掛け合いを楽しんでいるかのように見えることすらある。
「良かった、よね」
 桔梗はつぶやく。――ん? と紫苑が聞き返した。桔梗は無言で彼の胸に体を預ける。眼前には栗毛のたてがみが揺れていた。
 馬に乗るのも悪くない。少なくとも牛車よりはずっと紫苑に触れていられるし、紫苑が手綱を引くとまるで背中から抱きしめられているようだ。
「どうかしたか?」
 振り仰ぐと、彼の額にはかすかに汗の玉が浮いていた。髪は無造作に結い上げてある。
「いいえ」
 桔梗はわずかに身をよじって紫苑の胸元に頬を寄せた。どうせ山道で、馬もたいした速度では走れない。馬を駆る紫苑の邪魔にはなるまい。
「…………」
 紫苑は桔梗に見えないところで、かすかに頬を赤らめている。桔梗の髪の匂いが鼻をくすぐった。まるで水桃のように爽やかで、甘い。香を焚き染めてなどいないから、きっと桔梗自身が発している匂いだろう。――不意に、紫苑は自分の汗ばんだ体が気になった。
「なあ」
 先行していた壬が声を上げる。彼の乗る馬は、黒い。
「何だ」
 紫苑は聞き返す。
「玄武の巫女ってのは何者だ」
「知らん」
 紫苑は即答した。
「お前の知識とそう大差ないと思え」
「……やれやれ」
 壬は肩をすくめたようだった。
「お前や桔梗みたいに、その巫女には玄武が味方として憑いてるってことかね?」
「さあな」
 紫苑は首をかしげた。味方……、朱雀は、味方なのだろうか? 少年の頃に交わした契約によって式神として使役しているが、それは何か思惑があってのことかもしれない。青龍は、今では桔梗そのものとなっている。彼女は、彼の味方なのだろうか。桔梗は……彼の……。
「紫苑?」
 腕の中にいた桔梗がいつの間にか顔を上げていた。紫苑の胸の中で起こった感情の動きに、どうやら彼女は勘付いたらしい。
「どうかしましたか?」
「いや……」
 紫苑は微笑んだ。
「何でもない」
 かつて桔梗の中に眠る青龍と初めて対峙した時、圧倒的な存在感を目の前にして紫苑が感じたのは、穏やかな諦念だった。彼女に殺されるのなら仕方がない。そう思った。理由はない。別に死にたかったわけでもない。ただ、甘んじてその運命を受け入れようと思っただけ。――結局、彼女が彼を傷つけることなどなかったのだが。
「紫苑」
 今度は問いかけではなかった。ただ、呼んだだけだ。
「どうした?」
 紫苑は聞き返す。桔梗の顔は、見えなかった。
「連れてきてくれて、ありがとう」
「え?」
「だって」
 その声が思いの他強い調子で、紫苑は彼女が拗ねているのかと思った。しかし、桔梗の表情は穏やかだ。
「出雲の国に用事があるのは紫苑と壬だけ……、私が来る理由はありませんでしたから」
「……そうだな」
 紫苑はつぶやく。実は、そのことには言われて初めて気がついた。
 紫苑にはしばらく都を離れる必要があった。彼の実父が先帝であるという噂――たとえそれが事実であったとしても、彼がそのまま都に留まるのは得策ではない。権力争いの道具になるのは真っ平御免だし、そもそも帝の彼に対するおぼえが悪くなるような事態は避けたい。紫苑自身も、権勢への執着はなかった。
 そして、壬。彼の弟は、玄武の巫女の庇護下にあるという。水龍が滅びてからどれくらいになるのか……紫苑は覚えていないが、良くぞ生き延びていたものだと思う。青龍の力を借りた桔梗とは違い、壬もその弟も、自分ひとりの力で生きなければならなかった。壬は口にしないが、並大抵ではない苦労があっただろう。彼は、弟に会うために出雲の国へ行くことを決めた。
 そのふたりに同行する形で、桔梗は今こうして馬上にいるのである。彼女自身は出雲の国には何の用もない。たとえば……そう、あくまでたとえばの話ではあるけれども、彼女は燐や朔らと共に都に残っても良かったのである。
「…………」
 紫苑は桔梗の細い肩を押し包むように、そっと腕の幅を狭めた。
「何となく、お前は来るものと決めていたな」
「…………」
 桔梗は何も言わない。不意に、紫苑は不安になった。
「残っていたかったか? 長い旅路は、辛いか?」
「いいえ!」
 桔梗は強く否定する。
「そんなこと、ないです」
 言葉を重ねた。
「私、紫苑と一緒に来たかったから」
「…………」
 体を捻り、桔梗は振り返った。乱れる銀糸の髪の中から覗く、白い顔。大きな水色の瞳が紫苑を真っ直ぐ射抜いた。紫苑が見つめる中、桔梗の唇がやんわりと微笑んだ。
「どこへでも着いていきますよ」
「……どこへでも?」
「ええ」
 桔梗は頷いた。
「どこへでも……どこまででも」
「…………」
 紫苑は軽く背を曲げた。ひそかに、わずかに重なる吐息。あまりに桔梗がいじらしくて、愛しくて、たまらなかった。どこへでも、どこまででも、この腕に抱いて運んでやろうと思った。決して零れ落ちぬように。この綺麗な想いが、どこへも行かぬように。
 
 
  三
  
 都を出て半月。昼を少し過ぎた頃だろうか、生い茂る木の葉に隠されていたはずの日差しに突然目を射られて、紫苑は目を細めた。山が、開けた。
「あれが……」
「玄武の巫女の、治める地……」
 紫苑と壬が口々につぶやく。互いの馬の足は止まっていた。
 眼下に広がる一面の人里は、ここが都から遥か離れているとは思えないほど整然としている。いや、遠望しただけでは都の郊外と大差ないように見えた。少々田畑などの緑が多いように見受けられるが、それは致し方のないことだ。山に囲まれたこの地では、自給自足が余儀なくされるのだろう。
「たいしたものだ」
 紫苑は唸る。物資の輸送に不向きな土地にありながら、これほどまでに高い生活水準を実現しているとは……。巫女がどういった存在なのかはまだわからないし、直接彼女が(まつりごと)を行っているのかも不明だ。しかし、この地には明らかな秩序がある。それだけは確かだった。
「…………」
 壬は暫く睨みつけるように里を眺めていた。――弟がいる。この光景の、どこかに。
「……行くか」
 紫苑が促し、彼らは下り坂へと馬を歩ませる。一端開けた視界も、再び木々に覆われてしまった。
「壬」
「なんだ」
 壬は振り返らない。
「お前の弟は、あやかしだな」
「当たり前だろう」
 呆れたような声が返ってくるが、紫苑は眉をひそめたまま何も言わない。
「それが、どうかしたか」
「いや……」
 今見えたのは、人里だった。そこにあやかしが、しかも最強と言われる水龍族が、どうやって生きているのだろう。――わからない。
 やがて行路が山道から平坦な道路に変わっても、紫苑の険しい表情が緩むことはなかった。