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壬の巻 第九章

  一
  
 ざく、ざく、ざく。砂を踏みしめる音だけが辺りに響いている。前を歩むのは癸。その隣には紫苑。三歩ほど遅れて壬が行く。既に日は高く、初夏の強い日差しが彼らを照らしていた。壬の額には汗の玉が浮かんでいる。巫女の命令なのか、相変わらず町並みに人影はない。
「…………」
 歩き始めてから四半刻ほど経っただろうか。いつの間にか人家はまばらになっていた。彼らの左右に広がる田畑には、あおあおとした緑が揺れている。
 不意に、紫苑が壬の隣に並んだ。
「お前、どうしたんだ」
 声を低めて尋ねられる。この日差しの中では暑苦しかったのだろう、長い黒髪は頭頂部で結わえられている。それでも幾筋かは彼の首筋にまとわりついていた。
「何が?」
 壬はぶっきらぼうに聞き返す。
「兄弟の再会だろう。もっと話すことはないのか」
「…………」
 壬は肩をすくめる。紫苑は不思議そうに彼の横顔を見つめた。

 一刻ほど前、紫苑の部屋を兄弟は揃って訪れた。
「桔梗は?」
 尋ねる壬に、紫苑は首をひねる。
「さあ。その辺をぶらぶらしてくると言っていた。庭ではないか?」
「ふうん……」
「探して来てやってもいいが」
「まあ、後でいいや」
 壬は軽い調子で言うと、背後に立っていた弟が紫苑に見えるように、一歩右へと退いた。
「こいつが癸。俺の双子の弟だ」
「どうも。御門紫苑です」
 紫苑は軽く会釈する。
 癸は線の細い青年で、がっしりとした体格の壬とは一見したところあまり似ていない。だが深い青色の瞳は同じで、またどことなく面影が似ている。兄弟とは面白いものだな、と思った。しかし、水龍であるはずの彼の髪が黒いというのは……?
「はじめまして」
 癸もまた礼をする。しなやかな身のこなしだった。
「兄が色々とご迷惑をお掛けしたそうで……詳しくは存じませんけれど、本当にすみませんでした。僕からも謝罪させて下さい」
「いや、済んだことです……どうぞお気になさらず」
 立ち居振る舞いも言葉も、あまりにも兄と違う。当惑を含んだ眼差しを兄に投げかけるが、知らないふりをされてしまった。紫苑は困って癸に視線を戻す。彼はどこまで聞いたのだろう。自分のこと。兄のこと。桔梗のこと……。
「紫電の瞳、ですか」
 癸が口を開いた。壬が息を飲む気配がする。紫苑はかすかに体を強張らせた。
「僕は初めて見ましたけれど」
 静かな微笑み。
「綺麗なものですね」
「…………」
 言葉が見つからない。立ち尽くす紫苑に救いの手を差し伸べるかのように、壬は口を開いた。
「そういえば、今から少し行きたいところがあるんだ」
「今から?」
 問い掛ける紫苑に、壬は説明を重ねる。
「癸が今住んでいる場所なんだけど……邑外れの方だって」
「勝手に出歩いても大丈夫だろうか」
「それなら大丈夫」
 癸が頷いた。
「ただ、桔梗さんが今いらっしゃらないのであれば、帰りをお待ちした方が良いかな」
「それは俺よりもこいつの方が分かるだろ。な?」
「まあ、それほど遠いところでなければ……書置きでもしておくか?」
「なるほど」
 癸は微笑んでうなずく。
「御子――今は桔梗という名だとお聞きしましたけれど、共にある方が貴方のようなひとで安心しました」
 紫苑の強張りが解ける。癸の言葉がが胸に沁みた。桔梗はしあわせなのだろうか、自分は彼女をしあわせにしてやれているのだろうか……。脳裏に浮かぶのは花のような笑顔。――きっと、大丈夫。
 紫苑は文机の上に置かれていた墨を手早くすり、筆にふくませてさらさらと紙の上を滑らせた。
「では、参りましょうか」
 立ち上がる彼の前で、双子の兄弟はほぼ時を同じくして頷いた。
 
 
  二
 
 空と大地、そして山。ただ、広かった。人家の存在感などこの三者の前ではないのも同じ。癸が足を止めたのは、小さな民家の前だった。農業を営んでいるのだろう、木戸の脇には鍬や鋤が無造作に立てかけてある。
「ここが僕の家」
 兄に対しての言葉だ。壬は黙って頷く。紫苑は数歩下がり、兄弟を見つめた。所詮自分は第三者なのだ。図々しく首をつっこむつもりはない。
「おばさん、加乃(かの)ちゃん、ただいま帰りました」
 癸が戸の奥に声を掛ける。壬はぴくりと体を震わせた。――それは、誰だ? 口をつきかけた言葉を飲み込む。
 ぱたぱたと軽い足音がして、彼らの前にひとりの少女が姿を見せた。黒い髪、黒い目――ひとだ。年は十代の半ばといったところだろう。背中に届くほどの長さの髪をうなじでまとめ、頭には布を巻いている。水仕事の最中だったのか、肘から先は濡れていて、ぽたぽたと滴がたれていた。
「お帰りなさい!」
 この少女が加乃なのだろう。癸の両脇にいる人物を見て、緊張の表情を浮かべる。癸が一歩踏み出した。
「巫女さまからお達しがあっただろう、僕の兄さんと、その旅連れの方。本当はもう一方いらっしゃるのだけど、今は屋敷におられる」
「……ああ」
 加乃はぺこり、と頭を下げた。
「はじめまして。加乃です」
「は、はじめまして」
 壬は当惑の表情を浮かべながらも礼を返す。
「癸の兄の……、壬です」
「御門紫苑です」
 紫苑は簡単に返礼した。
「わあ」
 加乃はひょい、と土間に降りた。裸足だが気にする様子はない。壬に近付き、見上げた。視線の先には彼の銀髪がある。
「きれい!」
「え?」
 壬は目を瞬く。
「本当は癸さんも同じ髪の色なんでしょう? ここじゃ髪を染めないと駄目だから、なかなか本当の色が見られなくて」
 ひとしきり凝視した後あまりに不躾だと悟ったのか、加乃は顔を赤らめてさっと退く。そんな彼女の様子を、癸はにこにこと眺めていた。加乃はぐいと癸の袖を引く。
「お母さんが、待ってる」
「うん」
 癸は兄と紫苑にひとつ頷いてみせ、その家の中に入っていった。残されたふたりは一瞬顔を見合わせるが、そのまま着いていくことにする。家の中は外見を裏切ることなくひどく質素であった。都人である紫苑には考えられぬほど粗末な作り、そして調度である。だが、農家とはどこでもこのようなものなのかもしれない。やがて、癸はある部屋の前で足を止めた。
「お母さん、癸さんが帰ってきたよ」
「ただいま、おばさん」
「…………」
 覗き込んだふたりは、言葉を失った。部屋の中では、ひとりの女性が臥せっていた。否、上半身は起きている。だがそのやつれた表情、痩身を見れば、病人なのだということはすぐに知れた。
「おかえりなさい」
 加乃とどこか似ている。だが彼女の持つ溢れるような生命の輝き、躍動感といったものは、この女性には全く見られなかった。
「……おばさんは、ほとんど目が見えないんだ」
 ぼそりとつぶやかれた言葉。背後に立つふたりのためのものだろう。
「僕の声が亡くなった息子さんに似ていたらしくてね。僕の面倒を見て下さることになった」
「お客さまがみえているの?」
 女性は僅かに首を傾げた。
「あのね、母さん」
 加乃は母親の枕元に置いてあった湯呑みに、白湯を注ぎ足した。
「癸さんの、双子のお兄さんが来ているのよ」
「ええ……?」
 驚いたように目を見開くが、視線は壬を少しもとらえられず、あてもなく宙をさまよっている。壬は口を開いた。
「壬です。突然お邪魔してすみません」
 いつになく柔らかな声。
「弟がお世話になっているそうで」
「いいえ!」
 思いの外強い口調だった。
「うちは男手がありませんもので……助かっているのは私たちの方です」
 どうやら加乃の父親も、既にこの世にはないらしい。
「加乃も本当の兄のように懐いていますし」
「恐ろしくはありませんか?」
 遮るように、壬は声を上げた。はっと息を呑む癸の肩に、紫苑は軽く手を置く。
「恐ろしいって……何がです?」
 女性は不思議そうに聞き返した。加乃は心配そうに壬を見上げる。
「あやかしが、です。俺も……弟も」
 壬は静かに言った。
「ひとではない。あやかしですから」
「…………」
 沈黙がその場を支配した。加乃は黙って膝を見つめている。癸はそんな少女の姿をじっと見守っていた。
「…………」
 言葉を捜すように唇をうごめかせていた母親は、やがて口を開く。
「かつては、恐ろしかった」
「母さん……」
「だって、私の夫はもののけに殺されたのですから」
 紫苑は眉を寄せた。ひとはあやかしともののけを混同しがちであるが、実際はもののけとあやかしは等しいものではない。ひとであれあやかしであれ、悪しき気に魂を食い破られたものがもののけとなるのだ。だがここでそれを言ったところで、どうなるものでもない。
「ずっと、あやかしなど見たこともなかった。今も私には癸さんが見えてはいないから、本当はどんな風なのか、私には分かりません」
 目を閉じ、薄く微笑を浮かべる。
「けれど……見えなくても、わかることはたくさんあるのです」
 加乃の手に自分の手を重ねる。見えていないはずなのに、母親の手は娘の在り処を間違うことはなかった。
「癸さんは優しい方です。初めてお会いしたときにすぐに分かりました。それに加乃にもとても優しくして下さる。近所の方も最初は怖がっていたけれど、癸さんがたくさん努力されたから、今ではそんなこともない」
「…………」
「きっと……、癸さんに出会わなければ、私はいまでもあやかしを恐れ、そして憎んだままだったのでしょうね」
「…………」
「でも、今は」
 母親は目を開けた。うつろな眼窩に涙が光る。
「恐ろしくなどありません」
「……そうですか」
 壬は小さく吐息をついた。
「わかりました」
「兄さ……」
「失礼なことをお聞きしました。お許し下さい」
「いいえ」
 ゆるく首を横に振る。
「弟さんを想われる気持ちは分かります。遠慮なく何でもお聞き下さいな」
「いえ」
 壬は低くつぶやいた。
「もう、十分です」
 ――お前は今、しあわせか? その問いに、癸は頷いたのだ。それが、全てだった。
 
 
  三
  
 壬と紫苑を元の屋敷まで送り届けるとき、癸の横には加乃の姿があった。
「お前のほかにも、あやかしはたくさんいるのか?」
 壬の問いに、癸は首を傾げた。
「実際のところは僕も良く知らないけれど、そんなにはいないと思う。僕は近所の方々が親切だったから上手くいったけど、やはりひとの中に溶け込めないで出て行く者も多いと聞くよ」
「お前は」
 壬は微笑んだ。誰かの後姿を見送るような、静かな笑みだった。
「良いひとたちに出会えたな」
「…………」
 癸は少しだけ頬を染め、やがて頷いた。加乃は彼の手を取って離さない。――この少女は、きっと癸のことが好きなのだろう。癸もまた、この少女が……。
「兄さんは、これからどうするの?」
 どこか考えに沈んでいる兄に、癸は問い掛ける。
「俺? そうだなあ……」
 壬は口ごもった。これから自分はどうするのか。もし、癸が自分と共に帰るというのなら――かつていた、あやかしの集落近辺に戻るのもいいと思っていた。だが、今の彼に癸を連れ帰るつもりはない。いつか彼自身の意思で戻ってくるなら、それはそれでいい。だが、今は――あの病弱そうな母親とこの愛らしい少女を捨てて、癸がここを去ることができるわけはない。彼の弟はひどく優しい男だ。それは誰よりも壬が知っている。
「ここにいたっていいと思うよ」
 癸はそう言う。加乃も横で頷いていた。けれど、きっと自分にはここは向かないと思う。髪を染めることにも抵抗があった。何故自分がひとにあわせねばならないのか。どうしてもそんな想いが拭い切れない。
 癸はここに溶け込んでいるというが、それはあやかしとしての彼をうまく隠しているからだ。妖力も見せず、目立たぬように(なり)を変えて、ひとと同じように振る舞いながら生活をする。壬にできるとも思えないし、したいとも思わない。それならば、都で紫苑の屋敷にいたときの方がずっと自由で――。
「帰るのではないのか」
 ずっと黙っていた紫苑が突然、口を開いた。
「え?」
 驚いて壬は振り返る。紫苑の表情は逆光でよく見えなかったが、口調はひどく穏やかで、平坦で、まるで当たり前のことを言っているだけだとでもいうようであった。
「一緒に帰るだろう。都へ」
「…………」
「そうか」
 壬が返事をするより先に、癸が頷いていた。
「じゃあ、また会いに行くよ」
 ――兄のところへ。
「その時は宜しくお願いします」
「ああ」
 癸と紫苑は自然に笑みを交わす。
 ――ちくしょう。壬は空を振り仰いだ。青い。――泣いて、たまるか……!
 鳥が一羽、東の方へと飛んで行った。