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壬の巻 第三章

  一

 夕日が沈んでいく。山々に囲まれている都とは違って、地平線がくっきりと見えていた。集落の入り口と思しき場所には都のものと遜色のない立派な門と、その両脇にやぐらが建てられている。辺りに人影はない。紫苑はそのやぐらから数十歩ほど離れた場所で馬の歩みを止めた。人や馬によって踏み(なら)されたのであろう、門の中に続く道は先ほどまでの獣道ではない。
「じっとしていろ」
 桔梗に言い聞かせ、紫苑は馬を離れた。壬は黙ってその背中を見送る。
「…………」
 紫苑はしばらく歩みを進め、やがて立ち止まった。門の側に誰かが立っている。遠目にそれと気付かなかったのは小柄だったせいか、それとも夕闇のせいか。
「お待ちしておりました」
 りん、とした声。女だ。それも年若い。まだ二十歳は超えていないだろう。
「御門紫苑さまでいらっしゃいますね?」
「ああ」
 頷くと、少女は軽くお辞儀をした。
「わたくし、(あずさ)と申します。玄武の(むら)での皆さまの御世話を申しつかっておりますので、以後お見知りおきを」
「これはご丁寧に」
 紫苑は返礼をし、そして首を僅かに傾げた。
「しかし、何故我らの到着をご存知だったのかな? それも日付や時刻まで、これほど正確に」
 声に多少の警戒が滲んだ。だが、梓は気にする様子もない。
「それは」
 明るい、年相応の笑みに見えた。だが紫苑は厳しい眼差しを緩めない。
「巫女さまのお言葉がありましたから」
 梓はあっさりとそう言い切り、背を向ける。後ろ髪を肩までで切り揃えた、都では珍しい形をしている。彼女はどうやら扉を開けようとしているようだった。
「連れを待たせているので、一度戻ります」
 紫苑が声をかけると、梓は少し振り向いて頷いた。紫苑は駆け足で戻り、桔梗の乗る馬のくつわをとる。
「歓迎されそうか? 野宿はもう嫌だぜ」
「…………」
 茶目っ気に満ちた壬の言葉にも、紫苑は笑わない。
「紫苑」
 心配そうに声をかけた桔梗に、彼は短く答えた。
「大丈夫だ」
「…………」
 桔梗の大きな瞳が彼を見つめるのを感じる。
「……大丈夫だ」
 自分に言い聞かせるように、紫苑はもう一度つぶやいた。
 

  二
  
 門が開き、三人はその集落に足を踏み入れた。大通りの両脇には民家が隙間なく立ち並んでいるが、ひとけもなくひっそりと静まっている。
「住人の方はいずこに?」
 紫苑が先導する梓に尋ねると、淡々とした答えが返ってきた。
「外の方がお出でになるのに慣れぬもので」
「……貴方は随分落ち着いておられるが?」
「わたくしは粗相を致すわけには参りませぬもの」
 笑ったようだった。紫苑は黙り込む。どうにも違和感が拭えない。この邑も、娘も、全てが作り物であるかのような――。
「巫女さまがお会いになりたいと仰っていますが」
 梓の言葉に、紫苑は現実に引き戻された。
「一度、皆さまに逗留いただく屋敷へとご案内致します」
「かたじけない」
 紫苑は謝辞を述べる。いくら巫女が予見していたとはいえ、こうも行き届いた出迎えをされるとやはり強縮してしまう。しかし、何故巫女は見知らぬ彼らを歓待しているのか――そして、何故、梓は紫苑のことを何も言わないのか。
「…………」
 自分の瞼にそっと触れる。その奥に宿るのは紛れもない紫電の瞳。何故、そのことについて何も触れないのか。それも巫女が予言したのだろうか。それにしても何らかの反応はあるものと思っていた。そして、彼の連れであるあやかしのふたり。彼らを見ても、梓は全く動じていなかった。水龍族を見知らぬわけでもないだろうし、知らないにしても彼らはあやかしだ。ひとではない。だが、梓はふたりにも紫苑と同じような礼を施している。都の人間では考えられぬことだ。一体何故だろう……。
「こちらでございます」
 大通りをしばらく北へと歩いた後、梓は西へと曲がった。一頭の馬のくつわを取り、紫苑はその後を追う。壬の乗る馬がさらに続いた。
「紫苑」
 紫苑が馬上を振り仰ぐと、桔梗の水晶色の視線とぶつかった。長い銀糸が零れる。それは夕日に染まって、朱色に輝いていた。どこか浮かぬ顔をしていたようだが、それでも紫苑と視線が合うと桔梗は微笑む。
「やっと着きましたね」
「……ああ」
 紫苑も口元を緩めた。
「辛い思いをさせたな」
 長旅は堪えただろう、と労わる紫苑に、桔梗は首を横に振る。
「いいえ、ちっとも」
「……そうか」
 桔梗の気遣いをありがたく受け取り、紫苑は微笑んだ。
「なあ」
 背後から壬の声がする。
「何だ?」
 紫苑が問い返すと、壬は少しいらだったように声を荒げた。
「俺の弟の話はどうなってるんだよ?」
 紫苑は言葉に詰まる。
「それは……」
 折も折、梓はちょうど一軒の屋敷の前で足を止めた。
「こちらのお屋敷をお使いくださいませ」
「……ほう」
 紫苑はつぶやく。ここは今まで通り過ぎてきた民家よりも一際立派な造りをしている。都でも、こういった屋敷に住むのは殿上人を中心とした一部の貴族だけだろう。庭も荒れた様子はなく、きちんとひとの手が入っているものと思われた。
「そして……」
 梓の視線が壬の方を向く。馬から下りた彼は、彼女を睨むように見つめた。だが彼女は恐れる様子もなく、にこやかな笑みを崩さない。
「壬さまの弟君のことは、巫女さまが良きように取り計らわれるとの事です。どうぞご安心を」
「良きように、って」
「詳しいことは」
 毅然と遮る。壬は気圧されたように黙った。
「巫女さまご本人からお伺い下さいますよう」
 梓は慇懃に頭を下げた。壬はふっと息をつく。もうしばらく我慢をする気になったようだ。
「それでは、わたくしは他の家人たちとともに離れにて待機しております。湯浴みの準備も済んでおりますので、どうぞ旅の疲れを癒して下さいませ。一刻半ほど致しましたらお迎えに上がりますので、御仕度を」
「巫女どのは」
 紫苑が尋ねる。
「どちらにお出でです?」
「……あちらの」
 梓の手が北を指した。
大社(おおやしろ)の中に聖殿が御座います。巫女さまはそちらに」
「左様か」
 紫苑は頷いた。馬に跨ったままでいた桔梗を抱き上げ、地面に下ろす。
「それでは、後ほど――」
 紫苑が振り向いたとき、既に梓の姿はどこにもなかった。
 
 
  三 
  
 大きな木作りの桶に張られた湯が。ゆらゆらと揺れている。紫苑はその長い手足を存分に伸ばした。桶の直径は彼の両腕を広げた幅よりもまだ大きいだろう。四方もまた木の壁に囲まれ、下部に穴が開いているのは薪をくべるためか。今のところ、火は消えている。
 壬は湯浴みなど要らないと言った。水の眷属である彼にとって、身を清めることなど簡単なことなのだろう。それでは桔梗は、と問いかけようとしたところ、辺りに彼女の姿は見当たらなかった。馬にくくりつけていた荷を解いているのかもしれない。壬に伝言を頼み、先に湯を浴びることにしたのだが――。
 不意に、引き戸が開いた。小柄な人影がするりと入り込んでくる。紫苑は湯煙の中で硬直し、思わず叫んだ。
「お、お……!!」
「お?」
 不思議そうに首をかしげているのは、桔梗だった。髪を頭頂部にまとめ、白い木綿のような布で胸から腿までを覆っている。細いうなじやらすらりとした脛やらが、ひどくまぶしかった。
「お、って何ですか?」
「ち……!!」
「ち? おち?」
「ば、ばばば……!!」
「おちば?」
 桔梗はあざやかな身のこなしで、さっと湯に体を沈める。ふんわりと浮き上がりかけた布を、器用に抑えた。
「落ち葉がどうかしましたか?」
 紫苑はようやく我に返った。
「おい! 違う! 馬鹿!」
「あ、なるほど。そういうことですか」
 紫苑は飛びのくように桔梗のいない方の端に移動した。
「どうぞ」
 桔梗が差し出すのは彼女の巻いているものよりももう少し小さな白布だ。紫苑は腕を伸ばして受け取り、腰に巻いた。
「お前、何のつもりだ」
「何のつもり……って」
 桔梗は首を傾げる。髪の先が白い肌の上で水気を吸い、つややかに跳ねた。
「紫苑と一緒に、湯浴みをしようと思って」
「…………」
 絶句。紫苑は空気をもとめる溺水者のように、口をむなしく開閉させた。
「駄目ですか?」
 笑みを消し、寂しそうな表情をされては無下にできない。紫苑は途方にくれ、濡れた髪をかき上げた。ぽたり、ぽたり、と滴が広い肩の上に落ちる。
「その、困るのだが」
「私は困りません。大体、何に困るんですか?」
「いや……それは……」
「構わないでしょう?」
「うーん……」
「嫌?」
「そ、そういうわけではないが……」
 紫苑はしどろもどろになっていた。顔に血が上る。
 薄暗い部屋の中、桔梗がすぐ側に居る。透き通るような、そのまま湯の中に消えてしまいそうな白い肌と、上気した頬の色と、潤んだ瞳。かすかにとがらせている唇が紅い。
 ――この状況でどうしろと。紫苑とて男である。確かに、半妖である彼は女性経験もないし、性的な欲求も他人よりは淡白な方だと思う。しかし、これは――わざとか。わざとなのか。
 体を包む湯がまるで沸騰しているように感じる。熱い。
「紫苑」
 桔梗が、動いた。なめらかで、柔らかいものが彼に触れる。
「…………!」
 紫苑は声もなく硬直した。桔梗に抱きしめられている。薄い布きれのみを隔てて、こんなにも近く。
「何か、不安そうだったから」
 桔梗はつぶやいた。吐息が、肩を覆う。
「ずっと、緊張していたでしょう」
「…………」
 紫苑はおずおずと手を伸ばす。桔梗の背中をそっと抱きしめた。――愛しい。紫苑の胸をざわつかせていたものが音もなく消え、代わりに彼を暖かな感情が満たした。
「大丈夫だから」
 それは紫苑が桔梗に告げた言葉。
「紫苑はひとりじゃない」
「……桔梗」
「紫苑」
 紫苑は少しだけ力を込め、彼女の体を離した。桔梗の顔を正面から見つめる。
「いつか――そう遠くない将来に」
 自分でも呆れるほど落ち着いた声だった。それは、ずっと以前から言おうと思っていたこと。彼女の全てを受け入れ、ともに生きていくと決めた日から、ずっと――。
「都に帰ったら」
 桔梗の顔が、間近にある。彼女はただ、澄んだ瞳で彼を見上げていた。
「そうしたら――……」
 桔梗の、白く尖った耳に――あやかしの証であるその耳の中に、紫苑はその聖なる誓いの言葉を注ぎ込んだ。
「……紫苑」
 波紋が広がる。桔梗の頬から落ちるその甘い滴に、紫苑は優しく口付けた。