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壬の巻 第七章

  一

 ──眠れない。壬は目を開けて、闇に滲む天井の輪郭を見上げていた。明日、癸と会える。何年ぶりだろうか……あれからもう随分経ったような気がする。
 集落が壊滅した日、まだ彼らは子供だった。喧嘩っ早く、妖力も攻撃方面の術に長けていた壬。物静かで、癒しの術を得手としていた癸。ちょうど「御子」が生まれたのと同じ年に生を受けた双子は、近年まれに見る強い妖力を持ち合わせていたらしく、一族の大人たちからは将来を嘱目されていた。壬が「御子」の許婚に選ばれたのも、それが理由だっただろう。幼い日の壬には大人たちの事情など理解できなかったが、それでも変に気分が高揚したのを覚えている。
 一族を率いるために生まれると言われる、特別な「御子」。「御子」は、きっと水龍族の新たな歴史を切り開いていってくれるに違いない。そう期待を寄せる大人たちの言葉を聴くたびに、彼も胸の高鳴りを感じた。早く会ってみたい。どんな人なのか、知りたい――。
 結局、新たな歴史などというものはどこにもなかった。水龍族は滅びた。呆気ないまでに。
 壬は寝返りを打つ。そういえば、自分は何をしていたのだろう。水龍族が滅びてから「御子」が見つかるまで――何をして生きていたのだろう。記憶にない。確か、最初の頃は必死に一族の者を探していた。風の便りを聞いては会いに行ったりもした。だがそれらの努力は実ることがなく――いつの間にか成人していた。
「何だかなあ……」
 苦笑した。これでは、本当にあの男の言った通りではないか。――大切なものを失くして、そこから動けなくなった。現在から目を背けて、過去に埋もれた誰かを、思い出を、絆を……追い求めていた。
 橘燐。最愛の妻だったあやかしを、ひとに殺された男。一度は死んだ息子と、再び邂逅した父親。だが、息子はひとでもあやかしでもない。半妖ですらない。神獣、白虎によって作られた不自然な命。彼はそれでもいいと言う。強い男だと思った。
 彼の言ったとおり、何かを憎むのは簡単だ。憎めば楽になれる。そこだけを見つめていられるから。振り返ることも、先を見据えることも必要ない。ただ、憎むだけ。
 彼はどうやって乗り越えたのだろう。愛する者を亡くし、生まれ出ずるはずであった子供を亡くし――残ったものは周囲の人間からの冷たい目。彼は一体、どうやって……。浮かんだのは、別の男の顔だった。鈍感で、無愛想で、無口な男。自分から「御子」を奪った男。長い黒髪と紫電の瞳。先帝と鳳凰族最後の姫御子との間に生まれた、禁忌の存在。
「あいつかな」
 ぽつりとつぶやいた。どうやら、燐と彼は(ふる)い友人らしい。きっと紫苑は彼のために奔走したに違いない。あれはそういう男だ。冗談が下手で、何を考えているのかさっぱりわからない。だが、ひとつわかることがある。
「あいつって、とんでもなくおひとよしだよな」
 くすりと笑みが洩れる。それは、共に旅を続けるうちに分かったことだった。紫苑は他人の悪意に対して驚くほど寛容だ。それは彼自身が語ったとおりの「慣れ」かもしれないし、そうではないかもしれない。とにかくこだわらない。憎まない。壬が驚いたほどだった。そのくせひとの善意には敏感で、いつまでも慣れることがない。まるで自分にはそんな善意を受ける資格などないとでもいうように戸惑っている。それも、どうやら演技ではなく本心らしいから参る。――多分、そういうところが好きなのだろう。今はもう「御子」ではない彼女は。
 とめどない思考の海に溺れながら、壬は必死で一つの言葉を封印していた。だが、いつしかそれが緩んでくる。それはかつて燐に言われた言葉だった。――もし、帰りたくないと言ったら? 癸が自分と一緒に帰りたくはないと言ったら、自分はどうすればいいのだろうか。
「ひとりで……帰るのかな」
 思い出す。都に「御子」を探しに来る前に住んでいた庵。他のあやかしとの交わりもなく、壬はたったひとりだった。
「ひとり……か」
 泣くまいと思った。折角の再会の日に、目を腫らしたくはない。
「ひとりは、寂しいよな」
 彼の脳裏で頷いてくれるものたち。それは桔梗であり、紫苑であり、燐だった。
 
 
  二
  
 結局、壬は一睡もできぬまま朝を迎えた。ふらふらと顔を洗っていたらそのまま水桶に顔をつっこみそうになり、紫苑に首根っこを捕まえられる始末。いつもなら離せともがき、余計なお世話だと噛み付くところなのだが、今日はぼんやりと礼を言うことしかできなかった。胸が痛いほど動悸を打っている。「御子」に会いに行くときでさえ、こうではなかった。朝餉もほとんど喉を通らない。桔梗は少し心配げな表情で彼を見ていた。紫苑は相変わらずの無表情である。――ぱたん、と箸を置いた。菜も汁も飯も、半分以上残っている。
「残すのか?」
 紫苑に尋ねられ、壬は曖昧に頷いた。
「なら食ってやる。貸せ」
 箸を伸ばそうとする紫苑に、壬はむっと言い返す。
「お前に食わせるくらいなら俺が食う」
「そうか」
 紫苑はあっさりと引き下がった。
「…………?」
 怪訝な顔をする壬に、紫苑は涼しい顔で言う。
「いや、お前が食うのならそれでいいんだ。しっかり食っておけ」
「…………」
 視線を動かすと、桔梗はくすくすと笑っていた。どうやら自分は紫苑にいっぱい食わされたらしい。
「……ちっ」
 壬はわざとがつがつと飯をかき込んだ。……多分今、自分は赤面している。
 朝餉が終わった頃、梓が現れた。
「弟さまがお越しになられました」
 あまりにもあっさりと告げられた言葉に、三人は思わず動きを止める。最初に言葉を発したのは紫苑だった。
「どうする?」
 壬の顔を覗きこんで尋ねる。
「え?」
 壬はぼうっと紫苑を見た。
「我々が居てもいいのか? それともふたりで会うか?」
「あ、……ああ」
 壬ははっとしたように頷く。
「できればふたりの方がいい……かな」
「そうか」
 紫苑は梓に向き直った。
「我らは一度部屋に戻りますので、ここに通してやって下さい」
「はい」
 梓は答えて去った。紫苑は軽く壬の肩を叩く。
「落ち着いたら呼んでくれ」
「ああ」
 壬の表情に浮かぶのは緊張。だが、彼は紫苑をしっかり見据えた。
「ありがとう」
「…………」
 驚いたように目を見開く紫苑と、静かに微笑む桔梗。似合いのふたりだな、と思う。紫苑はひとつ咳払いをした。
「何も礼を言われることはない。……行くぞ」
 桔梗を促し、身を翻す。
「素直じゃないですねえ」
 桔梗は苦笑を零し、軽く壬に手を振った。
「……また後ほど」
「ああ」
 壬は頷く。そのままふたりの背中を見送り、待つこと暫し。背後の帳が開けられる音がした。壬は振り向けない。
「兄さん!」
 懐かしい。ちっとも変わらない、線の細い高い声だった。昔はおなごのようだと言われていたこともあったっけ……。やはり癸だ! 壬は勢い良く振り向き、そして絶句した。
「み、みずのと……?」
 目に映るのは確かに彼の弟だった。そのはずだった。優しげな瞳も、色白な肌も、ひょろりと長い手足も、何も変わらない。ただ年を重ねただけだ。けれど――。
「お前、その……」
 壬は指差した。震えて定まらない人差し指の先。覚えのある銀髪はどこにもない。癸の髪は、黒かった。
 
 
  三
  
 ――ばささ……。突然大きな音がして、燐は振り向いた。どうやら中庭の池に漂っていた水鳥が飛び立ったらしい。水面がかすかに揺れていた。鳥の姿は見当たらない。ほっとして再び文机に向かった。硯の中、残り少なくなった墨をする。
 その時、不意に疑問が浮かんだ。壬の弟のことだ。白虎は「玄武の巫女が治める地にいる」と言った。そして、朔の口ぶりでは巫女はひとのようだった。どうしてそこにあやかしである壬の弟が居るのだろう。朔はどうやら短い間しか滞在していなかったようだから、良くは知らないのかもしれないが、それにしても、ひととは違う外見の朔が訪れることができたのだから、やはり普通の場所ではない。
「朔に聞いてみようか……」
 燐はつぶやきながら、それでもその場を立たない。日は高いとはいえ、まだ朔は眠っているようだ。起こすには忍びなかった。燐もすっかり子煩悩な父親である。
「紫苑たち、うまくやっているのかな」
 もしかすると、その邑には朔の知らない何かがあるのかもしれない。
「早く帰って来られればいいのに」
 紫苑たちが都を離れてから、ひとつきが経つ。紫苑が先帝の胤であるということは、今はもうほとんどひとびとの口には上らなくなった。噂好きの都びとたちもようやく飽きてきたらしい。今ならもう帰って来られると思うのだが……。
「神獣たちにも、何か思惑があるのかもしれないな」
 燐はつぶやく。彼らを信頼していないわけではない。だが、まだ彼の知らない何かがあるのではないか。そんな気がしてならなかった。