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壬の巻 第一章

  一
  
 炎が爆ぜ、影が揺れる。それを見つめるのは闇色を星屑で薄めたような藍色。火の粉が踊ってもそれを映す瞳は揺らがない。黒く頬に影を落としている鼻筋は立てた膝の間に消え、顎はぐっと胸元まで引かれている。手の甲はちょうど火の粉が降りかかるかかからないかくらいの位置にあって、自らの足を折り畳んで押さえていた。
 周りは鬱蒼と茂る木々に覆われ、風はほとんど立たない。頭頂部で高くまとめられた(こわ)い銀髪すら微動だにせず、彼はまるで彫り物か何かのように動かなかった。
 ――恐らく今日は新月だ。彼、壬はそう思って一度、瞬きをした。いけ好かない半妖と、それを慕ってやまない同属の御子、そしてそれを苦々しげに見つめる彼。奇妙な取り合わせの三人が都を出てから、既に十日が経過していた。初めは彼以外の二人が牛車、彼が馬に乗っていたのだが、三日ほど前から山中深くの路に入ったため、牛車はその直前で乗り捨てた。今は紫苑と桔梗もまた二人で一頭の馬に乗っている。先導していた焔は人の形を取るのをやめ、おそらくは神獣、朱雀本来の姿でその辺りにいるはずだ。多分その主である半妖に聞けば分かるのだろう。――そう……「半妖」……。
「時間だ。交代するぞ」
 その声を聞いても壬は振り向かなかった。別に驚いたというわけでもないが、それでも彼が近づいてきたのに気付かなかったのは不覚だった。やはりこの男、並のものではない。半妖だからというわけではなく、陰陽師だからでもない。御門紫苑という男が、そうなのだ。
「寝ていろよ。別に俺は眠くない」
「明日、馬から落ちたら哂うぞ」
「哂えばいいだろう」
 壬は辺りに落ちていた細い小枝を炎の中に投げ込む。一瞬だけ辺りがぱっと明るくなった。
「…………」
 背後に佇んでいる男が黙り込んだのが気になり、壬はくるりと振り向いた。すると、ひどく困った様子で自分を見つめている紫電の瞳と視線が合い、壬は思わず噴き出す。
「何だ?」
 ぼそりと紫苑がつぶやく。炎の色と相性がいいのか、彼の瞳の色はこの闇の中でひどく美しく見えた。それもそのはずだ。彼の母親は炎を司るあやかし、鳳凰族の最後の御子だったのだから。その立場はちょうど御子と――「桔梗」と同じ。
「別に」
 壬はすぐにそっけない表情に戻って体勢を戻す。
「笑ったろう」
「いけないか」
「……別に」
 意趣返しのつもりか、それとも単なる言葉遊びか。紫苑はそう言うと、炎を中心として壬と自分の成す形が、ちょうど四半分円になるように腰を下ろした。
「おい」
 壬が声を上げると、紫苑は無表情のままこちらを向く。壬はいらいらと言った。
「眠くないんだ。火の番は代わってやると言っている」
「眠くなくても、体を横にするだけで多少なりとも疲れがとれるものだ」
「余計なお世話だ」
「番を代わる、などと言い出すほうが余計だと思うが」
「…………」
 壬は疲れたようにため息をつく。
「好きにしろよ」
「ああ」
「…………」
 沈黙がその場を支配した。時折ぱちりぱちりと炎が爆ぜ、地面に落ちた彼らの影が揺らめく。壬はまた先ほどの姿勢に戻り、顎を膝に埋めた。紫苑は右脚だけを胡座(あぐら)のように折り、左膝は軽く立てていた。そこに肘を置き、広げた手のひらで頬を包んでいる。長い黒髪が、夜に溶け残るように浮かび上がっていた。
「……なあ」
 壬はぽつりと口を開く。
「何だ?」
 紫苑が応える。
「お前、俺を憎んでいないのか」
「は?」
 心底不思議そうな声。壬は目を上げない。紫苑の顔を見たくなかった。
「桔梗を連れ出そうとしたり、お前を殺そうとしたり……あとお前の父親のことも噂にして広めて、お前の友人のことも殺そうとした」
 紫苑はそれを聞き、喉の奥で小さく笑ったようだった。
「色々とやってくれたな」
「なのに、何で」
 壬はぐっと喉を鳴らす。
「何で……普通に一緒に旅をしているんだよ」
 それは、ここ数日ずっと壬が気にしていたことだった。壬に対する紫苑の態度は、あまりにも自然だった。まるで以前からの知り合いであるかのように、これまでの彼らの関係性を考えれば不自然なまでに――自然だった。
「それはお前にも言えることではないのか」
 紫苑の声はあくまで穏やかだった。
「お前は、桔梗を慕っていたのではないのか。それに、私の父親は」
「……いや」
 壬は紫苑の声を遮った。
「どうなんだろう。俺は御子を――桔梗を」
 壬は言葉を変える。都を離れてから、壬は彼女を「桔梗」と呼ぶようになった。彼女がそれを望んだためでもあるだろうが、壬はほぼ自主的に、意識的にそうするようにしたのだ。――もう、彼女は御子ではないから。
「桔梗を、慕っていたのかな」
「…………」
「実際、桔梗とはほとんど接触なんてなかったんだ。彼女は特別な御子だと言われていたから」
「そうなのか」
「俺が許婚に選ばれたのはたまたまだ。多分、俺でなくても良かった」
「…………」
 横目で紫苑の表情を窺う。言葉を選んでいるように唇を蠢かせていたが、結局彼は何も言わなかった。
「一族が壊滅した時は親とか弟のことばかり心配して、桔梗のことなんて思い出しもしなかった。風の便りに彼女のことを――都で暮らしているってことを聞いて、ようやく思い出したくらいだ」
「その割には……」
「必死だったよな」
 壬は言葉を先回りして苦笑を浮かべた。
「それしかなかったんだ。俺には」
「…………」
「それしかないと」
 壬は目を閉じる。
「思い込んでいたんだな」
「……今は」
 紫苑が問いかけた。
「違うのか」
「……どうだろうな」
「弟のことか」
「ああ。(みずのと)は、生きているらしい」
 壬は頷く。
「嬉しかったよ。だけど」
「……だけど?」
「いや……何だろうな」
 壬は首を横に振った。丸めていた背筋を伸ばす。少し、腰の筋肉が痛かった。
「良く分からない」
「…………」
「で、どうなんだよ」
 何のことかと視線で問う紫苑に、壬ははっきりと苦笑を投げる。
「憎んでいないのか? 俺を」
「…………」
 紫苑は少し頭上を見上げた。星など見えるはずもない。そう思っていたのに、意外にも所々に開いた木々の葉の隙間には小さな光の粒がきらめいていた。
「そうだな……」
 紫苑はゆっくりと言葉を選ぶ。
「結論から言うと、お前のしたことなどさほど大したことではない。私はそう思っている」
「そ、そうか? 俺結構いろいろやったつもりだけどなー」
「というよりも、だ。慣れている」
「え?」
「誰かに悪意を向けられることには」
 彼の表情には何の色もなかった。ただ、事実だけを述べているのだろう。
「慣れているのだ」
「…………」
 壬は言葉を失う。
「だが」
 紫苑は空気を変えようとするかのようにすぐに言葉を継いだ。
「桔梗が失踪したときは正直、堪えた」
「…………」
「何故だろうな。孤独には慣れていたはずなのだが」
 首を左右に振る。
「駄目だった。一度温もりを知ってしまうと、離れがたい」
「…………」
「まるで」
 紫苑は口元を笑みに染めた。
「冬の朝に布団から出られないようなものかな……」
「…………」
 壬はつられて笑みを零した。
「桔梗が聞いたら怒るぜ」
「冗談だ。真に受ける方がどうかしている」
「お前の冗談はわかりにくいんだよ」
「そうかな?」
 紫苑はそれこそ冗談とも真剣とも取れない口調で言い、それきり口をつぐんだ。
「…………」
 再び沈黙が落ちる。だが、先ほどよりもずっと居心地が良いように感じられた。
「――悪かったな」
 壬はぽつりとつぶやく。
「何がだ」
「言わせるなよ」
「冗談だ」
「だから、分からねえっての」
 壬は空を仰いでぼやいた。多分、朝までそう遠くない。まだ辺りは闇に満ちているのに、何故かそう思った。
 
 
  二
  
「何だかなあ……」
 燐がつぶやく。
 朝餉の席でのことである。向かいには息子、朔の姿があって、その傍らには白い猫がのんびりと寝そべっていた。四聖獣の一、白虎の仮初めの姿である。
「何?」
 朔はきょとんとした表情で問うた。そんな表情が驚くほど亡き妻に似ている。
「主のいない屋敷にいる居候親子というのも、何だかなあ、って」
「……あはは」
 朔は乾いた笑い声を上げた。
「確かに変ですね」
「うん」
 干し芋を箸でつまみ、口の中に放り込む。
「そりゃあ、ひとの住まない屋敷は荒れるものだけど」
 燐は部屋の出入り口付近にちょこんと座る女房姿の女性に目を向けた。彼女は厳密な意味での女性ではない。紫苑の使役している式神である。
「紫苑なら、ちゃんと維持できるだろうしねえ。
 朔はにこにこと微笑みながら食事をしている。燐はしばらく少年を見つめていたが、やがてふと思いついたように尋ねた。
「そういえば、朔は『玄武の巫女』を知っているんだよね?」
 その巫女の治める地、出雲の国こそが紫苑らの向かう先なのである。
「ええ……まあ。以前、一度だけ会いました」
「何の用で?」
「えっと」
 朔は箸を置いた。
「僕の存在を神々に認めさせる必要があったんです。僕は一度、死んだ身ですから」
「あ……」
 燐の表情が揺らいだ。朔は慌てて言葉を継ぐ。
「ほら、体が死んだのに魂が黄泉の世界に行かないと、神々が変に思うらしいんですよね。だから白虎に連れられて、神無月に――あちらでは神有月ですけど」
「……なるほど」
 燐は深く息をついて動揺を鎮めた。
「それで、どういうひとだったの? 変わってるって言っていたけど」
「うーん」
 朔は腕を組み、耳が肩につきそうになるほど首を傾げた。
「とにかく、変わったひとなんです」
「えっと、たとえば何が?」
「ずっと神殿の中に暮らしていて、外には出ないんです。ほとんど誰にも会わないし……僕は例外だったみたい」
「そうなの?」
「ええ。……邑は、長老家と呼ばれるひとたちと巫女によって支配されているんですが、結構両者が仲が悪くて」
 どこにでもある権力争いということだろうか。燐はぼんやりと思う。
「僕は味方になってもらえたし、お世話になりましたけどね」
「そう……」
 燐はとりあえず頷いた。息子が世話になったのだから悪人ではないと思いたいが、どこか不穏なものを感じる。紫苑が邑で暮らす間、何事もなければいいのだけど……。燐にはそれだけが気がかりだった。