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父の巻 第四章

  一
  
 遠野有平の屋敷は、京の西の外れにあった。都の北西に位置する紫苑の屋敷から南にずっと下り、さらに西へと向かったところにある。遠野家はそれほど身分の高い家という訳ではないから、御所から随分と離れているのも仕方がない。まだ日が沈みきってはいないというのに、辺りは静まり返ってまるで深夜のようだ。小さな蛙の鳴き声だけが、時折静寂の壁を通り抜けて響いてくる。
 屋敷の奥まった場所にある小部屋。家人に誰も近づかないように言い渡し、有平は燐をそこに通した。そして語られたのは、宮中で囁かれている噂――すなわち、御門紫苑は先帝の忘れ形見であるらしい、と。
「何を……」
 笑い飛ばそうとして、燐の顔が引き攣った。頭の中をめぐる幾つかの疑問――何故、禁忌の半妖たる彼が殺害されることもなく生かされていたのか。何故、蘇芳は弟子としてではなく、養子として御門家に彼を迎え入れたのか。何故紫苑の父は鳳凰族最後の御子と、蘭妃と交わることができたのか。個人的に逢う事ができた人間などほとんど居ないはずだ。まして彼女が妊娠してから出産するまで、その事実はひた隠しにされていた。一体どうやってそこまで秘密を徹底させることができたのだろうか。今まで考えもしなかったことが幾つも浮かんでくる。そしてその全ては、有平の言った「噂」で説明がついてしまうのだった。
「わたくしめには本当のところはわかりませぬが……」
「ああ、うん」
 燐は両袖を合わせ、その中で腕を組む。
「でも、どうしてそんな話が」
「不可思議なあやかしが出没しているようなのです」
「あやかし……?」
「ええ」
 有平はそのあやかしがどこかに潜んででもいるというのか、やけに声を低めた。自然と燐は耳を彼の方に寄せる格好になる。
「長い銀の髪を持ち、濃い藍色の目を持つ……」
「何だって?」
 燐は思わず声を上げ、体を跳ね起こした。
「どうかなさいましたか」
 不思議そうに首をかしげる有平に、燐は軽く首を振った。内心の動揺を抑えつけるために無理やり微笑む。
「それじゃあまるで水龍じゃないか。絶滅したんだろう?」
「ええ。しかし目撃したものは皆等しく申しております。『あの容貌、そして放つ殺気。まさしく殺戮者と呼ぶに相応しい威容であった』と」
「…………」
 壬だ。燐はすぐにそう思った。だが、無論ここで口に出すわけにいかない。彼がそういう行動に出る動機はわかる。彼は、紫苑を憎んでいた。自分たちの御子をたぶらかしたとでも思っているのだろうか。それとも、あやかしの血を引いている禁忌の半妖である彼が、ひとの世で安穏としているのが許せないのだろうか。
 もし紫苑が先帝の落胤だと知られればどうなるか……想像に難くない。今上よりも紫苑の方が数年ほど年長である。無論、既に御門家に養子に入って臣籍に下った紫苑に皇位継承権はないが、恐らく宮中では一悶着あるだろう。今上が紫苑に寄せていた信頼も、事と次第によってはどうなるか分からない。結果、紫苑はこのまま都にいられるかどうか――微妙なところだ、と燐は思った。
 全てはかつての許婚、桔梗を取り戻すために――水龍の御子を、一族の手に取り戻すために。
「何てことだ……」
 燐は嘆息した。
 
 
  二
  
「燐の……息子だと?」
 紫苑の掠れた声が風に流れる。桔梗は分かっているのかいないのか、きょとんとして少年と紫苑の顔を見比べていた。
「はい」
 少年はきっぱりとうなずく。
「しかし、さくらが身篭ったのは二、三年前……」
「僕はひとの世でないところで育ちましたので」
 あっさりと、とんでもないことを言った。
「何?」
 紫苑もさすがに眉を顰めた。
「父が帰ってきてから詳しいことをお話したかったのですけど……」
 少年は困ったように首をかしげる。
「今話さないと駄目ですか?」
「それは……」
 紫苑は困惑して言葉を失う。確かに、彼は燐とそっくりだった。燐を幼い頃から知っている紫苑が言うのだから間違いはない。そしてその髪の色は――さくらと同じ。
「あ」
 桔梗が小さく声を上げた。彼女の腕に抱かれていた猫がかすかに発光している。
「桔梗!」
 紫苑が叫ぶのと、
「とら」
 少年が落ち着いて呼びかけるのは同時だった。
 桔梗は特に慌てた様子もなく、猫をそっと放す。白猫は光を放ちながら徐々に夕闇を侵し――やがて、
「虎……?」
 紫苑は茫然とつぶやいた。彼も画の中でしかその存在は知らない。だが、それは明らかに白い虎だった。
「……白虎」
 桔梗の静かな声に、紫苑ははっと振り向く。
「白虎、だと?」
 ――お初にお目にかかる。鳳凰族の血を引く最期の者。
 その声はあたりの空気を震わせることなく、それでいてその場にいたもの全ての耳に届いた。
 ――それから、久しぶりだな。青龍よ。
「…………」
 桔梗は黙って虎の金に光る目を見ている。……やがて、柔らかく微笑んだ。
「私にははっきりとした記憶はありません。でも、貴方の放つ気はとても懐かしい」
 紫苑もまた、かすかに血がざわめくのを感じた。かつて朱雀と交わした契約のためかもしれない。朱雀もまた、白虎の気に反応しているのかも……。
 ――この少年、(さく)は確かに橘燐とさくらの息子だ。
 白虎は厳かな口調でそう告げた。
 ――どうか、信じてやって欲しい。
「けれど、どうして……」
 ――もうすぐ橘燐が帰宅する。暫し待たれよ。
 紫苑の言葉をやんわりと遮り、白虎は言う。その柔らかな低音に、紫苑は言われるがまま口を噤んだ。
「貴方は」
 桔梗が口を開いた。いや、そのとき彼女は青龍だったかもしれない。
「その子供を――朔を、選んだのですか」
 白虎は微動だにしない。だが、それは確実に肯定の意味を含んだ沈黙だった。
「…………」
 桔梗は微笑を浮かべ、頷く。 
 ――ここに、四聖獣の三が集っている。その異常さを急に自覚して、紫苑の体に不意に身震いが走った。
「紫苑?」
 桔梗が声を掛け、紫苑の肩に手を触れる。
「……何でもない」
 紫苑はつぶやき、だがその桔梗の指先をそっと握った。今はこうしていたい。きっと朔がいなければ彼女を抱きしめていただろう。押し寄せてくる運命の奔流を感じて、彼はどうしようもなく怖かった。
 
 
  三
  
「何だ?!」
 根城としていた廃屋の床から飛び起き、壬は小さく叫んだ。
 今、空気が変わった。どうしようもなく大きな力の存在を感じる。――青龍を目の前にしたとき、感じたのと同じ気配……。
「何だって言うんだよ……」
 壬は立てた膝を片腕で抱え込み、もう片手は髪の中に突っ込んだ。銀髪が視界を塞ぐ。並外れた妖力を持つがゆえに感じてしまう、異様なまでに強く張り詰めた空気――それでも。
「神獣だか何だか知らねえけど」
 ぎりり、と歯を食いしばる。
「俺は負けねえ」
 もし負けてしまったら……もう、彼には何もないのだから。