instagram

父の巻 第十章

  一

 紫苑は床の上に座し、辺りをぐるりと見回した。彼の周りに、桔梗を始めとして燐、朔──その肩の上に猫と化した白虎──そして壬が座している。最後に音もなく現れた焔、つまり朱雀が、彼の背後に腰を下ろした。
 不思議な心地がした。何故自分がこんなに沢山の者たちに囲まれているのだろうか、というような。――孤独の匂いが、ここにはない。
 紫苑はゆっくりと口を開いた。
「私は暫く、都を離れようと思う」
 その言葉に反応したのは燐と、そして壬のみだった。
「何故だい?」
 問う燐とは対照的に、壬は探るような視線を紫苑に向ける。
「おそらく」
 紫苑は落ち着き払って言葉を紡いだ。
「例の『噂』が今上の耳に届くのも時間の問題……それなら先に私自らがそのことを言上し、御心を惑わせた罪にて暫し蟄居仕ると申した方が、御心映えも良いであろう」
「噂?」
 壬が声を上げた。
「まだそんなことを言っているのか? お前は間違いなく先帝の──」
「そんなことは分かっている」
 紫電の視線が壬を射る。紫苑の声は静かでありながら、有無を言わせぬものだった。
「だが、お前の望んだような結果は得られるまいよ」
「何?」
「お前はひとの世から私が追放されることを願ったのだろうが、そうはいかぬ」
 紫苑はわずかに微笑んだ。何かを憐れんでいるような、蔑んでいるような、それでいて憎めないとでもいうような。悲しくも優しい笑顔だった。
「かつてのあやかしとの争いで、強力な陰陽師たちはことごとく命を落とした」
 ──脳裏に幾人かの知己の顔が浮かぶ。
「残ったのは、私が幼い頃から既に半ば引退していた私の義父と」
 燐がかすかに顔を歪めて目をそらすのを、朔は横目で見ていた。
「敵側に寝返ることを恐れた輩によって都を離れることを許されなかった、私だけだ」
「…………」
 壬は思わず黙り込む。
「もちろん鳳凰族討伐は私の生まれる前の話だから関係ないが、その後の討伐隊からは意図的に私は外されたのだ」
 紫苑はそんな彼の様子には構わず、話を進める。
「帝の代が変わっても、それは変わらなかった──」
 先帝はむしろそんな状況に安堵していたかもしれない。息子を戦場へと、しかもかつて母の一族が滅ぼされたのと同じような修羅の場へと、送り出さずに済んだのだから。
 今上は何も知らない。先の決定が下されたのは、恐らくは摂政らの意向が反映されてのことだろう。結果、彼を遺して他の有力な陰陽師たちは次々に命を落とした。その次の世代には、未だ才能ある者が現れていない。
 紫苑は壬から目を逸らさなかった。
「私に敵う陰陽師は──ひとの中にはいない」
「…………」
「たとえ把になってかかってきたとしても」
「私が、退けます」
 不意に、桔梗が囁くように言った。
「紫苑を傷つけさせたりはしない」
「…………」
「そもそも」
 燐が顔を上げた。
「紫苑以外の者にどうやって、都を守れるっていうの? 今以上に安定した結界は誰にだって不可能だよ」
 紫苑は桔梗と燐に少しずつ笑みを見せてから、頷いた。
「そういうことだ」
「…………」
「人妖と蔑み、忌避する存在であっても」
 紫苑は独り言のように続けた。
「ひとは利用して生きていく」
「……紫苑」
 桔梗が心配げに覗き込むが、そこにあったのは意外なほど穏やかな表情だった。
「ひとは、そういう生きものなのだ」
 一瞬目を閉じて深く息を吸う。
「ひとは、かなしい生きものなのだ……」
 紫苑は側に座る桔梗の手の甲に、その手のひらを重ねた。
「だから私は自ら都を離れる。ほとぼりの冷める間だけになるとは思うが」
「都から呼び戻されるのを待つ、と?」
「そうだ」
 紫苑は燐の問いに頷いて見せた。
「お前はここに残るだろう。まだ復官したばかりで間がない」
「でも……」
 燐は朔を見遣る。琥珀の瞳が真っ直ぐに見返してきた。
「僕はここにいます。せっかく父さんに会いに来たのですから」
「そ、そう?」
 燐は僅かに顔を綻ばせるが、壬を見遣ってその頬は強張った。沈黙を守っていた白虎が言葉を発する。
 ――紫苑どのには是非、出雲の国をお訪ねいただきたい。
「出雲の国?」
 紫苑の背後に座る焔が補足するように言う。
「そこには玄武の巫女がいるのです。そして、運命(さだめ)の中心に、最も近いところ……」
 それを聞く桔梗の頬は青ざめ、紫苑の手に触れている場所は固く強張っていた。
 壬がぶっきらぼうに尋ねる。
「俺の弟の話は?」
 白虎は豊かな毛を揺らしうなずいた。
 ――無論、それもある。
「ええと、それじゃあ」
 燐は嫌そうに顔をしかめた。
「まさかとは思うけれど、紫苑と桔梗ちゃん、それと壬っていう最悪の取り合わせで旅をしろってことなの?」
「心配するな。今更紫苑を襲って何になる」
「でも」
 燐は半眼で尋ねる。
「紫苑のことは嫌いなんだろ?」
「俺はそこに行き着く道を知らない」
 壬は真顔で答えた。
「紫苑に憑いてる朱雀や、御子は――青龍は知っているのかもしれない」
「…………」
「なら、利用させてもらう。それだけのことだ」
「話は決まったな」
 紫苑はあっさりと頷いた。壬が同行することに対する異論はないようだ。ただ――傍らに座る桔梗の、その不安そうな横顔だけが気になった。

  二
  
 その翌日、摂政である藤原時雅が今上に呼び出されたのは、例になく朝早くのことだった。朝議の始まるずっと前の時刻、時雅は緊張を含んで御簾の前に伏す。
「時雅、参上仕りました」
「ご苦労」
 若い声が、弱い。
「今日は誰にも聞かれてはならぬ相談事があったゆえ、摂政どのをお呼びたてしたのだ」
「は……」
「率直に言う」
 時雅の背中に嫌な汗が滲んだ。
「現在の御門家当主の父親は、誰だ」
「…………」
 時雅はこわばりそうになる舌を、辛うじて動かす。この場合、沈黙は肯定と同じ意味を持つ。
「何者かが御心をお騒がせ申しましたか」
「口さがないものの立てた噂ならばそれで良い」
 今上は言う。
「しかし、真実だというのなら……」
「いうのなら?」
「…………」
 今上は御簾の下から文を差し出した。
「昨晩届いた。御門紫苑からだ」
「…………」
 時雅はその文と御簾を交代に眺める。
「彼は噂の責任を取り、暫し蟄居したいと申してきた。そして出雲の国に陰陽の道を尋ねに行く、と」
「……今上は、いつ頃お聞きになられましたか」
「もう七日ほど前にもなろうか」
 今上の答えを聞いて時雅は眩暈をおぼえた。――何ということだ……。
「正直」
 今上は少年じみた声でつぶやく。
「信じられなかった」
「…………」
「けれど」
 時雅は顔を上げた。
「さほどの感慨は受けなかった」
「…………」
 言葉もない彼に、今上は言う。
「今更――今更それがどうだというのだ。彼が養子に出た時点で、皇位継承権はそもそも与えられない」
「……御意」
「父が何を考えていたかはわからぬ。何故あやかしの女を孕ませたのか、何故子を産ませたのか、私にはいくら考えてもわからなかった」
「…………」
「しかし……」
 少し考えるように間を空けて、
「だからといって、その責を子である彼がすべて負わねばならぬのだろうか」
「……責を」
 時雅は控えめに声を押し出した。
「負わねばならぬとは思いませぬ。思いませぬが……」
「皆は動揺しているか」
「……動揺と申しましょうか」
 慎重に言葉を選ぶ。
「何しろ初耳で御座いましたから、皆驚いております。半信半疑、といったところで」
「そうか」
 今上はそれきり口をつぐんだ。――時雅にとっては永遠とも感じられるほどの長さの沈黙。やがて、御簾の内からは深いため息が聞こえてくる。
「そういえば……」
 それは半ば独り言であった。
「彼を見ていると何故か懐かしい感じがするのは、どこか父上に似ているからかもしれないな……」
「…………」
「時雅」
 今上の声音が厳しいものに変わった。
「は」
 時雅は平伏する。
「彼を正式に先帝の落胤と認めよ」
「それは……」
「隠されると暴きたくなるのがひとの心理というもの。ここまで広まった噂を打ち消すことは容易ではない。それならばいっそ」
 今上はいっそ冷酷にも思えるような声音で言う。
「彼をひとの秩序に組み込むことを考える方が得策であろう」
「…………」
「彼は我らにとってなくてはならない人材なのだ。そうであろう?」
「……御意」
 時雅はうなずいた。結局そうするしかないだろう。そして、彼が都を離れているうちに誰もがそのことを忘れ去る。権力の座につき得ない先帝の落とし胤など、誰の興味も引かないだろうから。
 時雅が退出しようとしたとき、背後からかすかに今上の声がした。
「たとえ仮初めだとしても」
 彼は思わず足を止めてしまう。それが独り言だとわかっていても、出て行く気にはなれなかった。
「父上はあやかしを、愛したのか……」
「…………」
 言葉がそれ以上続くことはなく、時雅は足早に廊下へと歩み出る。日に暖められて徐々に温くなり始めた大気の温度が、今はたまらなく不快だった。
 
 
  三
  
「行くのかい?」
 その三日後、燐は御門邸の門の前に佇んでいた。そこには一台の牛車と、ニ頭の馬。牛車には紫苑と桔梗が乗り込み、馬のうち一頭には壬が、もう一頭には焔が腰を下ろしている。
 桔梗も壬も都を出るまでは額の印を塗り隠し、式神を装うことにした。意外にも、壬は姿を変じることに文句を言わなかった。どうでもいい、と思っているのかもしれない。今も不機嫌そうではあるが、この前まで発していた殺気は既に立ち消えてしまっている。――壬の心中に、何か変化があったのかもしれない。燐はそう思った。
「お気をつけて」
 側に佇む朔が手を振る。紫苑は微笑んで頷いた。
「少し、療養してくる」
「うん」
 燐は桔梗に視線を転じた。彼女の表情には見知らぬ土地に向かう不安はない。側に紫苑がいれば、居場所がどこであるかなど問題ではないのだろう。
「紫苑を頼んだよ」
 燐の言葉に、水色の目が少し見開かれる。やがてはにかんだように頬が染まり、
「……はい」
 と小さな声が聞こえた。
 ――健勝を祈る。
 その白虎の声を合図にしたかのように、御簾を下ろした牛車はゆっくりと動き出した。がたん、と揺られた調子に桔梗はふらりと紫苑の胸に倒れこむ。
「あ」
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
 抱きとめられた桔梗は、そう答えながらも紫苑の表情を伺う。
「?」
 不思議そうな表情をした紫苑から慌てて顔を伏せて、桔梗は紫苑の背中にぎゅっと腕を回した。
「桔梗?」
「何でもありません」
「…………」
 紫苑は優しく彼女の髪を撫でる。桔梗は心地良さそうに目を閉じつつも、小さな小さなため息を漏らした。
 ――ずっと、何があっても一緒にいられますか。
 これからいろんなものを見て、聞いて、いろんなひとと出会って……それでもまだ、紫苑は自分だけの側にいてくれるだろうか。何度も何度も髪を滑り降りていく紫苑の手を感じながら、桔梗はただ自分の胸の中だけで問いかけることしかできなかった。