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父の巻 第六章

  一
  

 突然、傍らの白虎が低く唸った。朔ははっと息を呑む。
「……もしかして……」
 ごくり、と喉が鳴った。空気が張り詰めている。そして、禍々しい「気」の流れ。都の中でこれほどまでの妖気を発する者が現れるなど、尋常なことではない。紫苑や桔梗も強い妖力の持ち主だ。しかし普段の彼らはそれが溢れぬように押さえているし、こうして他人に気取られるようなことはまずあり得ない。
 朔は表情を引き締めた。この妖気の持ち主は、ひとに気取られることを全く恐れていない。ひとになど負けぬ自信があるのか――それともそんなことはどうでも良いのか……。彼の脳裏に浮かんだのは「水の殺戮者」、水龍族の男。彼の手によって運命はまたひとつ、歯車を動かした。
 御門紫苑。火を統べる者、鳳凰族最後の御子の遺児。同時に、彼は歴史から抹消された第一皇子でもあった。異端とされながらも朱雀を従え、最強の陰陽師として都を守っている。だが、彼が愛したのは朝敵として打ち滅ぼされた水龍族の御子――そしてその身には青龍が宿る。
 橘燐もまた、運命に翻弄されて愛する者たちを失った。それは、決して消えることのない傷。しかし彼の息子は白虎によって再び命を与えられた。彼もまた、これから訪れるさだめの奔流に耐えなければならない……。
 ――朔。
 白虎の声が頭に響いた。朔は即座に頷き、頭を低くした獣の背に、彼に慣れた様子で飛び乗った。白虎は少々急くように、軽く前足を蹴立てる。
 ――どうやらそこに、お前の父がいるようだ。
「……何だって?」
 すう、と血の気が引いた。
 
 
  二
  
 ――ざわり、と体中の皮膚がざわめいた。うとうとと眠りに落ちかけていた紫苑は眼を開け、神経を研ぎ澄ます。彼の腕を枕にして眠っていたはずの桔梗は、既に目を覚まし帳を押し開けていた。月明かりのない、漆黒の空が見えている。
「紫苑」
 振り向いた桔梗の表情は良く見えなかった。
「燐さんが危ない」
「え?」
「詳しいことは良く分からないけれど」
 桔梗の口調は重い。
「どうやら――壬がこの近くにいる」
 その名前を聞き、紫苑は跳ね起きた。
 ――我が名は壬。その御子と同じ……、水龍族だ。
 記憶を失う前の桔梗の許婚であり、かつて紫苑を殺そうとした男。
「壬が……?」
 喉が乾いて、言葉が喉の奥に絡まった。
「何故、燐を」
「分かりません。白虎と朔さんは既に向かったようです」
「そうか」
 柔らかそうな桜色の髪と、澄んだ琥珀の瞳を思い出す。紫苑は黙って身支度を整え始めた。
「…………」
 桔梗は何も言わずそれに従う。だが不意に手を止め、桔梗は口の中で小さくつぶやいた。
「……まだ……諦めていないのかな……」
 ――俺たちの一族を滅ぼしたのは人間なんだ。仇なんだよ!! 悲痛な叫び声が脳裏に蘇る。その残響を追い払うように、桔梗は首を左右に振った。支度を終えた紫苑が、彼女の頭を一瞬だけ胸に抱く。
「行こう」
「…………」
 桔梗は無言で頷いた。
 
 
  三
  
 これほどまでにあからさまな殺気を向けられたのは初めてだった。指先から徐々に強張っていくのを感じる。それが恐怖によるものだと気づいた時、燐は大きく眼を見開いた。
 ――僕は……死にたくないのか……。
 燐は無理矢理に指先を折り曲げ、拳を作る。胸の前で握り締めたそれを、燐は見るともなしに見つめた。自分には何もない。愛する妻を失い、生まれ出ずることのかなわなかった子供をも同時に失ったあの日から――自分の命など惜しくなくなった。何一つ守れなかったくせにおめおめと生きている自分を心のどこかで嘲り、憎んですらいた。しかし、青龍の魂を宿す「桔梗」と会話を交わした日に、生きていくと決めた。それが彼女の――さくらの、最後の願いだったから。
 とはいえ、燐の中に生への執着が芽生えたわけではなかった。日々を生きていながら、どこか現実感がない。紫苑と笑いあっていても、桔梗をからかっていても、どんな時でもこころのどこかが冷えている。それは彼女を失って以来、決して癒えることのない痛みだった。いつか、彼女の元へと逝く日――その日を、心待ちにしていたはずなのに。
「…………っ」
 歯の根が合わない。それが情けなくて、燐は無理に歯を食いしばった。震える歯が舌や唇を傷付けるが、気にならない。だが、口中に広がる鉄錆に似た味は、彼の一番忌まわしい記憶を呼び起こす。――あの部屋中に広がっていた、血の匂いを……。
「覚悟はできたかい?」
 砂利の音が響く。壬が立ち位置を変えたのだろう。こんな都の外れの路地を、訪れる人もいるはずがない。燐は死を直視した。
「……く、は……」
 つぶやき声が壬の耳に届く。
「ん?」
「……僕は」
 燐は立ち尽くしていた。いつの間にか、体中を揺さぶっていた震えは消えている。
「僕は、無力だ」
「…………」
「いつだって見ていることしかできなかった」
 子供の頃からそうだった。紫苑がどんなに辛い目に遭っていても、彼には何もできなかった。口さがなく悪口を言う学友たち。彼はいつだって見て見ぬ振りをしていた。
「紫苑の前でだけ親友面をして……僕は何もできなかったんだ」
 燐の目から涙が溢れる。――この涙すら自分のために流しているのかもしれない。死に逝く自分を悼む、涙。
「僕が窮地に陥った時、紫苑はあんなに奔走してくれたのに……」
 さくらを失った後、彼を待っていたのは貴族たちからの白眼視だった。あやかしを妻としていたのだ。無理もない。だが、紫苑は身を挺して彼を庇った。宮中への復帰も、彼が今上にとりなしてくれたからこそだった。
「…………」
 壬は不思議なものを見るように燐を見ている。
「わかるんだ」
 燐は少しだけ微笑んだ。
「もしここで僕が死んだら……きっと彼は悲しんでくれる。桔梗ちゃんは泣くかもしれない。うぬぼれかもしれないけど、そう思う」
「何故、御子が泣くんだ」
 壬が「桔梗」の名前に反応する。燐は満足げに顔を上げた。
「だって僕らは仲がいいからね」
 堂々と、真っ直ぐに壬を見据える。
「僕がただの居候だった頃は、いつも一緒に留守番していたんだから」
「……御子が……泣く?」
 語尾が揺れた。
 ――紫苑を殺しても、私は貴方のものにはならない。
 御子の、否、桔梗の瞳を思い出す。
 ――もし、貴方の手の者が紫苑を殺したら……私、貴方を殺してしまうと思う。
「…………」
 壬が僅かに逡巡した、次の瞬間。一陣の風が壬と燐の間に割って入っていた。
「誰だ!」
 砂埃を避けるために、壬は目を半ば閉じざるを得ない。燐は強風に煽られてたたらを踏んだ。よろけた彼の手を握り締める、小さな手。
「父上!」
「?!」
 燐は思わず目を剥く。煙った視界の中、鮮やかな桜色の髪が舞った。
「さくら……?」
 彼を覗き込む瞳は黄金色で、どちらかというと彼に似ている。しかし目の前の子供は童形とはいえ十は超えているはずだ。計算が合わない。それに何より……。
「話は後です」