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父の巻 第八章

  一
  
 風が唸る。それは白虎の存在によるものかもしれないが、そうでないかもしれない。だがそんなことは壬にはどうでも良かった。たとえこの風に頬を切り裂かれたとしても、今の彼は痛みなど感じなかっただろう。
 紫苑の顔が強張り、やがて眼が大きく見開かれる。紫電の瞳――それはひとではない証。刻み付けられた禁忌の刻印だ。
「え……?」
 零れ落ちたのは間抜けなほど小さな声だった。唇が小刻みに震えているのが夜目にも分かる。壬は喜色を満面に浮かべて声を張り上げた。
「聞こえなかったのか?! お前の親父は、先の帝だって言ってるんだよ! お前は第一皇子なのさ!!」
「…………!!」
 その言葉をようやく理解したというように、桔梗がはっと顔を上げた。細い銀糸が強風に靡く。
「そんな……」
「お前は知ってたんだろ? 橘燐」
「…………」
 燐は苦々しげにうなずく。
「……燐」
 紫苑がつぶやくように名を呼ぶと、燐はのろのろと答えた。
「今日、有平に聞かされた。宮中で密かに噂になっていると――どうやらあれが」
 と、彼は壬に険しい視線を向けた。
「言ってまわったようだけどね」
「俺は何も悪いことはしていないぜ」
 壬は肩をすくめた。
「昔、蘭妃とやらが匿われていた吉野山を訪ねて行ったら、意外とすぐに彼女のいた場所が見つかってさ。ちょっと入ってみたら先帝の信書がわんさか出てきてびっくりってわけ」
「嘘だ……」
 紫苑はつぶやいた。彼の顔は色を失っている。
「わたしが……そんな……」
「紫苑」
 桔梗が彼の腕を抱く。それを見た壬が、さっと憎悪に顔を染めた。
「御子、今度こそ分かっただろ? そいつが俺たちの仇の息子だってことがさ!」
「…………」
 桔梗は壬を振り向くこともなく紫苑を見つめている。
 紫苑は桔梗に抱かれていない方の手で自分の額を押さえた。どくどくと脈打つ音がする。痛い。壬の声がひどく耳障りだった。
「俺たちを、御子の一族を滅ぼしたのはそいつの父親なんだ!」
 ――うるさい。紫苑はがくりと膝を折った。
「紫苑!」
「紫苑さん!」
 桔梗と朔が口々に叫ぶ。燐はただ壬を見据えていた。
「君は……!」
 紫苑はぎゅっと眼をつぶった。それでも声は大きく反響する――私の父親が、桔梗の過去を奪った……?
 不意に、白虎が吼えた。辺りが光に包まれ、それは結界だということに燐以外の者が気付く。
「とら?」
 朔が不思議そうに白虎を見やった。紫苑は膝をついたまま荒い息をついている。
「紫苑?!」
 桔梗が驚愕の声を上げると同時――紫苑は爆発していた。
 
 
  二
 
 摂政、藤原時雅の屋敷。ひとを寄付けない奥まった部屋に、時雅とふたりの息子が座していた。藤原雅哉。藤原伴雅。異母兄弟ではあるが、時雅の長男と次男である。特に雅哉は、藤原家次期当主でもあった。
「いかがいたしましょうか」
「…………」
 時雅は雅哉の声に瞑目して答えない。
 伴雅は雅哉の一歩後ろに座していた。こうして雅哉と共に時雅の屋敷を訪れるのは彼にとって初めてのことだ。実際、これまであまり父と私的な関わりを持ったことはなかった。母を捨てた父を恨む気持ちがなかったとは言わない。だが彼の足を遠のかせていたのは、所詮妾腹に過ぎない自分の身を軽んじる気持ちのためでもあった。冷たく追い払われるのが怖かったのだ。しかし、雅哉に誘われて姿を見せた伴雅を、時雅は意外なほど優しい眼で見つめた。宮中で出会った時とは全く違う。――大きゅうなったな。つぶやかれた言葉に涙が出そうになった。
 ――父とはかように暖かなものか。伴雅は思う。この存在感は何だろう。母とは違う、もっと大らかな、ともすればとらえどころのないような、しかしそれでいて彼をしっかりと包み込む温度。それは母ほど確かなものではない。だが、それでも良かった。ここにはまた違った居心地の良さがある。
 ――そういえば、あの陰陽師は、母も父も知らぬのだな……。伴雅はひとりごちた。
 母はどこのものとも知れぬあやかしであるという。父はどうやら先帝のようだが、これはおそらく本人も知らぬのであろう。もし、知ったらどう思うのだろうか。恨むだろうか。呪うだろうか。――今上が異母弟であることを知ったなら、彼は一体……。
「伴雅」
「は、はい」
 不意に父に名を呼ばれ、伴雅は居住まいを正した。
「お前はどう思う」
「…………」
 既に宮中には広がりきってしまった、例の噂――今上の耳に入るのも時間の問題かもしれない。
「愚考かとは存じますが」
 伴雅はおそるおそる口を開いた。振り向いた雅哉は暖かな視線で彼の言葉を促す。
「いっそ、御門紫苑の父親は誰々である、としてしまった方が良いのではないかと――」
「先帝以外の誰か、ということか」
「は」
「良い案だ」
 時雅はうなずいた。
「しかし」
 伴雅は言葉を継ぐ。
「問題がございます」
「…………」
「一体誰の子であるということにするのか」
「……そうだな」
「彼があやかしの血を引くことは周知の事実」
「誰も立候補はしたがらないでしょうね」
 雅哉が顎を軽く撫でる。
「誰か、既に亡き者を仕立てるか――」
「御門蘇芳どのは」
 雅哉が時雅に尋ねる。
「何と仰せです」
「今上と紫苑どのの耳に入らぬうちに火を消してくれ、とのことだ」
「それはそれは」
 雅哉は苦笑した。
「難題ですな」
「全くだ」
 時雅は笑みを浮かべることもなく頷いた。
「噂は静まる気配はありませぬか」
 伴雅が尋ねると、雅哉は首をかしげる。
「広まるには広まり終わった感はあるが」
「いつ何時今上の耳に入るか分からぬからな」
「そうですな――」
 そのとき今上が一体何を思うのか、伴雅には想像もつかない。
 結論の出ない議論を続けながら、夜は刻々と更けていった。
 
 
  三
  
 そのとき、その場にいた誰もが自分の目を信じることができなかった。紫苑の髪が紅蓮に染まり、瞳が灼熱する。軽く跳躍したように見えた次の瞬間――壬は地面に薙ぎ倒されていた。
「――――?!」
 咄嗟に飛び出そうとした朔を、白虎は体で遮る。
 ――朔、今は危険だ。
「でも……」
 横目で桔梗を見ると、彼女は悲しそうな瞳で紫苑を見つめている。
「……紫苑」
 呆然とした声で燐がつぶやいた。
 壬は自分の上に馬乗りになっている男が誰なのか、一瞬分からなかった。それほどまでに――。
「ぐ……」
 喉元を締め上げる熱い手のひら。彼の視線を捕らえて離さない、まるで噴火口のような眼。白い歯はがちがちと鳴っていた。強大な妖気――あの時より、もっと。かつても紫苑の髪と眼が紅色に染まったことがあった。だが、そのときとは比べ物にならない。絶対に認められない、認めたくないことであったが――このとき壬は紫苑を怖い、と思った。
「くそっ……!!」
 壬の放つ水の大蛇(おろち)が、紫苑を背後から襲う。それらは全て紫苑に到達する前に音を立てて蒸発した。白いけむりが立ちこめるが、その中でも紫苑の真っ赤な髪は煌々と輝いている。
「…………」
 紫苑は無言で壬の首を絞め続けている。壬はあがくが、どうしても抜け出せない。周りの者は手も出せずに呆然としているだけだった。
「どうして……」
 燐がつぶやくと、白虎が横目で彼を見遣った。
 ――彼は今、ひとであることを拒絶しているのだろう。
「どういうこと?」
 次に問うたのは朔だった。
 ――許せなかったのだな。自分が先帝の血を引くということが……。
 自分の父親が桔梗の親兄弟を殺した。そのことは彼にとって相当な衝撃であったのだろう。
「で、でも」
 燐が言葉を継ぐ。
「関係ないじゃないか! そんなの、紫苑には……」
「そう」
 桔梗が答え、一歩進み出た。
「紫苑には関係ない。紫苑が直接手を下したわけじゃない」
 紫苑と壬は体勢を変えぬまま、妖力による攻防を続けている。紫苑から積極的に攻めることはないが、連続的な壬の攻撃は何一つ彼に瑕疵を与えることはできていなかった。
 ――強すぎる。朔は慄然とした。
「紫苑」
「…………」
 桔梗の声にも紫苑は答えない。壬の顔は、徐々にどす黒くうっ血してきていた。
「こ……の……っ」
 それでも彼は吐き捨てる。
「出来損ないの、ばけものが……!」
「紫苑」
 桔梗は静かに呼びかける。
「紫苑」
 その名が愛しくてたまらないといったように、何度も何度も呼んだ。
「紫苑……」
 ――しかも、世が世ならば、彼は帝の世継ぎであったのだからな……。
 白虎がつぶやいた。
「紫苑」
 桔梗はただ、繰り返した。
「……がっ」
 壬がもがく。その眼は真っ赤に充血していた。
「壬を、殺すの?」
 桔梗の問いに、紫苑はぴたりと手を止める。
「紫苑は、壬を殺したいの?」
「……ち、ちが」
「紫苑はそれで」
 桔梗は優しく問いかける。
「楽になれるの?」
「違……う」
 ひび割れた声が紫苑の唇から漏れる。
「違う……」
 紫苑は壬の手から指を離し、地面の上に座り込んだ。壬は慌てて彼から離れ、苦しそうにむせ返る。
「違うんだ……」
 紫苑はぽろぽろと涙を零していた。ぬぐうこともなく、頬をそれが伝うままにしている。桔梗はそれを見守りながら、一歩ずつ近づいた。
「知らなかった」
 紫苑はつぶやく。
「私の父親が……先帝だったなんて」
「…………」
「お前や壬の、仇だったなんて」
「…………」
「お前は」
 紫苑の涙に濡れた目が桔梗を見つめた。
「お前は知っていたのか?」
「…………」
 桔梗は優しく微笑む。
「青龍のくれた知識にはあったかもしれない。でも私は気付かなかったし、知らないも同然だった。だって」
 彼女は紫苑のすぐ側に立っていた。袖がふわりと彼を包む。
「だって、関係ないもの」
「…………」
「紫苑が誰の子供でも、誰の血を引いていても、関係がない。紫苑は紫苑。そうでしょう?」
「……でも」
 紫苑は子供のように泣いている。
「壬が恨むのは当然なんだ。殺したくなるのも、当たり前だ」
「じゃあ」
 桔梗は少し寂しげな表情になった。
「殺されたいの? 紫苑は」
「…………」
「それでいいの?」
「…………」
「ひとでいるのをやめたくなるくらい?」
「……私は」
 紫苑は呻く。
「ひとにもあやかしにも――なれぬ」
「違う」
 桔梗は言った。
「紫苑はひとであり、あやかしでもある。だから私も側にいられるし、燐さんも一緒にいる」
「……ききょう」
「泣かないで」
 桔梗は紫苑の涙を袖でぬぐう。
「紫苑は悪くない。何にも悪くないよ」
「…………」
「それに……」
 紫苑の目が彼女を見上げた。まるで子供のように澄み切った瞳は、既に紫の色を取り戻している。だが――髪はまだ、朱に染まったままだ。
「紫苑のお母さんは、紫苑を愛していたでしょう? もしかしたらお父さんもそうかもしれない」
「父が……私を……?」
「だって、紫苑のお父さんは紫苑を殺さなかったもの。ちゃんと養子に出して、育つように計らった。それがお父さんの精一杯だったのかもしれない」
「……そう、だろうか」
「そうですよ、きっと」
 桔梗は微笑む。
「だから、憎まないで」
 ――その優しい心を、
「恨まないで」
 ――痛めないで。
「傷つけないで」
 ――自分を、
「殺さないで」
 ――否定しないで。
「…………」
 紫苑の強張っていた体から力が抜ける――桔梗は優しく彼を抱きとめた。紫苑は穏やかな表情で彼女の腰に顔をうずめて眠っている。妖力を使いすぎたのだろう。彼の体がふんわりと風に攫われ、そっと白虎の広い背中に横たえられた。
「御子の言葉は、全部まやかしだ」
「…………」
 壬の言葉にはまだ力がない。喉にはくっきりと紫苑の手形が残っていた。
「全部全部、奇麗事に過ぎない。何も解決していない」
「貴方を紫苑に殺させなかったのは」
 桔梗は冷ややかにつぶやいた。
「貴方を激情のままに殺すことで、きっと紫苑が傷つくと思ったから」
「…………」
「でも」
 桔梗の髪がゆらりと立ち昇った。
「私がここで、貴方を殺しても構わないんですよ……?」
 ぞくり、と壬の背筋に冷たいものが流れ落ちていく。桔梗が眼光を鋭くした時、背に紫苑を乗せた白虎が一歩進み出た。
 ――壬とやら。
「何だ」
 壬は桔梗から眼を逸らす。
 ――お前に伝えたいことがある。
 やがて、白虎はゆっくりとその言葉を口にした。
 ――お前の双子の弟は、生きているぞ。