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父の巻 第五章

  一

 紫苑は白虎に問うた。
「朔はひととあやかしの子供……。つまり、半妖なのか?」
「ああ」
 声をあげたのは朔だった。少し悲しそうな目で傍らの神獣を見る。白虎はその黄金色の瞳で紫苑を見つめた。
 ──実のところ、朔はひとでもあやかしでも……半妖ですらない。
「え?」
 紫苑は意味がわからずに聞き返す。
「どういうことだ?」
「僕は、一度死んでいるんです」
 朔は重々しい口調で言う。
「母から産まれる前……母が亡くなった時、一度は僕も命を落としました」
「…………」
 紫苑は絶句する。──考えてみれば当たり前だった。彼はさくらの亡骸を見ている。その身に新しいいのちを宿しているとは見えないほど、ほっそりとした体つきだった。まだ朔が彼女の胎内に生まれて間もなくであったろう。
 紫苑の眉根がきつくしかめられる。あのときの燐の悲しみは──直視することができなかった。いつも暖かい彩りを宿していた琥珀の瞳は絶望に凍りつき、震える歯はまるで何かに牙を剥きたがっているようにかちかちと音を立てていた。
 ──僕は……守れなかった……。
 痛い。紫苑は拳を握る。胸が痛くて、血の気が引いた。記憶が生々しすぎるからだろうか。いや、むしろあの当時は違った。確かに悲しかったし、辛かった。燐が望むのならさくらを手に掛けた人間どもを八つ裂きにしてもいい。一瞬、そう思ったくらいだった。けれど、怖くはなかった。いつか、自分も彼女のようにひとによって屠られるのかもしれない。その予感すらも、彼をおびえさせることはできなかった。しかし、今は……。
「紫苑?」
 強張った彼の体をいたわるように触れる、暖かな手。腕をそっとさすってくれる彼女の手をとり、力強く握った。
 ──怖い。紫苑は認める。──桔梗を失うことが、何よりも怖い……。
 もしそんなことがあったとして、自分はどうなってしまうだろう。そんな考えが頭によぎっただけで、まるで冷たい炎に包まれたような感覚に襲われ、体中を嫌な汗が流れた。そんなことには耐えられない──。
「大丈夫? 紫苑……具合が良くないみたい……」
 桔梗が困ったように朔と白虎を見た。紫苑を自室で休ませるにも、来客の手前どうすべきかはかりかねたのだろう。
 白虎はそれを見越したかのように告げる。
 ──我々はここで燐の帰りを待たせてもらうが、紫苑どのにお立ち会いいただく必要はない。先に休まれよ。
「しかし……」
 ためらう紫苑の目の前で、朔が進み出た。
「でも紫苑さん、本当に顔色が優れませんよ。すみません、驚かせてしまって……」
「いや、そんなことはないが」
「後は大丈夫ですから、今日はお休み下さい」
 そういって見上げる表情は燐そっくりだった。ひとでもなければ、あやかしでもない。半妖ですらない。白虎の言葉の意味はまだ分からない。朔は彼の表情から何かを読み取ったのか、わずかに険しい顔つきになった。
「僕は魂を白虎に拾われ──彼が作ったひとがたに封じられたのです」
「ひとがた?」
「人形──と言っても構わないんですけど。紫苑さんならご存知でしょう?」
「?!」
 紫苑は息を飲む。――それではまるで、陰陽師の使用する式神ではないか。確かに、陰陽師は人間の魂を扱うことはできないし、許されていない。だが魂をひとがたに入れて生き物とする、その発想はまさに式神のそれである。実のところ、式神を作るときに使うひとがたは何でも良く、魂の拠り代となりさえすればいい。紙で作る場合が多いのは、それが簡単であり、呪も込めやすいからだ。魂が入りさえすれば、姿はその魂の有り様によって決まる。
 朔は弱々しく微笑んだ。
「でも、いいんです。……こうして、父に会いに来れたのだから。本当なら、僕は父の顔も知らぬまま死んでしまっていた」
「…………」
 紫苑は言葉を失ったまま、ただ朔の顔をまじまじと見つめていた。死亡した胎児の魂をひとがたに入れるとは──神獣である白虎にだからこそ可能だったことだろうが、それにしても……。
「紫苑さん?」
 彼の声に我にかえると、朔は少し不安そうに紫苑を見ていた。──まるでかつての自分のように……拠りどころを、自分を認めてくれる誰かを、求めている顔だった。
「…………」
 紫苑は朔を見つめてしっかりと頷いた。
「父子水入らずの対面を邪魔するつもりはない……我々は奥にいよう」
「はい」
「話はまた明日にでも聞かせてくれ」
 この少年がただ父親に会うためだけにここに来たわけでもないだろう。彼は白虎を連れているのだ。
 朔は頷く。
「……是非」
 真っ直ぐな、美しい瞳。さくらが愛した男の面影は、彼女と同じ色の薄紅の絹糸に守られている。間違いない。朔は燐とさくら、ふたりの子供だ。そう思うと同時、紫苑は自分の内に沸き起こってきた感情の正体に驚愕する。それはまごうことなき、羨望だった。

  二

 燐はゆっくりと歩みを進めていた。風が冷たい。だが、胸中にくすぶる感情の火種は消えることはなく、むしろ徐々に燃え立っていた。
 ──なんてことだ。
 戸惑い。懸念。疑惑。そのすべてが、彼の歩みに重りを結ぶ。
 ──紫苑に言うべきなのか、言わない方がいいのか……。
「彼が先帝の、第一子だって……?」
 燐は唇を噛み締める。
 戦の勝者たる帝が、敗者の娘に子を孕ませた。そして紫苑が生まれ、我が子と引き離された蘭妃は失意と狂気のうちに死んだ。いや、彼女は我が子への想いが強すぎたためにもののけとなり、つい最近までこの世をさまよっていた。彼女が妄執から解き放たれ本当の死を迎えたのは、かつて心に描いてやまなかった我が子、紫苑の目の前であった……。
 先帝は何を思ってあやかしに──蘭妃に子を生ませたのか。権力者の残酷な気まぐれだったのか、それともそこには余人には計り知れぬこころのやりとりがあったのか……燐には分からない。――ただ一つ確実なのは、
「紫苑は何一つ悪くないってことだ」
 燐は足を止めた。何かの気配がする。強い殺気。そして、同じくらい大きな悲しみ。寂しさ。憎悪。――まるで、さくらを失った時の彼が抱えていたような。
「…………」
 燐は視線を闇の中のある一点に向け、努力して笑みを浮かべた。額に汗がにじむ。
「まさか、君の方から姿を表すとはね……」
 闇の一部が笑った。
「俺は回りくどいことは嫌いなんでね」
「その割に、今回は大分まだるっこしい手を使っているじゃないか」
 彼は闇をまとったまま肩をすくめる。
「そうでもないぜ。人間は噂好きだからなあ。放っておいても広まったさ」
「…………」
「あんたの奥方があやかしだってばれたのも、そのせいだろ?」
「…………」
「そのせいで――人間たちに殺された」
 燐はわずかに目を細めた。
「僕のことはどうでもいい。でも君には聞きたいことがあるんだ」
「こちらもあんたの用事はどうでもいいんだよ」
 彼は──壬は、にやりと笑った。
「俺は、あんたを殺そうと思う」

  三

 自室に戻った紫苑は、ふらふらと床に座り込んだ。朔のこと。燐のこと。さくらのこと。そして、桔梗のこと。すべてが目まぐるしく彼の頭を駆け抜けていく。
「でも……」
 側にいた桔梗がぽつりとつぶやいた。
 紫苑は視線を彼女に向ける。その先で、柔らかな笑顔が花開いていた。
「燐さん、子供が生きていて良かったですよね。どんな形であれ、失われてはいなかったんだもの」
「…………」
「難しいことは、私にはわかりませんでしたけど」
 桔梗はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「でも、朔さんからはいのちのにおいがした。生きている、においが」
「……いのちの」
「ええ」
 紫苑は口元を緩める。
「そうか」
 まるで我がことのように嬉しかった。燐はどれほど喜ぶだろう。失われたと思っていた愛児は、人知れず生きていたのだから。それがどんな形であれ、燐は必ず喜ぶに違いない。何故なら、朔の存在はさくらとの絆なのだから。――なるほど。紫苑は不意に納得する。先ほど彼が襲われた感情の理由が、ようやく分かった。
「子供……か」
「え?!」
 桔梗が何故か大声を上げる。
「どうした」
 紫苑が怪訝そうに尋ねると、彼女は顔を赤くしてぶんぶんと首を横に振った。
「な、何でもありません!」
「そうか」
 紫苑は眼を細めて桔梗を見つめる。――いのちのにおい。
 ふわりと紫苑は袖を翻し、桔梗をすっぽりと包んだ。
「し、紫苑?!」
 桔梗は慌てふためきながらも、しっかりと彼の背中に腕を回して抱擁にこたえる。
「これが……そうなのかな?」
 紫苑は桔梗の髪に顔を寄せ、息を胸いっぱいに吸い込む。みずの、におい。そして、どこか甘い香り。香を焚き染めなくても、そのにおいは桔梗そのものから発せられている。白い首筋に唇を寄せると、桔梗は身を捩った。
「く、くすぐったい……」
 紫苑はくすりと笑ってふう、と息を吹きかけた。
「ひゃっ」
 甲高い声を上げる桔梗が可愛らしくて、紫苑はさらに笑いながらぎゅっと彼女を抱きしめた。
「もう、紫苑……!」
 むっとしたように名を呼ばれる、その響きすら愛しい。それに――こうして抱きしめていれば、決してこの腕の中から消えない。
「……紫苑?」
 先ほどとは違う声音で、桔梗は紫苑の名を呼んだ。
「どうしたんですか? 気分は治りましたか?」
「桔梗」
 紫苑は彼女の肩口に顔を伏せたまま、呻くようにつぶやいた。
「お前の幼い頃は――赤子の頃は、どんな様子だったのだろうな」
「え……?」
「出会った時よりももっと小さな頃、お前はどんな風に喋ったり、歩いたりしていたんだろう」
「…………」
「きっと」
 ため息のような、吐息のような、そんな掠れた声で紫苑は囁く。
「可愛らしかったのだろうな……」
「紫苑……」
「見てみたい」
 紫苑の腕に力が籠った。
「お前にそっくりな、銀髪で、青い眼の……可愛い赤子が」
「…………」
 桔梗は真っ赤な顔で、それでも悲しそうに紫苑の髪に手を触れる。――それは決して叶わない望みだと分かっているけれど……。
「わ、わたしは」
 桔梗は照れ隠しのように口早に言った。
「紫苑の子供の頃が見たいです。黒い髪がさらさらで……」
 桔梗はうっとりと目を細めた。
「おめめが大きくて、綺麗な綺麗な紫水晶色なんです」
「…………」
「きっと、すごく可愛いです」
「……そうかな」
「ええ」
 桔梗は自信たっぷりに頷いた。
「絶対に可愛いです」
「私はお前に似ている方がいいと思うんだがな」
「そんなの嫌」
 桔梗はぐずる。
「だって、紫苑が私の面倒見てくれなくなるもの」
 紫苑は小さく噴き出した。
「子供相手に妬くのか?」
「…………」
 桔梗ははにかんだように微笑み、彼の胸元に顔を埋めた。
「ね、こんな風に喧嘩になるくらいなら」
 紫苑は優しく彼女の髪を撫でる。
「ふたりきりの方が良いでしょう?」
「…………」
 一瞬だけ、彼の手が震えた。
「……ありがとう」
 桔梗は聞こえないふりで目を閉じる。少しずつ慣れてきたはずの口付けなのに、今日はひどくぎこちなくて……切ないくらいに甘かった。