instagram

父の巻 第二章

  一
  
 一晩中続いた雨も夜明けと共に勢いを弱め、桔梗が目を覚ました頃にはすっかりあがっていた。
「…………」
 夜中に一度目覚めたせいか頭が重い。それでも隣にいない紫苑のことが気に掛かり、ゆっくりと体を起こした。
「お目覚めになりましたか」
 振り向くと廊下に佇む女房姿の式神。彼女は菜々子といい、菜の花の精霊である。萌黄色の衣をまとう姿は春らしく、華やかだった。
「紫苑は……?」
 寝ぼけ眼をこすりながら尋ねると柔らかな声が返ってくる。
「いらっしゃいますよ」
「今日は、宮中には行かないんだ」
「ええ」
 彼女もうすうす気付いていたが、紫苑はあまり宮中には行きたがらない。否応なしに彼の出席が求められる時は別だが、そうでもなければできる限り足を運ぼうとはしない。この屋敷にいて、何か彼の元に厄介事が持ち込まれれば――依頼されれば、それを解決する。彼はそうやってこの都を守ってきたのだ。少し前まで参内することが多かったのは、燐を宮中に復帰させるための働きかけを行っていたのと、彼の復職が決まった後も様子が心配であったからであろう。桔梗の知らぬことではあるが、紫苑の参内回数が増えたというだけで、様々な憶測が貴族たちの間で流れていたほどであった。
「燐さんは?」
「もうお出掛けになりました」
「そう……」
 どうやら彼は宮中で上手くやっているらしい。燐の妻があやかしであったという事実は消えない――誰より燐が消したいとは思わないだろう。そして彼女がひとによって殺められたという事実も。だが、他人の記憶は薄れていく。現に、今となってはほとんど誰もそのことを口にはしなくなっていた。少なくとも、表向きは。
「朝餉になさいますか」
「うん」
 桔梗はのろのろと寝所から這い出した。成体になろうが、青龍と融け合おうが、桔梗は桔梗でしかない。その仕草は幼い頃と全く変わるところがなかった。
 
 
  二
  
 調べ物をしながらうつらうつらしていた紫苑は、突然首に回された手に思わず床から飛び上がった。息が苦しい。殺気を感じたわけではないが、とっさに体が反応した。
「きゃあ?!」
 甲高い悲鳴。
「…………?」
 紫苑は眼下に広がる銀髪を見つめて瞬く。反射的に背後の人物を引き倒し、拘束する体勢を取ったのだが……。
「……い、」
 視線の先にある白い頬に朱が指している。青い瞳は痛みのせいか驚いたせいか僅かに涙を溜めているようだった。
「痛い……です……」
「す、すまん」
 紫苑は慌てて極めていた関節を離す。未だぼうっとしているのは状況が飲み込めていないせいだろうか、それとも眠気が完全には去っていないせいか。紫苑は桔梗に圧し掛かったまま首を傾げた。
「何故、私はお前に首を絞められたんだ?」
「!!」
 桔梗が驚いたように彼の顔を見上げる。
「首なんて絞めてませんよ?!」
「そうか? 苦しかったぞ」
 紫苑の真っ直ぐな紫電の瞳を見つめ返し、桔梗の頬がますます赤く染まる。
「そ、それは……力が入りすぎただけで……」
「もっと軽く絞めるつもりだったと?」
「ば、馬鹿!!」
「ぐはっ」
 桔梗の蹴りが鳩尾に当たり、紫苑は思わず桔梗の上にくずおれるように倒れた。
「し、紫苑! 大丈夫ですか?」
「け……蹴ったのはお前だぞ……」
「ごめんなさいいい」
 桔梗は、荒い息をつく紫苑を抱きしめる。ふわりと彼を包む甘い匂い。――紫苑は我に返った。
「桔梗」
「な、何です?」
 動揺もあらわに桔梗が聞き返す。
「わかったぞ」
「何がですか?」
 紫苑は痛みをこらえながらも小さく笑った。――桔梗はただ彼の背後から抱きついただけで、それがたまたま彼の気道を絞めてしまったのだ。居眠りをし掛けていた彼はその結果だけに反応して、桔梗を押し倒してしまった。――押し倒し……て?
「!!」
 紫苑は体を起こそうとしたが、彼の背中にしっかり回されている桔梗の腕に引っ張られて再び彼女の体を床との間に挟み込んでしまう。
「紫苑?」
「いや、その」
 紫苑は桔梗と目を合わせて露骨にうろたえた。柔らかく、温かく触れるもの。彼を包み込む芳しい匂い。澄んだ瞳が彼を映し、艶やかな唇が彼の名を呼ぶ。
「紫苑……?」
 頭に血が昇った。確かに、彼らは最近毎晩(しとね)を共にはしている。だが燐がからかうとおり、彼らはただ身を寄せ合って眠るだけだ。それだけでしあわせだったし、満たされていた。だから――。
「紫苑? どうしたんですか?」
 桔梗は固まって動こうとしない紫苑の頭にそっとその手の甲を押し当てた。
「顔が赤い……熱でしょうか」
「…………」
 彼女の拘束が緩んだ隙に、紫苑は体を起こす。乱れた着衣を直しているうちに桔梗もぴょこんと起き上がった。
「すまなかったな」
「え?」
「痛かっただろう」
 紫苑は彼女の手首をそっとさする。そこには、紫苑の手形が赤く残っていた。
「たいしたことありません」
 桔梗はにっこり微笑んで首を横に振る。紫苑の手を掴んでやんわりと離させた。
「私の方こそ、驚かせちゃってごめんなさい」
「構わない」
「…………」
 桔梗は少し考えるような表情を見せた後、急ににっと笑った。
「じゃあ改めて」
「え?」
 どん、と突き飛ばされて紫苑は背中から床に落ちる。胸の上に乗っかかっているのは桔梗だ。細い腕が彼の首に巻きつき、肩口には彼女の吐息がかかる。全身をぴったりと紫苑に寄り添わせて、彼女は安心したように吐息をついた。
「…………」
 紫苑は天井を見上げ、やがて小さく笑い始める。――まったく、甘えん坊な小動物だ。
「さっきも、こうしたかったのか?」
 紫苑は囁くように尋ねる。桔梗の体がぴくんと震え……やがて小さく頷いた。
「そうか……」
 紫苑は黙って桔梗の肩を抱きしめる。空いた片手で長い銀髪を梳くと、桔梗は気持ち良さそうに目を閉じた。
「…………」
 紫苑は唇を僅かに開けて、発音するには気恥ずかしい言葉をそらに向けて刻む。
 こうやって、誰よりも近い場所にいられるということ。それが何よりも心地よかった。
 
 
  三
  
「ごほ、ごほ……」
 藤原雅哉邸の離れ。十代半ばの少年が一人、床に臥せっていた。摂政である藤原時雅の末子、蓮である。現在は蔵人として今上の側仕えをしているが、体調を崩したために一端兄の屋敷に退出していた。
 気だるい午後。見舞いの者も途切れ、看病してくれていた義姉も今は席を外している。
「……ふう」
 早く完治して参内しなくては……。眠くもないのに、無理に目を閉じる。そのとき――不意に、何者かの気配がした。はっと眼を開ける。
「ひっ」
 蓮の喉が小さな音を洩らした。その口が、大きな掌で塞がれる。
「声を出すな」
 視線に射抜かれて体が動かない。彼を見つめるのは深い藍色の瞳だった。そして――昼の強い光を背負い、それを反射して煌く銀糸の髪。
「お前が、藤原蓮だな?」
「…………」
 声が出せぬままこくこくと頷く。――蓮が思いどおりにならなければ、きっと殺してしまうのだろう。そんなことには全く躊躇わないというような、そういう気配が彼からは感じ取られる。蓮には分からない。それこそがあやかしである彼――壬の発する殺気だということが。
「いい子だ」
 壬はにやりと笑った。
「騒ぐなよ。誰かが来たとしても、俺はそいつらごとお前を殺してしまえるんだからな」
「…………」
 蓮はこくりと頷いた。恐慌状態は既に脱している。自分でも意外なくらい冷静に、蓮は彼の口を塞ぐ手を軽く叩いた。
「騒がない、ということか?」
 蓮は視線で促す。壬はあっさりと手を離した。
「話が分かる坊主で助かったぜ」
「……僕に何の用ですか?」
 声を低め、蓮は尋ねる。
 壬はどっかと床に座り込んで胡坐をかいた。浅黒い精悍な顔立ちと、薄汚れた白い衣が妙に似合っている。野性的ではあるが野蛮ではない。ただ、ぎらぎらとした藍色の瞳だけは鋭く、そして何となく嫌な感じのする光を放っていた。
「お前、帝の側仕えをしてるんだろ?」
「え、ええ……」
「で、お前の姉貴は帝の妃だよな? 第一皇子――つまり世継ぎを産むことを期待されている」
「…………」
 戸惑う蓮を尻目に、壬は話を進める。
「藤原家としちゃ、天皇家と姻戚関係を深めるまたとない機会って訳だな。……だが、もし」
 不意に壬の顔から余裕ぶった笑みが消えた。
「先帝の息子がもうひとりいたら……どうする?」
「え?」
 蓮は眉を顰めた。
「でも、男の御子さまは今上おひとりのはず……」
「ま、もし隠し子がいたって、弟なら問題ないよな」
 蓮の不可思議そうな顔がやがて驚愕の色に染まる。
「まさか……」
「そう」
 壬は再び笑みを顔に浮かべた。
「どうやら今の天皇には兄貴がいそうだってんだなあ、これが」
「…………」
 蓮は息を呑む。父や兄たちの姿が頭を駆け回り――そして宮中に暮らす姉を思う。
「で、でも……そんな話、一度も聞いたことが」
「まあ、そいつが皇位につくことはあり得ないんだがな。事実を知ってるやつもほとんどいないだろうし」
 壬は妙に砕けた口調で蓮に語る。だが殺気そのものは全く和らいでいない。
「今の帝本人はそれを知ってるのかね?」
「……ご、ご存じない、と思う……」
 蓮はつぶやいた。壬は満足げに頷く。
「やっぱりな」
「そ、その話、本当なのですかか?!」
 思わず恐怖を忘れて詰め寄る蓮に、壬は鷹揚に手を振った。
「証拠が欲しいんだろ? やるよ」
「…………」
 どこからともなく取り出した書簡の束。古いものらしく、ところどころが破れている。
「それは……?」
「これは先帝が書いた手紙だ」
「……先帝が? 誰に?」
「そりゃあお前」
 壬は立ち上がる。その表情は逆光になって見ることができなかった。
「子供の母親あてに決まってんだろうがよ」
「……そんな……」
「それ、くれてやるよ」
「え?」
「ただし」
 蓮の耳にはその言葉が酷く大きく聞こえた。
「俺のことは他言無用だ。……分かったな?」
 凄みのある声音に、蓮はぶるりと体を震わせた。
「他のことは兄貴たちと相談して、好きにすればいいさ」
「…………」
 手の中に残された書簡。蓮の視線が一瞬それに落ち、再び壬の姿を捜し求めた時――既に彼は部屋にはいなかった。