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父の巻 第九章

  一

 悪い夢を見ていた。誰にも愛されず、誰にも受け入れられることはなく、誰にも必要とされないで、誰にも許されないまま、ただひとりでさまよい続ける……。そんな夢だった。
 ──夢、なのだろうか。この痛みを、彼は知っている。ずっと前から、それは彼の身を蝕んでいた。「孤独」という名の、痛み。
 ──私はひとりだ。
 己の腕の中で逝った、母の顔を思い出した。狂気に取り憑かれた彼女は、それでも父と私を愛していた……。
 父を――先の帝を想う。彼が八つの年まで、父は生きていた。まだ幼かった彼に辛くあたる公達から、折に触れ庇ってくれたのを覚えている。父は病がちで、気分が優れない時には彼の笛の音を聞きたがった。しばしば養父にも彼を連れて参内するよう命じていたようだ。それは親子の情の成せる技だったのだろうか――今となってはわからない。何故、父があやかしを討伐しようと思ったのかも、何故母を愛したのかも、何故彼を殺さなかったのかも、──分からない。
 それでも彼は……生きている。

  二

 夜が明ける。桔梗は眠りについたままの紫苑の顔を見下ろして小さくため息をついた。紙の様に真っ白な頬に血色はなく、唇はかすかに紫がかっている。手を伸ばして額に触れると、まるで氷のように冷たかった。
 桔梗はつぶやく。
「悪い夢を見ていないといいのだけれど……」
 彼の髪は既に黒い艶を取り戻していた。それを優しく指で梳く。こうして目を閉じていると、普通の人間と何も変わりはしない。だが、あの紫電の瞳が桔梗は好きだった。優しくて、それでいて寂しげで、他のどこにもない美しい色合い。桔梗の心を落ち着かなくさせる。鼓動を高鳴らせる。
「好き」
 ぽつりと言葉が零れ落ちた。その意味を、桔梗はゆっくりと噛み締める。こうして寝顔を見守っているだけでたまらなくしあわせで、それでいて切ない。胸の奥の方がぎゅっと何かに掴まれているような……けれど、それは暖かな温度を持っている。側にいたいと思う。ずっとこうして顔を見ていたい。存在を感じていたい。理由を聞かれてもわからない。ただ、心地良いのだ。彼の側で過ぎて行く時間が、何より愛しい。永遠という名の幻影を追いかけたくなるほどに……。
「紫苑と出会ったのは、運命だったのかもしれない」
 桔梗は紫苑の頬を両手で押し包む。その冷えた肌を温めてあげたかった。
「でも」
 桔梗の唇が紫苑の額を、頬を、鼻筋をかすめるように動く。
「紫苑のことを好きになったのは」
 ――ぴくり。紫苑の体が少しだけ動いたような気がした。
「運命なんかじゃなくて」
 桔梗は紫苑の吐息を少しだけ飲んでみる。
「私自身の意思だから」
 薄く目を細める。何故だか涙が零れそうになった。
「ずっと、側にいたいよ」
 彼の手をとって握り締める。
「紫苑がそれを望んでくれるなら……ずっと」
 桔梗は微笑んだ。
「側にいるよ……」

  三

 からりと帳の引き上げられる音がして、壬は伏せていた体を起こした。逆光になって見えないが、線の細い人影が彼を見下ろしている。
「昨晩は眠れた?」
「そんな訳ねえだろ」
 鬱陶しそうにそう言うが、人影は気にした様子もなく部屋の中に入り込んだ。――燐だ。
「そう」
 そっけなく言って壬から少し離れた場所に腰を下ろす。壬はそちらを見ようともせず、立てた膝に顎を埋めた。
 彼は昨晩、紫苑の屋敷で過ごした。白虎にそうするように言われたためであり、明日にならなければ弟の行方は教えないとも言われた。紫苑が目を覚ましてから話す、と。さすがの壬も白虎を力づくでどうこうする気にはなれなかった。そんなことは無理だと分かりきっている。
(みずのと)……」
 壬はつぶやいた。
 壬のたった一人の兄弟で、双子の弟。控えめな性格で、とてもおとなしい男だった。水龍には珍しい。いつも壬の後ろについて回っていたような気がする。ずっと一緒だった――あの日までは。
「もし、君の弟さんが生きていたら」
 燐は尋ねる。
「迎えにいくのかい?」
「当然だろ」
「……もし」
 静かで、それでいて鋭い矢が打ち込まれる。
「帰りたくないと言ったら?」
「…………!!」
 壬は立ち上がった。燐の襟首を掴んで引きずり上げる。
「今、何と言った」
 顔を伏せていた彼はゆっくりと視線を壬に向けた。そこには恐れの色はない。ただ、壬を眺めているだけ。
「…………」
 彼は手を離した。燐は膝をつき、壬を見上げる。
「聞こえなかった?」
「聞こえたよ」
 壬はつぶやいた。
 ――もし、弟が新たな場所で新たな幸せを見つけていたら……。
「…………」
 喉が変な音を立てた。それが嗚咽を飲み込んだ音だということに気付き、壬は驚く。――ぽた、ぽた、と足の指の側にしずくが落ちた。
「…………」
 燐は黙っている。
 壬が震える手で自分の頬に触れると、そこは熱く濡れていた。――俺は、泣いているのか。
 壬は気付く――俺は、寂しいんだ。御子がいなくなるのが、寂しい。弟がいなくなるのが、寂しい。一人になるのが、寂しい。
「まだ、動けない?」
 優しい声。
「君の中の時間を、動かせない?」
「……な……に?」
「辛いことがあった。僕も。君も」
 燐は語る。
「大切なものを失くして、そこから動けなくなった。現在から目を背けて、過去に埋もれた誰かを、思い出を、絆を――追い求めていたんだ」
「…………」
「何かを憎むのは簡単だ。僕は自分を憎み、さくらを殺した人間を憎み――でも、そこからは何も生まれなかった。僕はどこにも行けなかった」
「…………」
「だけどね。本当にその思い出や絆は、過去だけのものだろうか。かつてそうであった形を、そのまま保っていないといけないのだろうか」
「それは、どういうことだ?」
 壬は徐々に呼吸を落ち着ける。燐が何を言いたいのか、自分には分かる――いや、本当はずっと前から分かっていたような、そんな気がしていた。
「昨日、君も朔を見ただろう」
「さく?」
 鸚鵡返しにつぶやいてから、あの少年のことだと思いつく。桜色の髪と琥珀の瞳。そういえば、彼は――。
「お前の子供だ、と言っていたな?」
「うん」
 燐の声が急に照れを含んだようなものになった。
「僕の息子なんだ。三年前に生まれて、三年前に死んだ」
「え?」
 壬は燐の顔を見た。途端に彼と目が合って、泣き顔を見せてしまったことに羞恥を感じる。
「白虎が、魂をひとがたに封じたんだそうだ。だから彼はひとでもあやかしでもない。それでも」
 燐の顔がくしゃくしゃに歪む。――彼も泣いていたんだということに、壬はようやく気がついた。
「それでも、僕は嬉しかった。さくらとの絆は、切れていなかったんだ。形を変えて、今にちゃんと繋がっていた。過去は忌まわしいだけのものじゃなかったんだ」
「…………」
 壬は呆然と燐を見つめる。燐は何かに憑かれたように喋り続けた。
「過去から切り離されて、ひとりきりになってしまうのは寂しいよ。それは僕だって良くわかる。でもね。それは自分で閉じこもっているだけなのかもしれないんだ」
「…………」
「桔梗ちゃんは、確かに君の知る『御子』ではないかもしれない。でも君と同じ水龍族であることには変わりない。その絆を、君は大切にできないかい?」
「……けど、俺は」
「紫苑を許せない?」
 壬は黙ったまま歯を食いしばる。
「それは、君が現在よりも過去にこだわっているからだよ」
「しかし……俺は」
「君がそうして過去にしがみつき、現在から目を背けている限り」
 燐はきっぱりと言った。
「孤独になるのも仕様がないことだ。だって、皆の時間は動いているのだから」
「…………」
 壬は無言で目を伏せた。燐の言っていることはわかる。わかりすぎるくらいわかっている。それでも、胸に燻るこの感情をどうしたらいいのか分からない。
「俺は……」
 ぐっと拳を握った。
「俺は……!」
 からり、と帳が開いて朔が姿を見せた。腕に猫の姿をした白虎を抱いている。
「父上、壬さん。お話中のところすみません」
「構わないよ」
 温和な声。燐は「父親」の表情をしていた。壬はその横顔を見るでもなしに眺める。
「紫苑さんが目を覚ましたとのことです」
「そう、良かった」
 燐は破顔する。朔も嬉しそうに微笑んだ。猫が喉を鳴らす。
 ――話をしよう。
 その声は直接頭の中に響いてきた。
 ――お前の弟のいる場所は、少々特別な場所なのだ。
「特別な……?」
 壬がつぶやく。
 ――ああ。
 白虎は続けた。
 ――それは、玄武の巫女の治める地。
「玄武の、巫女……?」
 つぶやく燐の言葉に、朔のすっとんきょうな声が重なった。
「ええっ?! それって……」
 ――出雲の国。巫女の名は、上宮(かみのみや)(すばる)
「知り合い?」
 尋ねる燐に朔は頷いた。
「うん。一度しか会ったことないけど、変わったひとだったよ」
「へえ」
 燐は軽くうなずく。所詮自分には関係ないことだ、という気分が強かった。――このときは、まだ。