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父の巻 第三章

  一

 藤原蓮が復調して再び出仕したのと、その噂がどこからともなく囁かれ始めたのは、ほぼ同時のことであった。
「……燐さま」
 ちょうど退出しようとしていたところに声を掛けられ、燐は振り向く。彼をそのように呼ぶものは一人しかいない。乳兄弟である遠野有平である。
「久しぶり」
 燐は微笑むが、有平の表情はどこか強張っていた。
「復官なさいましたこと、おめでとうございます」
「ああ。それは紫苑のお陰だ」
「…………」
 ぴくり、と有平の肩が震えた。燐は訝しげに彼を見つめる。
「どうかしたの?」
「お話がございます」
「何の話? 大事なこと?」
「ええ……」
 有平は辺りをうかがうようにしてから、小声で囁いた。
「貴方さまのご友人は、私にとっても大切な御方なれば……」
「…………」
 ――紫苑のことか。燐は合点して頷く。
「分かった。君の屋敷に連れて行って欲しい。話はそこで」
「承知致しました」
 燐は自分の乗ってきた牛車の童に何事か告げた。顔立ちの整った、それでいて無表情な童はこくりと素直に頷いて牛を引いて帰っていく。
「あれも……」
「そう。式神だよ」
 燐は有平の胸のうちを読んだように応えた。
「若竹の精霊さ」
「若竹の……」
「つまり筍、だよね」
 燐はくすりと笑った。
「折角裏庭に生えているのに、彼は食べないんだよ」
「そうですか」
「町で買ってくることはあるんだけど……」
「どなたが?」
「奈々子さん――あ、いや彼女も式神なんだけれど。そういえば前は若竹が買いに行っていたなあ」
「筍が、筍を買いに……?」
「何とも言えないよねえ」
 燐はくすくすと笑う。有平は表情豊かになった彼を慶ぶと同時に何ともやりきれない心地を抱え、嘆息を静かに噛み殺した。
 
 
  二
 
「兄上」
 伴雅の額から一筋の汗が流れ落ちる。まだ夕暮れ時からは肌寒くなる季節だというのに、向かい合う雅哉もじっとりと汗ばんでいた。ふたりの席の間に置かれた紙の束。それは蓮が謎のあやかしから受け取ったというものだった。藤原邸の奥、誰も近づかないように命じて彼らは額をつき合わせている。
「これは本物なのでしょうか」
 伴雅の声がかすかに震える。
「分からぬ……が」
 雅哉はつぶやいた。
「父上にこれらを見せたところ、筆跡はまさに先帝のものであると仰っていた」
「ということは……」
「早合点するわけにはゆかぬが」
 雅哉はため息をつく。
「……可能性は高い」
「お上はまだ」
「ご存じない」
「しかし噂になっております」
「一体どこから」
 雅哉が気色ばんだ。
「お前か。蓮か」
「いえ」
 伴雅は一瞬口ごもり、
「そうではありませぬ。どうやら蓮にこれらを渡していったあやかしが、何人かの公達にも接触しているようで――」
「……そうか」
「我々がこの書簡を持つと知る者は居らぬようですが」
「知られればただでは済むまい」
 雅哉はため息をつく。
「今上のお耳に入ったら何とするか……」
「…………」
 伴雅は沈黙した。雅哉はまるで独り言のようにつぶやく。
「まさか彼が――先帝の忘れ形見であったとはな……」
「しかし、まだそうと決まったわけでは」
「だがそう考えると様々なことの辻褄があうではないか」
 兄の言葉に伴雅は再び息を呑んだ。
「これらは、伊達や酔狂で偽造できるものでもあるまい」
 このような上質な紙を自由に使用できる身分の者など、そうはいない。
「それにしても」
 伴雅は眼を細めた。
「蓮にこれを渡したあやかしは……何者なのでしょうか」
「特徴を聞いたとき、私は水龍族の者かと思ったが」
「しかし、男だということでした」
「ああ。無論、彼のところにいるあやかしとは別の者だろう」
「ええ……」
 伴雅はあの美しく残酷なあやかしの姿を思い出し、小さく身震いした。射るような冷たい氷の眼差しと、月の光を梳いたような銀髪、血の色を宿し、言葉の刃を放つ唇。――彼のために、この世の秩序を乱さぬと誓った者。
「どうしたものだろうな……」
 既に夕闇が帳から侵入してきている。目の前に積まれた紙束を眺め、ふたりはどちらともなく嘆息を洩らした。――これは封印されているべき秘密だったのだ。雅哉は思う。真実を曝露したところで、何もいいことはない。きっと誰かが傷つくだけだ。
「一番傷つくのは」
 伴雅がぽつりとつぶやいた。雅哉ははっと彼の顔を見つめる。
「彼なのかもしれませんね……」
「…………」
 雅哉は言葉もなく、視線を床に落とした。
 
 
  三
 
 夕餉の支度が済んだ頃、桔梗は燐の部屋を覗いて首をかしげた。
「あれ、さっき牛車が戻る音がしたのに」
「ああ、燐なら伝言があった」
 紫苑は彼女の背後に立ち、
「どうやら今日は遅くなるらしい。夕餉も済ませてくると聞いた」
「何か御用ですか?」
「幼馴染のところに立ち寄るんだそうだ」
「おさななじみ……?」
「燐の乳母が彼の母親だったそうだ」
 紫苑は桔梗の手を引き、その場を離れる。
「…………」
 桔梗はつかまれた手に視線を落として軽く顔を赤らめるが、黙って彼の後に従った。中庭に面した廊を静かに歩んでいくふたり。空は既に夕焼けの色を残していない。
 桔梗はふと思いつき、尋ねた。
「そういえば紫苑には、乳母って……」
 紫苑は不意に立ち止まる。勢い余った桔梗は彼の背中に頭をぶつけた。
「ご、ごめんなさ」
「私は」
 紫苑は独白のようにぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「物心つくまでのことを何も知らぬ……」
「…………」
 ――しまった、と桔梗は唇を噛んだ。幼少の頃のことで、紫苑にいい思い出などあるはずがない。父は誰かも分からず、母とは引き離された。引き取られた後も義父に疎まれ、義母に拒絶され――乳母がいたとしても彼の存在を受けて入れていたとは思えない。
「ごめんなさい」
 もう一度謝って桔梗は背後から彼に腕を回した。言葉は先ほどと同じだが、意味は違っている。そのまま、ぎゅうっと抱きついた。
「…………」
 紫苑の手がぽんぽん、と彼女の手の甲を叩く。彼女の気持ちはわかっている、とでもいうようだった。
「お前が何も気にすることはない」
 その声は穏やかで、桔梗はほっと息を付く。
「済まなかったな」
「いえ、そんな……」
 ――にゃあ。
「……え?」
 突然足元から響いた声に、二人は目を丸くした。
 にゃあ。再び鳴き声。そして、ごろごろと喉を鳴らす音。
「えっと……」
 桔梗の足に一匹の白猫が体を擦り付けていた。
「やあ、すみません」
 澄んだ少年の声。中庭の方角からだった。警戒することも忘れ、ふたりは視線をその声の方角へと向ける。子供が、中庭に立っていた。
「――――!!」
 紫苑は驚いて息を呑む。同時に背中にへばりついていた桔梗を剥がして身構えた。少年はにこにこと紫苑を見つめている。
「その猫、僕のなんですよ」
「そ、そうなんですか」
 桔梗は特に緊張する様子もなく猫を抱き上げる。何となく見覚えがあるような、懐かしい気配がした。
「……誰だ?」
 紫苑は低い声で尋ねる。
 少年はその琥珀色の瞳をゆっくりと細めた。健康的に焼けた肌を彩るのは細い桜色の髪。肌に文様はないが、それでもその特徴がひとのものでないことは明らかだった。
「貴方が御門紫苑さんですね」
 少年はひと懐っこい笑みもそのままに彼に近付いてきた。紫苑は戸惑いながら、警戒は緩めない。
「はじめまして」
 にゃあ。桔梗の腕の中で、猫が鳴いた。
「僕、父に会いに来たんです」
「父親、だと?」
 紫苑はあっと声を上げた。
「まさか……」
 その桜色の髪には見覚えがある。彼の風貌も、良く見れば誰かの面影を強く宿していた。 
「燐と、さくらの……?」
 紫苑の声がかすかに震えた。少年は笑みを消し、頷く。
「僕は、橘燐に会いに来たんです」
 彼ははっきりと、そう言った。