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父の巻 第七章

  一
  
「お前、誰だ?!」
 壬の誰何の声に、少年はきっとした眼差しを向けた。
「あなたこそ、ここで何をしているのです」
「何を……って」
 壬の全身を揺らめくような殺気が覆った。
「お前には関係ないだろう!」
「関係あります」
 少年はその小さな背中に燐を庇うようにして立つ。
「僕は」
 燐は信じられないような思いで、その言葉を聞いた。
「橘燐とさくらの――ひとり息子ですから」
「え……?」
 声を上げたのは燐と壬、同時だったかもしれない。燐はあっけに取られて少年を見つめた。確かに彼の髪は淡い桜色で、それは記憶にある彼女のものと変わらない。面差しは燐に似ていて、確かに無関係ではあり得ないだろう。けれど――。
「で、でも、君はどう見たって」
「計算が合わないのは知っています」
 少年は振り向いて微笑んだ。その微笑みに、燐はまた言葉を奪われる。気がつくと、彼の目からは涙が流れ出していた。
 信じられる。理屈ではなく、こころで。この少年は間違いなく彼らの子供だと……。
「名前を、教えてくれないか」
 少年はうなずいた。
「母さんが、考えていた名前だそうです」
「さくらが……?」
 燐の目から新たな涙が溢れた。
「それは、何というの?」
「朔」
「さく?」
 朔――それは新月を意味する言葉。
「僕らが出会った、夜……」
 燐はつぶやいた。確か、彼が山の中で迷ったのは新月の日だったはずだ。月のない夜に道を隠されたお陰で、彼はさくらに出会えた……。
「朔――」
「親子感動のご対面ってか?」
 無骨な声が空気を乱す。
「…………」
 朔は再び険しい顔になって壬に向き直った。
「確か、その男の妻はあやかしだったんだろ?」
 壬の目に細い光が宿る。
「あの男とお揃いの、半妖ってわけか?」
「いいえ」
 朔ははっきりと言った。
「僕はあやかしでもひとでも、まして半妖でもない」
「何……?」
「僕は……」
 彼の傍らに一陣の風が巻き起こった。目を細める燐の前にすっと音もなく立ち上がる白い巨大な虎――否、燐とて虎の実物を見たことがあるわけではない。それは壁画として、絵画としてしか見たことがなかった。大抵それが描かれるときは四聖獣の一として、朱雀や青龍らとともに並べられる。
「白虎……?!」
 壬が戦慄の表情を浮かべた。
「何故、……何故!」
 ――この者は一度死した。
 その言葉に、燐の体が震える。やはり、あの時にわが子は死んでいたのだ。それでは今目の前にいる少年は、一体……?
 ――だが、我がその魂を拾い、かりそめの体を与えたのだ。
「……そ、それじゃまるで……」
「ひとがた――?」
 壬と燐が交互につぶやく。
 壬は目の前に立つ神獣の気配に呑まれていた。つやつやと輝く白銀の毛並みも、黄金色に輝く瞳も、どれもあまりに神々しい。何よりも厳しいのに、何よりも優しく暖かな気配。それは、桔梗の中に眠る青龍と相対したときと同じだった。
「それでも僕は」
 朔ははっきりと言った。
「生きている。今までも、これから先も」
 その言葉が、燐の頭の中に大きく響いた。――生きている。生きていく。僕にはそんな覚悟はなかった。僕の時間は、さくらを失った時で止まったままだった。僕は生きているわけでも、死んでいるわけでもなかった。せっかく彼女に助けられた命を、無駄にくすぶらせ続けていたのだ……。
「朔」
 燐は口を開いた。
 少年が一瞬だけ振り返る。その表情はとても子供らしいもので、父親に何を言われるのかという期待と不安が見え隠れしていた。――愛しい。燐は微笑んだ。
「ありがとう……」
「…………」
 朔はぽかんと口をあけた後、顔を真っ赤に染めた。
「そ、そんな、ぼ、ぼ、ぼく」
「いい加減にしろ!」
 壬の怒声が辺りに響き、そして夜空に爆音がとどろいた。奔流が押し寄せる。それは水のようでいて水ではなく、触れれば切れてしまいそうな、それでいて崩れ落ちてしまいそうな脆さを併せ持っていた。それでも勢いはとめどないもので――。
 壬の力が到達する前に、朔は白虎に何か言おうとした。しかしその前に、それはすっ、と掻き消えてしまう。
「え? え?」
 朔が目を瞬かせる。白虎が苦笑する気配がした。
 ――やはり来たか。
「元はといえば同じ一族の者なのですから」
 涼やかな声。
「放ってはおけません」
 やや子供じみた正義感を滲ませながら、それでも少しも揺れることはない。まっすぐな眼差しが、壬を射た。
「久しぶり――壬」
 桔梗の声は、どこか悲しそうな響きを宿していた。
 
 
  二
  
 桔梗の側には紫苑が立っている。ちょうど壬と朔たちの中間地点の左方。桔梗は先ほどの壬の力を手のひらの中に球状にして抱えていた。その液体の内側を荒れ狂う壬の妖力。だが、桔梗はこともなげにそれを制御している。
「御子――」
「御子じゃない」
 桔梗は間髪入れずに言い放つ。
「私の名は桔梗だと、何度言ったらわかってもらえるんですか?」
「わからねえ……わからねえよ!」
 壬は叫んだ。先ほど一気に力を放出したためだろう、足元は少しばかりふらついている。それでも爛々と輝く目は紫苑を睨みつけていた。
「結局、その男はひとの側で生きているんじゃないか!」
「…………」
 紫苑は黙って壬を見つめていた。ひとの側だとか、あやかしの側だとか、それは既に彼にとっては意味のないことなのだ。彼はどちらにもなれない。そのことは良く分かっている。だから、大切なのは――。
「私は」
 紫苑は桔梗の肩に手を触れた。
「桔梗が望むのならば、ひとの世を捨てよう」
「…………!!」
 桔梗の体が驚きで小さく跳ねた。
「どこで生きていくかは問題ではない。誰と生きていくのかが――問題なのだ」
 紫苑はあくまで静かに言葉を紡ぐ。
「私には誰もいなかった。だから今まではひとの世にいたのだ。曲がりなりにも、育ての親がいたからな」
「じゃあ、あんたは」
 壬は鋭く尋ねた。
「もしひととあやかしが争うようなことがあればどうするんだ」
「…………」
「あんたはひとを殺せるのか。あんたは」
 指が燐をまっすぐに指す。
「あいつを殺せるのか」
「…………」
 紫苑は目を伏せた。
「それは……」
 ――殺せるわけがない、と紫苑は思う。だがそれはひとに限ったことではない。あやかしとて殺したくはない。正気を失い、もののけとなった者たちは別だ。それは既に命の残滓にしがみついている死者であり、生前ひとであったかあやかしであったかは関係がない。
 紫苑が誰かの命を奪おうと決意するのは、彼自身の生命が危険に晒されたときだけ。それはさすがに仕方がなかった。大人しく殺されても、何も良いことはない。
 だが、今の壬がそれを冷静に聞き、理解できるとは思えなかった。だから、一言だけ。
「私は、殺さない」
「奇麗事だ!」
 壬は叫ぶ。
「ひととあやかしは共存できないんだ! どちらかがいなくなるまで――殺しあうのが運命なんだよ!」
「そんな馬鹿げた運命は知らない」
 紫苑が答える。
「それに、運命など――私は信じない」
「…………」
 桔梗が微笑む。それはかつて紫苑が彼女に語ってきかせたこと――運命になど従わない。ただ、彼のしたいようにするだけだと。
「ぐっ……」
 壬は血走った目で紫苑を睨む。彼を包囲するのは実質、四聖獣の三だ。桔梗に眠る青龍。朔を守る白虎。そして、紫苑に従う朱雀。
「勝てるわけねえよな」
 壬は哄笑した。腹がよじれそうなくらいおかしかった。そうだ。自分は彼らには勝てない。どうやったって彼を殺すことなどできない。しかし――。
「いいことを教えてやるぜ」
 壬は紫苑を見据えた。冷たい愉悦の色を見て、紫苑は一瞬戦慄する。燐ははっとした。
「紫苑!!」
 壬が何を言うのか、彼には予想がつく。聞かせたくなかった。紫苑には、絶対に――。
「あんたの父親は、先の帝なんだよ」
 壬は勝ち誇ったように、そう言った。