instagram

父の巻 第一章

  一
 
 夜半過ぎ。ふと目が覚めて桔梗は身を起こした。隣りで行儀良く仰向けで眠っている紫苑を見つめ、小さく微笑む。以前壬の罠にかかり全身に負った傷は、既に癒えていた。
「…………」
 桔梗は軽く自分の手で胸元を押さえる。――ずっとここに眠っていたもうひとりの自分。四霊獣の一、青龍を御してきた人格。今はもうこの心の中に溶けてしまって、何故か少し寂しい……。
「桔梗」
 背中から呼びかけられた声に、桔梗は驚いて振り向いた。月明かりに照らされて、紫苑が目を開いているのが見える。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたよね」
「……いや」
 紫苑はふ、と口元に笑みを浮かべた。
「構わない」
 桔梗はもそもそと寝床に潜り込む。
「狭かったか?」
 紫苑に尋ねられ、桔梗は首を横に振った。
「いいえ」
 骨張った腕に自分のそれを絡みつかせる。
「ここで寝かせてほしいって言ったのは、私ですから」
「夏になったら、きっと暑苦しいぞ」
 笑みを含んだ口調で言うが、桔梗は優しい笑みを浮かべ再び首を横に振った。
「大丈夫、涼しくしますから」
「できるのか?」
「私は水龍の御子ですよ?」
 水は温度によって形を変える。氷も雪も霜も、結局は水であり彼女の支配下にある。桔梗はきっとそのことを言っているのだろう。そういえば、彼女の手は少しひんやりとしている……。
「便利だな」
 紫苑は笑う。桔梗は頬を彼の肩に当て、囁いた。
「だから、冬は紫苑が暖かくして下さいね」
「ああ」
 鳳凰族の血を引く彼の力でもって、火鉢の火を保てというのだろうか。ただ部屋を快適に保つためとは、妖力の無駄遣いのような気もする。紫苑はくすりと笑い、腕を彼女の体に回す。桔梗はなされるがままに彼の胸元に顔を寄せた。
 紫苑はふと、小さくつぶやいた。
「これから……何度の夏と冬を共に過ごせるんだろうな」
「え?」
「ひとりは、嫌だ」
「…………」
 桔梗は目を瞬かせた。――もしかすると紫苑は寝ぼけているのかもしれない。
「もう、ひとりになるのは嫌なんだ……」
 紫苑は独り言のようにつぶやきながら、桔梗の長い銀髪を撫でている。
「……紫苑」
 桔梗は両腕を彼の背中に回した。やや薄い肉付きの、ごつごつとした背中。ゆっくりとその形を指先でなぞる。
「紫苑はひとりじゃありませんよ」
 桔梗は優しくつぶやく。
「絶対に、ひとりになんてしない……」
 最近思う――どうして自分は昔の記憶を棄ててしまったのだろう、と。かつて、自分は全てを失った。家族も、一族も、何もかも。だが、彼女にはその記憶がほとんどない。青龍と融合を果たした今も……ぼんやりとしか思い出せない。しかも、それにはほとんど痛みが伴わない。
 ――そうか。桔梗はふと悲しい笑いを洩らした。憶えていたら、辛いから。
 人間によって彼らの集落が攻撃されて間もなく、彼女は青龍の力を借りてその場を脱出した。そして、あの場所――紫苑と初めて出逢った場所で、永い眠りについた。何故神獣が水龍を救わなかったのか、その理由も今の彼女にはわかっている。――それが彼らの運命だったからだ。水龍という種族の、運命。それに干渉することは青龍にはできなかった。ひどく残酷で、けれどそれが神にも等しい力を持つ者の定め。彼女が記憶を失ったのは、おそらく青龍がそう計らったからだろう。
 ――それで良かったのか?
 ふと、胸のうちから投げかけられる疑問。彼女の中に融けた青龍の言葉だろうか。
「…………」
 桔梗は再び眠りについた紫苑の顔を見上げた。穏やかな表情。口元はかすかに緩んでいる。そして、彼女の頭を胸に抱え込んで離そうとしない。
「私は……」
 桔梗はつぶやいた。
「『桔梗』は、あの時生まれたんだ……」
 あの日から、彼女の生は再び始まった。まるでかつての自分を脱ぎ捨て、新しく生まれ変わったように。桔梗にとってはそれが事実だ。青龍に良かったのかと尋ねられても、それに答える術はない。
 ――御子。
 ひとりの男の顔が、脳裏をよぎった。彼女と同じ水龍族の……若者。一緒に行くことはできない、と言った彼女を悲しげな瞳で見つめていた。紫苑に手を出したことは許せなかったが――それでも命を奪う気にはなれなかったのは、あの目のせいかもしれない。どうしようもない孤独がそこにはあった。けれど、彼女にはどうすることもできない……。それは運命でも何でもない。ただ、彼女は紫苑を選んだ。他の選択肢などないも同然だったのだ。彼は今どこにいるのだろうか、と桔梗は不意に思った。
 ――不意に月が陰った。桔梗は僅かに視線を動かして、御簾を見つめる。
「雨に、なりそうですね……」
 一刻後、しとしとと雨が降り始めた。だが眠りに落ちたふたりは、それに気付く由もなかった。
 
 
  二
  
 雨が川面を叩いている。
 賀茂川と高野川が合流する地にある下鴨神社。国と都の守り神として、また皇室の氏神として、特別の信仰を受けているその神社の、本殿の屋根の上。闇と滴に紛れて不審な影があった。影のかたちはごく普通の若者である。だが、それは間違いなくひとではなかった。鋼色がかった銀の髪、濃い藍の目。尖った耳と肌に描かれた文様はあやかしの特徴である。
 それは、壬だった。濡れるのもお構いなしに、ただじっと御所の方角を見つめている。
「やっぱり、俺には入れないな」
 ぼそぼそと彼はつぶやいた。
「強力な結界が――あの男が張ったのか?」
 眉を寄せる。尖った顎からぽたぽたと水滴が落ちた。
「そういや残りの神獣は今、どうしているんだろうな」
 ――神獣がこの地上で集うわけにはいかぬ。どんな事情があろうとも。
「『だが、地上に生きる命の形を取れば――もしくはその者と契約を結べば、可能になる』」
 壬はかつて聞いた言葉を、繰り返し言った。
「朱雀と青龍はこの地に降り立った」
 西の方角を眺め、やがて北の方角を見る。
「残るは白虎と玄武……か」
 ――それにしても何のために。
 不意に体の芯に寒さを感じ、壬はぶるりと体を震わせた。底知れぬほど深い深淵をふと覗き込んだような気がしたのだ。
「まあ、いい」
 彼は強張った頬に無理やり笑みを浮かべる。
「今は……あの男のことだ」
 ――俺はまだ諦めない。拳をぎゅっと握った。
「もう、ひとりでは生きていきたくない……!」
 雨粒が彼の頬を濡らす。それはまるで、涙のようだった。
 
 
  三
  
 ――はあ、はあ、はあ。
 少年の荒い息が洞にこだまする。
「いきなり雨が降ってくるなんて、聞いていないよね」
 にゃあ。足元で鳴く白い猫を見下ろし、ふう、とため息を吐いた。ぶるるる、と猫は身震いをする。滴が飛び散り、少年はかすかに顔を顰めた。
「それにしてもさ、急にどうしたの? 今まではあんまり都に近付くなって言ってたのに」
 にゃあ。猫はただそう鳴くだけだが、少年はうんうんと頷いた。
「そりゃ僕も嬉しいけどね。お父さんに会えるんだもの」
 彼は濡れた顔を上気させる。
「どんなひとなのかなあ、お父さん。いきなり会いに行って驚かれやしないかな」
 にゃあ。猫はそ知らぬ顔で天井を見上げている。
「何よりもさ、僕がこんなに大きいとびっくりすると思うんだよね」
 闇の中できらりと光る利発そうな目は、琥珀色をしていた。
「僕ってどう見ても十ニ、三歳だけど……本当は三歳くらいなんだもの」
 にゃあにゃあ。猫は僅かに長く鳴いた。少年はそれに答えることなく地面に座り込む。
「とりあえず今夜はここで過ごそう。疲れちゃったし」
 にゃあ。猫は目を細めた。既に地面に丸まって眠りにつこうとしていた彼の体を、ふんわりとした白い何かが包み込む。それは風を集めた――つまり、空気を凝集させて作った即席の寝台であった。
「おやすみ、とら……」
 少年はつぶやいた。とらと呼ばれた純白の猫は、少年の足元に丸くなる。
 ――外では雨音だけが世界を支配していた。