水龍の巻 第四章
一
気がつくとそこは水の中だった。以前川の中に落ちたときと同じように、息苦しくはない。まわりできらきらと輝いているのは、漂う泡だろうか。はるか頭上の水面から光が差し込み、桔梗の裸体を白く浮き上がらせた。
ここ数週間ですっかり丸みを帯びた彼女の体躯は、しなやかに揺れている。伸びた手足を掻き分ける水流が心地良かった。
「ここは……どこ?」
戸惑いつぶやくと、彼女の足元の方にふっと巨大な影が現れた。
――ここは私の住む世界。
厳かな声。青い鱗が燦然とした光を放つ。それは竜だった。顔と尾が何処にあるかも分からないほど巨大な神獣。
「あなた、誰?」
桔梗が尋ねると、その声は頭の中に直接響いた。
――お前の中に宿った魂。もう一人の「桔梗」……。
そう言って竜は苦笑したようだった。
――困ったものだな。私までがあの男の与えた名前にこだわるとは……。
「あの男って……」
――御門紫苑。そういう名であったな。
「…………」
桔梗は唇を噛み締めた。激情のままに屋敷を飛び出してしまったことを思い出し、そういえばそれから後の記憶がないことに気付く。
――案ずるな。今お前の体は私が預かっている。
「どうして」
――魂の融合が果たされるまで、私とお前とはひとつの体を共有しているからな。
「…………」
それとなく気がついてはいた。自分の中にいるもうひとつの人格の存在。
「あなたがそうだったんだね……」
竜は優しげに体を揺らした。
――私の力は大きすぎて、水龍と言えど扱うには大きな負担が掛かる。そのために創られているお前の体とはいえ、幼体では無理だった。
「もう私は大人だよ……」
自分で自分の体を抱くようにしてつぶやいた桔梗に、青龍は同意する。
――そうだな。その時がくれば……私はお前の中に溶けて永遠の眠りにつくことにしよう。
「その時? それはいつ来るの?」
――いつでも。お前が望む時に。
「私が……?」
桔梗は分からない、というようにかぶりを振る。長い銀髪がゆらゆらと泳いだ。
「私……私ね」
独り言のように、彼女は言った。
「紫苑が好きなんだ。本当に大好きなんだ」
――ああ……。
「最初は少し近寄りがたいような気もしたけれど、でもそれは寂しさの裏返しで」
いずれ失う時のために情は残したくないと、そういうことだったのだ。
「いつでも出て行っていいなんていうから邪魔なのかって思ったけど、全然そんな様子もないし」
いつまでも一緒にいられるような、そんな気がしていた。毎日一緒にご飯を食べて、話をして……寒い日は体を寄せ合って眠って。彼の腕の中で守られていた日々――それをずっと繰り返せると思っていた。
「だけど、きっと紫苑はずっと悩んで……」
無邪気に慕う自分と、紫苑の身に流れる血と、そして彼とは相容れない世界。縺れて解けない糸は時を重ねるごとに頑ななものになっていって――そして壬が現れた。
「あの人が現れて、私は大人になるんだって思った」
桔梗は唇から生まれる泡をぼうっと見上げた。それは点々と連なって水面へと溶けていく。
「あのひとは私と同じ水龍族。だけどそんなことは私にとってはどうでも良くて……」
記憶がないということは、つまりそういうことだ。水龍族にはほとんど何の愛着もない。
「このまま紫苑と一緒にいられるかどうかの方が大事だった。……ううん」
言ってかぶりをふる。
「それだけじゃない……」
紫苑に望まれたかった。共に歩いていくことを。
――あの男は……。
青龍はごぽり、と泡を吐いた。
――自らの体に流れる悲劇の血を知ってしまった。
人間である父とあやかしであった母。母は息子と引き離され狂気のうちに死んだ。父の正体は相変わらず知れない。
――そして、あの燐という男。
あやかしであった恋人を失い、燐がどれほど悲しんだか。自分と同じ人間たちに最愛の存在を奪われ、自らをも憎んだ彼の姿は未だ記憶に新しい。
――異種族で道を共にしようとしたものたちには、必ず悲劇が訪れている。
「…………」
――ただでさえあの紫苑という男の立場は複雑だ。それを思えば彼も慎重にならざるを得ないのだろう……。
「血を、残せないって」
桔梗はぽつりとつぶやいた。
「子供が作れないんだって言っていた」
――ああ。
「それってやっぱり大きなこと……?」
――そうだな、一般的にはな。
青龍はあっさりとそう言った。
――生命は自らの血を継ぐものを生み出すために存在している。
「…………」
桔梗は目を伏せる。
――だが、
青龍は言葉を続けた。
――生命の存在理由はそれだけとは言えまい。
「え?」
――それは生ける者が自分の意志で決めれば良いこと。そうではないか?
「…………」
――生の意味を限定するなど愚かなこと。
青龍は苦笑したようだった。
――それを私に教えたのはあの男なのだがな……。
『私はお前に呼ばれた。だから出会ったのだ。運命に呼ばれたのではない』
「…………!!」
桔梗は顔を上げて息を呑んだ。
――彼はこうも言ったな。
青龍は紫苑の言葉を告げる。
『私は私のしたいように生きてきた。これからもずっとそうだ。だから……』
――お前もそうしろ、と。
彼女の頭の中で、その言葉は大きく響いた。
「……したいように」
桔梗は鸚鵡返しにつぶやく。自分の望みは何だろう、と桔梗は考えた。確かに自らの子供を生むことができれば、それはとてもとても愛しいだろう。だが、それは紫苑の子供でなければ意味がない。あの美しい紫の眼と、艶やかな黒い髪。どこかひとつでも似ていればいい。それが叶わぬのなら子供など要らない。紫苑さえ居ればいい。
「私は……」
つぶやきかけたところで、水面から声が轟いた。
「あの男は、もうすぐ死ぬんだからな」
二
「どこの手のものなのだろうな」
紫苑はつぶやく。宮中に参内して帰る途中、気がつくと結界に閉じ込められていた。――迂闊だった。臍を噛む思いである。いくらこころここにあらずであったとはいえ、事ここに至るまで気がつかなかったとは。結界を張った術者はここにはいないらしいが、紫苑ほどの力を持つ者を簡単に引き込めるとも思えない。ということは……。
「壬、かもしれないな」
苦笑が漏れる。――私を亡き者にしたところでどうにもならぬのに。
自らの手を汚そうとしない理由は良く分からないが、水龍の殺性を鑑みるにその思考は特に理解できないものでもない。邪魔者は取り除く、そういうことなのだろう。
今日は焔を連れていないが、彼は――朱雀は、この結界に気付いてくれるだろうか。
良く気をつけてみれば、この結界は用意周到に張り巡らされていた罠だということがわかる。緻密な作りは、急拵えで何とかなる程度のものではない。視線を上げるとそこには数多のあやかしたち。もののけとは違って理性的な眼をしており、つまり彼らは自分たちの意志で彼を襲おうとしているということだ。水属の者たちが多いのは、壬が水属の長に立つ水龍族のものだからだろうか。
「まあいい」
紫苑はつぶやいた。
「私が守らなければならなかったものは……もう、この手にないのだから」
幼い桔梗を、自分が守ってやらなければ。そう思っていたときならば、意地でも死にたくないと思ったことだろう。しかし、今は違う。桔梗はもはや幼くない。そして彼女には青龍の魂が宿っている。彼が守らなくとも、彼女は十分生きていける。誰も、彼を必要とはしていない。
「だが」
紫苑の瞳に赤い色の炎が燃え上がった。
「むざむざ殺されるのは癪だからな」
懐には数多くの呪札が用意されている。――これが尽きるまでは、戦える。
「いくぞ」
紫苑が気迫を吐き出すと同時、あやかしたちは一斉に彼に襲い掛かった。
三
「どういうことだ!」
悲鳴に近い声で「桔梗」が壬を詰る。壬は険しい表情で彼女の視線から眼をそらしていた。
「何故、紫苑を」
「いい加減にしてくれよ!!」
壬は叫んだ。一瞬驚いたように硬直した「桔梗」の肩を掴み、揺り動かす。
「あいつは半妖だ。しかも人間側にいるんだ。俺たちの一族を滅ぼしたのは人間、仇なんだよ!!」
「…………」
「何でそんな奴と生きていこうとするんだ!」
壬はその藍の瞳を沸騰させ、そこからは次から次へと雫が零れ落ちた。
「俺のことが嫌ならそれでもいい。だけど――だけど人間だけは、許せねえ! 許せねえんだよ!!」
「…………」
「桔梗」は静かに顔をあげた。
「言いたいことはそれだけか?」
「――――!!」
壬は息を呑む。
「桔梗」の髪がふわり、と宙に浮かんだ。その身から溢れ出した妖力が、物理的な力となって彼女を包んでいる。
「彼は」
「桔梗」は冷たく、それでいて爆発しそうな眼差しで壬を見据えていた。
「ひとからはあやかしだと蔑まれ、あやかしからはひとだと疎まれる。そうして今まで生きてきた」
「…………」
「どちらにもなれぬ。何処へいっても拒絶される」
「…………」
「友人はたったひとり。ひとによって妻を殺された男だ。ただ彼女があやかしだったという、それだけの理由で」
紫苑の屋敷で出会った線の細い男の顔を思い出し、壬は顔を顰めた。
「紫苑を受け入れることができるのは集団ではない。ひとという集団でも、あやかしという集団でも」
「桔梗」は彼女の肩をとらえていた壬の手を、強く払いのけた。
「個人なのだ。燐という個人――私という個人」
「…………」
「今お前を殺さないのは、その時間がないからだ」
「御子」
「もう一度だけ言う。私は」
「桔梗」ははっきりと告げた。
「桔梗だ」
「御子!!」
不意に、「桔梗」が膝を突いた。眼もくらむほどの閃光。壬はじり、と後退する。その脳裏に声が響いた。それは、昨日出会った桔梗の――。。
――紫苑は、絶対に殺させない。だから、そのための、力を……!
「桔梗」の肌が青く染まり、硬質の何かが全身を鎧のように覆う。
「み……御子……」
壬はつぶやいた。
――力を与えよう。
厳かな声。それはあまりに強く、壬の頭の中にまで流れ込んでくる。
――私の力を、全てお前に。
壬は悟る。彼女の中の青龍が彼女の想いを――紫苑への想いを認めたのだと。
「それでも……俺は」
壬はぎり、と奥歯を鳴らした。
「俺は……!」