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水龍の巻 第六章

  一
  
 ――そこは、暖かな場所だった。柔らかな温度と、ゆったりとした時の流れ。何者にも傷付けられることのない世界。自分だけのための世界。光のない世界――胎内。
 やがて眠りは妨げられ、彼はいつの間にか外界へと押しやられていた。手探りで進んだ先は苦しくて眩しくて、泣き喚く。
「おお、よしよし」
 抱いてくれるのは自分ではない存在。母親。紅蓮の髪、紅玉の瞳。笑顔。――でも、泣いている。
「おのこか」
 ぽつりとつぶやかれた低い声。男の声だった。
「殺してしまうおつもりですか」
 母の声がわななく。男は少し黙り、やがて口を開いた。
「できぬ」
「…………」
「だが」
 言葉が苦しそうに搾り出される。
「我らの手で育てるわけにもいかぬ」
「この子が生きていくためなら」
 母は語調も強く詰め寄った。
「どのような事にも耐えてみせましょう」
「……私とて、この子が愛しくないわけがないのだ」
 男は母を宥めるような口調で言う。
「初めての吾が子なのだからな」
 ――父上? ぼんやりとした視界の中、男の顔が近付く。
「辛い運命を背負わせてしもうたな」
「……それでも」
 母は力強く言った。細く温かな腕が彼をかき抱く。
「生きてさえいれば」
 男の指が、彼女の涙に濡れた頬を拭った。
「生きてさえいれば、必ず出逢えます」
 ――この子を心から愛してくれる存在に。
「それがあやかしなのか、ひとなのかは分からないけれど……」
「そうだな」
 母の腕から男の腕に受け渡され、彼は居心地悪げに身を捩った。だが優しく揺すぶられ、彼はきゃっきゃっと笑い声を立てる。
「生きてさえいれば……」
 ――父上。母上。彼は眼を閉じた。顔も分からぬその男と、今は亡き母親に語りかける。
「私はきっと……逢えたのだ……」
 眩しい光。――夢が、終わった。
 
 
  二
  
 都の外れにある森。皓々と空を照らしている月明かりも地上にはほとんど降り注がない。幾重にも重なった木々の葉が、暗く頭上を覆っていた。
 ――鳥の声が不意に止んだ。後に残るのは静かな水音と、妖気。
「壬さま」
 川べりの岩に蹲る影に向け、あやかしの一人が口を開いた。
「何だ」
 殺気の滲み出るような低い声。それを聞いた者は、一瞬躊躇した後に言葉を続けた。
「あの男。蘭妃どのの血を引くとの事でした」
「蘭妃?」
 岩に触れていた手がぴくりと反応した。
「はい。朱雀をも従えていたのはそれゆえでしょうか」
「……そうか、それで」
 壬はつぶやいた。何故彼の張った結界が破られたのか。赤く染まっていた髪と瞳の意味は何なのか。何故朱雀を式神のように使役できるのか。――その理由の全てはそこにあるのだろう。
「ただの人妖じゃないってことか……」
 壬の口元を苦笑が彩った。
「いかが致しますか。再び彼を襲撃することも十分可能ですが」
「いや」
 壬は首を横に振った。
「青龍の力を受け継いだ御子が側にいる。そして、彼自身朱雀をの力を使えるのだろう? しかも鳳凰族の直系とくれば、これは少し分が悪い」
 指を軽く唇にあて、考え込む。
「蘭妃の息子……か」
 はっと顔を上げた。
「もしかすると、人間どもは知らないのかもしれないな」
「何を……でしょう」
「あいつの父親が誰なのかを、さ」
 小さく笑みを浮かべる。しかし瞳だけは爛々とした光を湛えていた。
「そりゃそうだよな……知っていたらただじゃ済まないものな」
 壬は音もなく立ち上がった。
「面白い」
 青白い光が一瞬だけ彼の姿を刷く。折しも、吹き過ぎた風が彼の衣と髪を靡かせた。
「ひとつ、やってみるとするか」
 壬はそらを仰いだ。ここからでは月の面を見ることが出来ない。
「御子」
 目を細め、桔梗の面影を脳裏に描く。
「俺は必ず貴方を取り戻してみせる……!」

  三
  
 見慣れた天井が視界に広がる。紫苑は静かに息を吸い、そして吐いた。簾から差し込む日の具合から朝なのだと知れる。
 自分のものではない小さな呼吸音に気付き、紫苑は首を回転させた。側にいたのは小さく丸まって眠っている桔梗。相変わらずのあどけない寝顔だった。
 紫苑は彼女を起こさないよう、静かに体を起こした。ところどころに痛みは走ったものの、傷跡には既に清潔な白布が巻かれている。燐だろうか。
「…………」
 黙ったままそっと桔梗の方へ手を伸ばした。白い頬に零れかかる銀髪を除け、ただ見つめる。――このまま時間が止まってもいいと思った。見慣れたはずの桔梗の造形が、何故か今はひどく新鮮に見える。青龍の魂との融合を果たしたせいなのか、それとも……。
「私の方が、変わったのかもしれないな」
 ぽつりとつぶやかれた独白。桔梗の睫毛がかすかに震え、やがてゆっくりと彼女は眼を覚ました。
「桔梗――」
 紫苑の言葉を待つまでもなく、桔梗は跳ね起きてまじまじと紫苑を見つめた。
「…………」
 唇を震わせ、頬を涙が伝う。
「おかえり」
 紫苑は優しく告げた。桔梗は紫苑の差し伸べた手をぎゅっと握る。
「……ただいま」
 何よりも愛しい温もりを抱擁し、紫苑は吐息を洩らした。――私は、生きている。
 

  四
  
 桔梗に紫苑が目覚めた旨を知らされ、燐は傷口を縛る替えの白布と共に彼の部屋を訪れた。
 紫苑はどこかぼうっとした風情で燐を見上げる。燐は安堵の色を押し隠し、敢えてやれやれ、といった表情をしてみせた。
「君が焔さんの背中に抱えられて戻ってきたときは、何があったのかと思ったよ」
「迷惑を掛けたな」
 紫苑はそんな彼の様子には構わず、穏やかに微笑んだ。
「すまなかった」
「三日間も眠り続けていたんだ」
 燐はぽつりとつぶやく。既に、彼の笑顔の仮面は罅割れていた。
「本当に……無茶をする」
「そうだな」
 紫苑は自分の髪をそっと指先で摘んだ。
「これが緋に染まった時は驚いたよ」
「え?」
「桔梗から聞かなかったか?」
 燐は首を振る。
「彼女、ずっとここにいたんだよ……眠るのも食事をするのも、ずっとここ。君が目覚めるのを待っていた」
「…………」
 紫苑は視線を落とした。
「私の中には確かにあやかしの血が流れている。そして、どうやらそれを意図的に解放することもできるようだ」
「意図的に……?」
「ああ」
 紫苑は頷く。
「私が生きるために、あやかしの力が必要だった」
 ――あのままでは殺されてしまっていた。
「そう思ったとき……この体はあやかしのものへと変化していたんだ」
「…………」
「ずっと、ひとの社会で生きてきた」
 紫苑は自分の髪を掴み、つぶやく。
「けれど私はひとではない」
「紫苑」
「それは仕方がないことだ」
 気遣うように声を掛ける燐を見上げ、紫苑は微笑んだ。
「さっき私は『あやかしとしての自分を意図的に解放した』と言ったが、逆かもしれない」
「つまり」
 燐は少し考えてから言った。
「君は『あやかしとしての自分を意図的に抑圧してきた』ってこと? この世界で生きるために」
「この世界で生きるため……それは対外的な理由だな」
 紫苑は複雑な笑みを浮かべた。
「本当は、ただ私が『あやかしとしての自分』を認められなかっただけのことだ」
「どうして認めようとおもったんだい?」
「そうだな」
 紫苑は眼を閉じる。紅の髪。緋の瞳。
「母に……出逢ったからかもしれない」
 風に乗って、食欲を刺激する匂いが運ばれてくる。燐は微笑して紫苑に言った。
「桔梗ちゃんお手製の粥だそうだよ」
 紫苑は眉を顰めた。
「あいつに料理なんてできるのか?」
「さあ……匂いはまともだけどねえ」
「…………」
 やがて運ばれてきた粥を食べ――紫苑は再び床につくことになる。彼が再び目覚めるまでには、実に二日を必要としたのだった。