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水龍の巻 第五章

  一
 
 鮮血が視界を遮る。紫苑は片膝を地面につき、宝刀を手にして荒い息を吐いていた。あやかしたちの数は半減し、辺りには数多の屍が転がっている。だが、相変わらず状況は圧倒的に不利だった。
「恨むのなら」
 あやかしたちのうちのひとりがぽつりとつぶやく。
「水龍に関わったことを恨むのだな」
「…………」
 紫苑は額を伝う汗と血の入り混じったものを拭い、同時に勢い良く唾を吐いた。それは赤い糸を引いて黒い土の上に飛ぶ。
「恨む……?」
 薄い唇が笑みを描いた。
「私は何も恨みなどしない」
 飛び掛ってくるあやかしから身をかわし、宝刀に力を込めてその背中に突き立てる。あやかしは悲鳴を上げる間もなく炎に包まれて消えた。その頃、紫苑は既に次の術を唱えている。地面が鳴動し、土の槍が生えてあやかしたちを足元から串刺しにした。だがそれをも避けたあやかしが再び襲い来る。
「これは全て私自身が選んだことの結果なのだから……」
 妖力の使いすぎで目眩がする。紫苑は歯を食いしばった。――もう、これ以上は……!
 いくら壬が裏で操っているとはいえ、これだけの数のあやかしが彼ひとりを襲いに来るなど普通ではない。
「そうか」
 紫苑はつぶやいた。
「私が陰陽師だから」
 それだけでも、あやかしにとっては十分彼を襲う理由になるのだろう。彼自身は参加していなくとも、ひととあやかしとの間で行われてきた数多くの戦争――人間側の主力は常に陰陽師たちだった。その戦いに紫苑が参加しなかった理由はただ一つ。その身にあやかしの血を宿すゆえである。――それなのに、私はあやかしたちから恨みを買っているというのか。
「ふふ……」
 紫苑の唇から笑いが漏れた。
「ふ……はは……」
「?!」
 相対していたあやかしが怪訝な表情を浮かべる。
「ははははっ」
 紫苑は勢い良く手を突き出し、素手でそのくすんだ灰色の髪を掴んだ。引き攣った悲鳴。あやかしの瞳に映った紫苑の眼は、真っ赤な血の色に染まっていた。彼はあやかしをそのまま空中に吊り上げる。
「いいだろう」
 紫苑は自分の中で何かが解放されるのを感じた。
「それならば」
 ざあ、と髪が重力に逆らってそらに立ち上る。彼を包囲していたあやかしたちの群れが一歩退いた。
「は、放せ」
 掴み上げられたままのあやかしが大きく足をばたつかせた。紫苑はそれを冷たく燃え盛る炎の眼差しで見据える。
「私は、鳳凰族の姫御子の遺児」
 紫苑はさっと手を放した。 
「母上の血を、無駄にはせぬぞ」
 地面に落ちたあやかしの体が発火し、苦悶の声を上げて転げまわる。
「ぎゃああああああああああ!!」
 水属であろうあやかしは炎を消そうと水を呼び寄せるが、燃え盛る火の勢いが強すぎてそれもままならない。
「こ、こいつ!」
 紫苑はゆっくりと辺りを睨み回した。彼の眼と髪は紛うことなき鳳凰族の色。血と炎に彩られ、彼は不吉な笑みを洩らした。
 
 
  二
  
 桔梗はゆっくりと眼を開けた。体に力が(みなぎ)っている。膝を突いている壬が視界に入り、桔梗は眉を寄せた。
「いつまでそうしているつもり?」
「え?」
 桔梗は腰をかがめる。その瞳は先ほどまでの怜悧なものとは違う。これはおそらく最初に出会った時の彼女に近い。だが、その視線の強さは「桔梗」のものと似ている。――人格が、統合された? 壬は茫然と彼女を見上げた。
 桔梗はまるで彼を哀れむように、静かに言った。
「紫苑を殺しても、私は貴方のものにはならない」
「――――!!」
「私は貴方を許さない。……そう、まるで」
 桔梗の表情には笑みの欠片もない。
「一族を滅ぼされた貴方が、人間を許せないように」
「同じことだって……そういうのか」
「そう」
「けど、……けど御子の両親だって!」
「私の親を殺し、私の記憶を奪ったのは紫苑じゃない」
 桔梗は立ち上がった。
「勿論燐さんでもない。名前も知らない、おそらくは下っ端の陰陽師。帝に……今は亡き先帝に命令されただけの」
「…………」
「少しだけど、記憶が戻ったような気がする」
 桔梗はつぶやいた。
「これは、青龍が持っていたもの……?」
「じゃ、じゃあ俺のことも」
「でも」
 桔梗はぴしゃりと言った。
「それは今の私には関係ない」
「御子!」
「私は」
 桔梗は優しく微笑んだ。切なげに、愛しげに。
「桔梗です」
「……どうしても、なのか」
「うん」
 壬は歯を食いしばった。
「どうして」
「どうしても」
「あいつじゃなきゃ駄目なのか」
「……うん」
「なんで……」
 桔梗は顔を上げた。長い髪がゆるやかな曲線の軌跡を描く。
「私には、紫苑が必要なの」
「これからも?」
「うん」
 はにかむような笑顔。
「紫苑が、好きだから」
「…………」
「だから」
 桔梗は俯いたままの壬に視線をうつし、その表情を険しいものに変えた。
「もし、貴方の手の者が紫苑を殺したら」
 ぎし、と床が鳴った。桔梗の体が細かく震えている。
「私、貴方を殺してしまうと思う」

  三
  
「鳳凰の御子の子だと?」
「……こやつ、半妖……。そうか、そういうことか!」
「蘭妃の遺した……」
「ち、厄介な……」
 あやかしたちのざわめきが彼の耳を侵す。紫苑はそれらの全てを拒絶するように眼を閉じ、そして開いた。
 ――しあわせになりなさい。
 母の声が甦る。
 ――誰が許さなくても、必ず守りなさい。
 今の彼と同じ――赤い髪と眼をした母。狂気から解放された彼女はとても寂しげに、そして優しく微笑んでいた。
 ――愛する者を。あなた自身を。必ず守りなさい。
 生きて、生きて、生きて、生きて……!
「……生きてもう一度」
 血に染まった白袖が翻った。
 ――もう一度、桔梗に会いたい……!!
 ぱりん! 結界が罅割れ、その裂け目から赤い光が侵入する。
「朱雀か」
 紫苑は振り仰いで微笑んだ。
「間に合ったようだな」
 朱雀が彼の妖力に反応して咆哮する。
「ここから出るぞ」
 朱雀の吐いた炎が辺りを包み込み、やがて――轟音と共に世界が崩れた。
 
 
  四
  
 壬がはっと顔をあげる。
「結界が破れた」
「え?」
 破れ屋から出ようとしていた桔梗が振り向く。
「ここに来る」
「紫苑が?!」
「結界を張っていたのは俺だ。破れたとなると当然――」
 壬が言い終わるよりも早く、部屋に気配が満ちた。
「しおん――!」
 忽然と現れたのは、血で汚れきったひとりの男だった。壬の座るすぐ前に現れ――そのまま力を失って倒れる。赤い髪が床の上に広がった。
「これが……」
 壬は茫然とつぶやいた。
「これがあの男なのか……?」
 彼の張った結界を破ったことも驚愕に値するが、この姿は一体どうしたことだ。
「これじゃまるで」
 壬はごくりと唾を飲む。
「あやかしじゃないか……」
「紫苑……紫苑!」
 桔梗は紫苑に駆け寄った。血で汚れるのにも構わず必死でその膝の上に抱き起こす。
「しっかりして、紫苑!」
「……う」
 紫苑は小さく呻いた。睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。そこから現れたのは紫電ではなく真紅の瞳だった。だが桔梗は頓着しない。安堵の息を吐き、涙を零した。
「良かった……良かった!」
「き、きょう」
 咳き込む彼の背中を抱きしめ、桔梗はつぶやく。
「生きてて良かった……紫苑が死ななくて……本当に良かった……」
「すまなかったな……」
 紫苑は桔梗の頬を撫でた。指先についていた血が、桔梗の頬に赤い弧を描く。
「お前を、傷付けた……」
「そんなこと!」
「桔梗」
 紫苑は穏やかに微笑んだ。
「お前に、もう一度」
 ――会いたかったんだ。
「――――!!」
 桔梗は息を呑んだ。眼の縁に盛り上がっていた涙がはらはら、と頬の上に落ちる。
「お前に謝りたかった」
 紫苑は眼を閉じた。
「本当は」
 赤い髪が徐々にその色を強めていく。やがてそれは赤褐色になり、さらに濃くなって――黒になった。
「手放したくなどなかった」
 紫苑はまるで独り言のように淡々と言葉を続ける。
「この身に流れるのが禁忌の血でも……不幸を呼ぶとしても、それでも」
 ゆっくりと眼を開ける。懐かしい紫の瞳が、光に滲んでいた。
「それでも、私はお前に」
 桔梗の顔がくしゃりと歪む。
「側にいて欲しい」
 紫苑の手がそっと桔梗の髪を撫でる。桔梗の涙が紫苑の頬に雨を降らせた。
「それが、私の気持ちだ」
「紫苑……!」
「戻ってきてくれるか……? 私の元に」
「…………」
 桔梗は袖でぐい、と涙を拭いた。そして、満面の笑みを浮かべる。
「はい!」
「……そうか」
 紫苑も微笑した。ふっと意識が遠のく――暗転する視界の中で、彼は桔梗の笑顔だけを脳裏に焼き付けた。
「紫苑……」
 早く連れ帰って傷の手当てをしなければ。焦りながら、ふと桔梗は辺りを見回す。――壬の姿は、どこにも見当たらなかった。