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水龍の巻 第二章

  一

 銀の軌跡が風に流れて消えていく。壬はただ茫然とその様を眺めていた。言葉が喉の奥にひっかかって、彼女に呼びかけられない。――何故俺を拒絶するんだ、御子。
「あの」
「え?」
 壬は驚いて振り向いた。
 いつの間にか背後に人間が立っている。御子の様子に気を取られていたとはいえ、全く気配に気付かなかった。
「誰だ、お前」
 つっけんどんな言い方にも気を悪くした様子もなく、人間は柔和に微笑んだ。
「橘燐だよ。紫苑の友達で、居候」
「俺は壬だ」
 壬は彼の笑顔に毒気を抜かれたのか、その場にどっかと座り込んだ。燐はその隣りにちょこんと屈みこむ。
「水龍族って、君以外にも生き残りが?」
「いや……」
 ――あの夜、人間たちは彼らの住む集落に奇襲を掛けて来た。水は火に強いから、火攻めは効果がない。それならばというので術者を総動員し、村ごと土石で埋めてしまおうとしたのである。小石や砂だけではなく岩までもが雨のように降り注いだ。
「おかげで俺も体中傷だらけだぜ」
 壬は口元をゆがめた。その視線は目の前の庭に向けられているようでいて、本当はもっと遠くを見ているのだろう。
「俺には双子の弟が居たけれど、そいつの生死も分かっていない。反撃する間もなく――村は消えた。土に埋まっちまったんだ」
 彼の藍色の瞳の中には暗い炎が燃えていた。
「命からがら、ただ逃げるのに精一杯で……遺体のひとつも回収できなかった」
 御子の行方もわからず――いや、彼自身の父母の生死すら定かではない。だがこれだけ時間が経っても見つからないのだ。きっともう……。
「やっと御子を見つけたと思ったら記憶をなくしていて、人間なんかと一緒に暮らしている。どういうわけだよ……!」
 堪え切れなくなった気持ちをぶつけるように拳を縁に叩きつける。燐はその様を表情ひとつ変えずに見守っていた。
「なあ」
 壬は顔を伏せたまま燐に尋ねた。
「何であんたは御子と一緒に暮らしているんだよ」
「…………」
「人間とあやかしが……どうして」
 燐はすっと立ち上がった。
「僕がこの世で最も愛した女性は――あやかしだったんだよ」
「!!」
 壬は驚いて顔を上げる。燐の表情は逆光になって良く見えなかった。
「その命を奪ったのは、人間」
「…………」
 言葉を失った壬に、燐は淡々と告げる。
「僕は誰を恨めばよかったんだろう。ひとかな。あやかしかな」
「…………」
「僕は自分を恨んだ。恨んで恨んで恨みぬいて――死んでしまおうと思った」
 壬は唇を噛んで俯く。彼がここにたどりつくまで、様々な紆余曲折があったのだろう。しかし燐はただ言葉を紡ぎ続ける。
「僕が京に帰ってきた時、紫苑の元に桔梗ちゃんが居るのを見て驚いた。彼はただでさえ宮中の貴族連中に疎まれている。半妖であるがゆえに恐れられてもいる。無用な疑いの元ではないか、そう思った」
「その通りだろ」
「でもね」
 燐が振り向く。その表情は、微笑(わら)っていた。
「それが彼らの選んだ道なら、周りがとやかく口を出すことじゃないのではないかな」
「『彼ら』……?」
 壬は立ち上がった。燐の顔を真っ向から睨みつける。
「御子が、御子自身がここで暮らすことを選んだって言うのか」
「そうだよ」
「そんなこと、認めない!」
「みずのえ……」
「記憶のないところに付け入ったのは、あの男だろう!」
 壬から感じる強い妖力に、燐は一歩退いた。
「俺は絶対に認めないからな!」
 身を翻し、軽々と塀を飛び越えていく壬。その背中にどうしようもない孤独の影を感じ、燐は痛ましげに目を伏せた。
 
 
  二
  
 ――桔梗が部屋に帰ってきた。紫苑は若菜の口からそう聞かされ、自ら膳を持って彼女の部屋に向かう。
「桔梗」
 部屋の隅で丸くなって背を向けている彼女はまるで猫のようで、紫苑の口元には笑みが浮かぶ。
「昼餉だ。食わないのか」
「…………」
 返事がないのに焦れ、紫苑は部屋の入り口付近に膳を置いた。丸くなった背中に手を掛ける。
「おい、桔梗」
「…………」
 ぐらりと体が揺れて紫苑の膝の上に転がり落ちる。健やかな寝息を立てて彼女は眠っていた。閉じられた瞼は赤い。泣きながら寝入ってしまったのだろう。
「……全く」
 紫苑は膝の上から抱き起こし、軽く肩を揺さぶった。
「桔梗。飯だ、食べろ」
「う、……うう……」
 何度か揺すると長い睫毛が瞬き、その奥から水晶色の瞳が覗いた。うっすらと涙を溜めている。
「あ、あれ? 紫苑?」
「あれ、ではない」
 紫苑は苦笑した。
「飯を持ってきたぞ。冷めてしまっているが、食べるだろう?」
「…………」
 桔梗は問いには答えず、無言で彼の胸元に顔を寄せた。小さな手が背中をぎゅっと抱きしめる。
「どうした?」
 紫苑は優しく尋ねた。
「私は」
 桔梗は顔を上げない。
「私はもう『御子』には戻れない」
「え?」
「あのひとが誰なのか私にはわからないし、思い出すつもりもありません」
 顔をあげさせようと顎に手をかけるが、彼女はいやいやをするように首を横に振った。
「私……」
 声がくぐもっている。泣いているのだな、と思った。紫苑はそっとその華奢な体を抱きしめる。柔らかく、温かだった。
「私、ここにいちゃ駄目ですか……?」
「誰がそんなことを言った?」
「み、壬……さっきの人が」
 もう一度、顎に指を沿わせてみる。今度は素直に桔梗は面を上げた。案の定、頬は涙で濡れている。
「お前は本当に泣き虫だな」
 紫苑は苦笑して指で涙を拭った。
「私は前にも言ったはずだ」
 行くあてがないのならいつまでも居たらいい――だが、居たくなくなったら勝手に出て行ってもいい。
「それって」
 桔梗はぽつりとつぶやく。
「紫苑にとっては、私なんて居ても居なくてもどっちでもいいってことですか」
「何故、そうなる」
「そうとしか思えない!」
 桔梗は紫苑の腕を振り払った。
「桔梗……?」
 唐突な拒絶に紫苑は眼を白黒させる。桔梗の目から新たな涙が溢れた。
「たとえば私が突然居なくなっても、紫苑はきっと探しには来ないんだ。心配だってしてくれない!」
 紫苑には桔梗が何故怒っているのかが理解できない。ただ唖然として桔梗の激昂を見守るだけだ。
「私はっ……私は今まで紫苑が必要だった。それは、他に何処にも行くあてがなかったから。ただそれだけの理由だった」
 ――いつの間にこんなに大人になったのだろう。紫苑は何故かそんなことをぼうっと考えていた。もはや桔梗は、差し伸べる手にただ縋りつくだけだった子供ではない。
「だけど、あの人が――壬が来て」
 桔梗は紫苑の眼をじっと見つめる。強い瞳だと思った。
「私の居場所は他にもあるって、彼はそう言った。……ううん、違う」
 桔梗は言い直す。
「私の居場所はここじゃない、って言った」
「…………」
 紫苑は小さく息を呑んだ。
「今までは私がどこにも行く場所がなかったから、身寄りのない子供だったから、だから紫苑はここに置いていてくれたんですよね」
 桔梗は目を伏せた。なだらかな肩の線が細かく震えている。手を伸ばして抱きしめたいと紫苑は思った。だが……。
「だったらもう――私がここにいる理由は、ないんですか……?」
「…………」
 伸ばしかけた手が止まる。紫苑は困惑した表情で桔梗を見つめた。――何か、何か言わなければと思う。それなのに言葉が出ない。
「ねえ、紫苑……」
 桔梗は顔を伏せたまま言った。
「私、多分もうすぐ大人になる」
「…………」
「良く分からないけれど、私の頭の中にはもうひとりの『私』が居て」
 紫苑ははっと彼女を見つめる。――もうひとつの人格の存在は、知らないと思っていたのに。
「『もうすぐだ』って言っている」
「もうすぐ……?」
「今までは私が幼くて、『力』を制御できなかった」
 桔梗が喋っているのか、それとももう一人の「彼女」なのか――紫苑には判断がつかない。
「だけど、もう大丈夫。だからもうすぐ私たちはひとつになる」
 ――それはすなわち、
「水龍にとっては、伴侶を選ぶ時」
 桔梗は顔を上げる。
「…………」
 紫苑は絶句した。
 いつまでも桔梗は子供のままでいるような気がしていた。ずっとずっとこのままで居られると思っていた。居心地のいい関係だった。ただそこに居て、話して、笑って、そうしていられると思っていた。けれど――。
「伴侶を選びたいのなら」
 紫苑は、自分の声がかすかに震えていることを自覚する。
「私は不適任だ」
「…………」
「私以外を……選んだ方がいい」
 ――私は半妖だから。子孫を残す能力はないから。
「桔梗」
 紫苑は彼女を抱きしめた。なされるがままになる彼女の体を強く強く胸に抱いた。――愛しいと思う。宮中から帰るたびに迎えてくれた笑顔も、怖がりで泣き虫なところも、不器用にしか箸が持てない指先も、いつまで経っても上達しない筆跡も、隣りで眠っていると抱きついてくる甘えん坊なところも、もうひとつの人格の美しい孤高の魂も、「彼女」の真っ直ぐな強さも――全てが愛しい。
「桔梗……」
 口下手な自分がもどかしい。どう言ったらこの気持ちが伝わるのか、それとも伝えない方がいいのか、彼にはわからなかった。
「桔梗……」
 寂しい。もう側には居られないのかもしれない、そう思うだけで胸に穴が開きそうなくらい寂しかった。半年以上も毎日顔を合わせて暮らしてきたのだ。既に彼女の存在は彼の生活の一部と化している。それをどうして手放せるだろう。どうして……。
「紫苑」
 桔梗が顔を上げた。紅も差さないのに艶めく唇が彼の名を刻む。白い肌にはうっすらと朱が指していた。
「私はここにいては駄目なの?」
 綺麗だ、と紫苑は思う――このあやかしはきっと誰よりも美しい。細い銀髪が指先に絡み、冷ややかな感触を伝えた。彼女の愛らしい指先が紫苑の頬をそっと撫でる。無意識であろう仕草の全てが、彼の胸を締め付けた。
「このままずっと、ここに居ては駄目ですか」
 桔梗の腕が彼の肩を抱きしめる。彼女の早い胸の鼓動が直に伝わった。柔らかな肢体を腕におさめ、紫苑は眼を閉じる。――諦めよう、と思った。
「私はお前の求める者にはなれない」
 腕の中の桔梗の体が凍った。
「私はお前の伴侶にはなれぬのだ」
 紫苑は体を離し、立ち上がる。
「紫苑!」
 悲鳴のような声に、紫苑は振り向かぬまま応える。
「……お前が居てくれて嬉しかった」
 ――ずっと疎まれ続けてきた自分を必要としてくれた最初の存在だったから。
「側に居たいと思っていた」
「じゃあ、何故……」
「お前は水龍族の御子なのだろう?」
 紫苑は静かに振り返った。その蒼白な顔に浮かぶのは哀しい笑み。
「血を絶やすわけにはいくまい」
「…………」
「もしもうひとりのお前と会話が出来るようなら」
 紫苑はすぐに前を向きなおし、低い声で告げた。
「話し合ってくれ」
「…………」
「それから」
 紫苑はぎゅっと拳を握った。本当は口にもしたくない、その名前。
「壬とも、な」
 ――彼は水龍の血を絶やすことなど、きっと認めないだろう。
「紫苑……」
 紫苑はそれ以上何も言わず、足早に部屋を出て行った。
 
 
  三
  
「君は馬鹿だね」
「……盗み聞きは最低だぞ、燐」
 廊下に佇んでいた燐に、紫苑は鋭い眼差しを投げる。だが燐にはいっこうに堪えた様子がなかった。
「馬鹿に馬鹿といって何が悪い?」
「馬鹿で結構だ。私のわがままで、水龍族の未来を棒に振らせることはできない」
「君にとって大切なものは何なのさ」
 燐は足を速めて通り過ぎようとした紫苑の腕を掴んだ。
「僕だったら――かつて大失敗をした僕だったら、こう言うね」
 燐は表情から笑みを消す。
「水龍族なんて糞喰らえだ……って。愛する者を手放したりなんてしない」
「それは」
 紫苑はため息混じりにつぶやいた。
「愛情の形が違うのだろう。私とお前では」
「…………」
「私は彼女に委ねただけだ。彼女の中での『私』と『血族』との重さの比較は、私にはできない」
「……でも」
「もういいんだ」
 紫苑は微笑む。
「もう、いい」
 その儚げな笑みがあまりにも哀しそうで、燐は腕を掴んでいた手を緩めた。
「ひとりには……慣れている」
 そうつぶやいて、紫苑は燐を置き去りに歩み去った。その背中を見送り、燐はうな垂れる。
「……嘘つきだなあ、紫苑は……」
 
 ――その夜、桔梗は屋敷から姿を消した。