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水龍の巻 第三章

 桔梗が忽然と姿を消した日の翌朝。血相を変えて飛び込んできた燐に対して、紫苑は眉ひとつ動かさなかった。
「……それが答えか」
 ぽつりとつぶやく。険しく強張った横顔とは裏腹に、声は力なかった。
「どういうこと?」
 燐の問いに、紫苑はようやく視線を彼に向けた。
「昨日は盗み聞きしていたのではなかったのか?」
「なっ……」
 改めて盗み聞きを指摘され、燐の顔に朱がさす。
「それは、その……全部聞こえていたわけではなかったし」
「そうか」
 紫苑はそれ以上とがめることもなく、あっさりとうなずいた。
「私は昨日、こう告げた」
 ――お前が居てくれて嬉しかった。側に居たいと思っていた。
 燐の顔が驚きに染まる。
「だが私には種を残す能力はない。だから……」
 ――話し合ってくれ。
「彼女の中にいるもうひとつの『人格』、そして壬。答えが出たら、その答えにしたがって行動しろと」
「…………」
「私は」
 紫苑はまっすぐに燐の瞳を見つめた。強い目だった。
「とうに答えを出している。彼女が望むならいつまでも側に居ようと」
 はじめは保護するためだった。たったひとり、人間の中に放り出されて彼女は生きていけない。否、その強い妖力でもって身を守ることはできるだろう。それでも独りには違いない。――独りは、寂しい。
「彼女が水龍だと知り、中にもうひとりの人格がいると知り――その者が青龍の魂を宿すと知った時も、全て受け入れられると思った」
 紫苑は、何かにつかれたように喋り続けていた。
「『彼女』は運命だと言った。我々が出会ったのは運命だと。私は否定した。運命に縛られるのは無駄なことだ。己の意志に従って行動するのみ――と」
「紫苑……」
 燐は戸惑ったように彼を見つめる。――もっと臆病だと思っていた。彼の知る紫苑はいつも誰かに自分の気持ちを知られることを極端に嫌がり、孤独の殻に閉じ篭ることを好む、そういう男だった……そのはずなのに。
「理由は分からぬが、桔梗は私を慕ってくれた。頼ってくれた。だから私も自分の全てを傾けて……私なりに慈しんできたつもりだ」
「……うん」
 燐はうなずく。しばらくの間彼らと寝食を共にして、紫苑がいかに桔梗を大切にしているかは良く分かっていた。たとえ言葉はぶっきらぼうであっても、はしばしに見え隠れする優しさは確かなもので、燐はそんな紫苑をいつも微笑ましく見守っていたものだった。
「けれど」
 紫苑の瞳がかすかに揺れた。
「桔梗はもう、大人だ。子供ではない」
「…………」
「以前お前が言ったとおりだ。桔梗は大きくなった」
 燐は不意に気付いた。握り締めた紫苑の拳が小刻みに震えている。
「だから……」
 日々美しく成長していく桔梗が怖かった。徐々に大人の女になっていく彼女に、どうすればいいか分からなかった。
 紫苑は女の元に通ったことがない。それは自分が半妖でありひとから忌まれる存在であるという理由もあったが、もうひとつには自分に子孫を残す能力がないということを熟知していたためだった。――それはもうずっと以前に、朱雀に教えられている。
「鳳凰族は、貴方で絶える」
 焔の姿を借り、朱雀は彼に告げた。
「貴方に子を為す能力はない。たとえ相手が誰であっても、それは同じ――」
 特に衝撃を受けた記憶はない。自分の血を引く者など、生まれて欲しいとは思わなかった。ひとにもあやかしにもなれぬ、半端な存在。そんな者は自分ひとりで十分だ。しかし……。
「桔梗が水龍族の存続を望み、そのための伴侶として私を願うのなら」
 紫苑は言う。
「私ではどうにもならぬ。どうすることもできない」
「…………」
「かといって、ずっとこのままで居られるわけもない」
「…………」
 燐は無言でうなずく。
「桔梗は」
 その言葉は、意外にすんなりと彼の唇から零れる。
「私が唯一、愛した女性なのだから……」
 涙が一筋、紫電の瞳から頬を伝って落ちた。

  二
 
 都の西の外れに、その屋敷はひっそりと立っていた。かつて流行り病に倒れた家人は全て帰らぬ人となり、家はただ荒れ果てている。取り壊す人もなく、朽ちるのを待つのみであった。
 だが、今はそこに強い妖力が満ちている。壬だ。かろうじて床も抜けずに保たれていた一室に陣取り、天井を睨みつける。
「御子……」
 こんなはずではなかった。御子は迎えに来た自分を歓迎し、手に手を取り合って一緒に南へと下るはずだったのに。御子は記憶をなくして自分を覚えていなかったばかりか、いけ好かない半妖の男の元に居て、自分を頑なに拒絶した。
 ――あんな場所に居てどうしてしあわせなんだ。壬は首を左右に振る。しあわせなわけがない。御子はほとんどあの屋敷から出られないはず。閉じ込められているといっても過言ではない。半妖と、人間の男との暮らし。そんな生活がしあわせであるはずがないではないか。
「それなのに、何故……」
 壬は拳を振り上げて床を殴ろうとしたが、穴が開くかもしれないと思い直してその腕をだらりと下げた。
「御子……」
 ――ぶわ、と不意に壬は総毛だった。強い妖気を感じる。それも殺気に近いような、とても濃い妖気だ。懐かしい。これは水龍のものだ。それもこれほどまでに強いということは、つまり最強の水龍が近くにいるということ。
 ばん、と簾が吹き飛んだ。壬は腕を広げてそれを受け止める。ぴりぴりとした空気が肌を焼いた。怒りと悲しみと――全てがない交ぜになったような、強い思念。
「御子……!」
 そこに立つのは確かに昨日出会った御子だった。だが、昨日に会ったときとは明らかに雰囲気が違う。水晶色の瞳は絶対零度の冷たさで凍りつき、艶やかな赤い唇は笑んでいるが笑ってはいない。
「探したぞ、壬」
 壬はびくりと体を震わせた。昔、ひとづてに聞いたことを思い出す。――母君が御子さまをご懐妊されていた時、青龍がその元を訪れたそうだ。そしてその魂を胎内の御子にお預けになった、と。もしかして今自分が会話しているのはその青龍の――水属の神獣の魂なのだろうか。気付いた壬は慄然とする。
「私に会うのは初めてだな」
 「彼女」はそう言って笑った。
「私はお前を覚えているのだが……上手くはいかないものだ」
「俺を、覚えて……?」
「私は普段眠りについている。だがもうひとりの私が見ている景色も、感情も……全て記憶にある。共有している」
 だが、「彼女」の瞳はあくまでも凍てついていた。
「お前に関する記憶も残ってはいるが……許婚とは知らなかったな。どうせまた一族の者が勝手に決めていたのだろう。御子に関することはいつもそうだった」
「そんなはずは……!」
「まあ、そんなことはどうでもいい」
 気色ばむ壬を、軽く手を振るだけで黙らせる。
「どちらにせよ、お前には私を御すことはできない」
「…………」
「そうだろう?」
 壬は黙り込む。「彼女」は静かに、そして冷たく笑っていた。
「お前が何をしに来たのかは知らぬが」
 「彼女」の声は静かで、それでいながら激情を秘めている。
「邪魔だ。帰れ」
「御子!」
「私は『桔梗』だ」
 ぴしゃりと言い返されて、壬は唇を噛む。
「あの戦から逃れた私は、とある場所で眠りについていた」
 「彼女」は視線を少し遠くに投げた。
「神獣である私がわざわざ水龍の御子の体内に宿らなければならなかったのには、理由がある。――お前に多くを語るわけにはいかぬが……」
「…………」
「紫苑は」
 その名を呼ぶと、「彼女」の冷たい顔がふわりと綻ぶ。春の気配をいち早く感じ取って蕾を膨らませる新芽のように。――壬の胸がずきりと痛んだ。
「朱雀を御する男だ。私には彼と出会う必要があった」
「何故?」
「神獣がそのままの姿でこの地上で集うわけにはいかぬ。だが、地上に生きる命の形を取れば――もしくはその者と契約を結べば、可能になる」
「……神獣が地上に集わなければならない、理由は何なんだ」
 壬の問いを聞いた「御子」は目を伏せた。
「今は未だ、答えるわけにはいかぬ」
「…………」
「だがな、そんなことはもう、どうでも良いのだ」
「え?」
「確かに私が紫苑と出会ったのは必然であった。運命と呼んでもいいかも知れぬ。しかしそのまま私が彼の元に居る必要はなかった。時が来るまで、共に居る必然は何処にもないのだから」
「それなら何故……」
「壬」
 「御子」はやんわりと名前を呼んだ。
「私が怖いか」
「…………」
 壬はふと自分の体が細かく震えているのを自覚した。自分は「彼女」に完全に威圧されてしまっている。「御子」は小さく笑った。
「無理もない」
「……あの男は」
 壬は苦々しげにつぶやいた。
「あの男は違うとでも」
「違う」
 「御子」は即答した。
「初めて紫苑が私に会った時、彼は言った」

 ――世界中の皆がお前を怖がっても、私は怖がってなどやらない。
 
「…………」
 壬は沈黙した。
「紫苑はそう言ったのだ」
 「御子」は微笑する。それは温かな表情だった。
「四大神獣の一である私に……」
「…………」
可笑(おか)しいだろう?」
 壬は諦念にも似た気持ちで目を閉じる。
「昨夜、紫苑に言われた」
 少し調子を変え、「御子」の声は続いた。
「半妖には子孫が残せない……と」
「…………」
 壬は驚いて顔を上げる。半妖に子孫が残せないなどとは知らなかった。だが「彼女」の表情は平静である。もしかすると、はじめから知っていたのかもしれない。
「だから……これ以上私が彼の側に居ることを望めば、私もこの血を残すことができなくなるやも知れぬ」
「…………」
「彼はそう警告してから、私に勧めたのだ。『壬と話し合え』と」
 胸を衝かれた。壬は眼を見開いたまま「御子」を見つめる。
「彼には分かっていたはずだ。お前が水龍の血を絶やすことを許すはずなどないと」
 壬は視線を揺らす。
「それでも彼はそう言った。私を……私の立場を慮って」
 不意に「御子」は膝を突いた。
「どうか、許して欲しい」
 深々と頭を下げる彼女に、壬は慌てて立ち上がる。
「み、御子!」
「私は紫苑の側に居たい」
 その言葉が「御子」のものなのか、それとももうひとりの人格のものなのか。壬には既に良く分からなくなっていた。
「離れたくない」
 薄汚れた床の上に滴がきらきらと零れ落ちる。
「御子……」
 美しい銀髪が床を這い、埃をかぶった。壬はぎり、と歯を軋らせる。――そうまでして、御子はあの男を……。
「だから、どうか」
「――もう遅い」
 壬はつぶやいた。
「あの男は、もうすぐ死ぬんだからな」