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水龍の巻 第一章

  一
 
 行きつ戻りつしながらも確実に気温は上昇し、きんと澄み渡っていた空気がやがて穏やかな匂いを漂わせるようになった。
 春である。
 桔梗は腰まで長く伸びた銀髪を指先で弄りながら、縁に腰掛けて中庭を見ていた。咲き零れる花々は色鮮やかで、桔梗の元にまでその若々しい息吹を吹きかけてくるようだった。それをすう、と吸い込む。
「桔梗さま」
 背後から掛けられた声に振り向くと、それは季節が変わって小雪の代わりに現れた式神だった。紫苑に頼んで、彼女に名を付けさせてもらった。桔梗は嬉しそうにその名を呼ぶ。
「若菜さん」
 薄緑の衣に身を包み、春の陽光のような微笑を浮かべる若菜。名が体を表すのか、この外観であったからこそこの名が付いたのか……。
「お食事の支度ができました。お出で下さいませ」
「わかりました」
 おっとりとした気性の若葉にそう告げられ、桔梗は勢い良く立ち上がる。その身長はほんの三ヶ月前に比べ、随分と伸びていた。
「こちらへ」
 先導しようとした若菜がぴたりと歩みを止めた。続いて桔梗も庭に潜む気配に気付く。
「だ、誰?」
 四つの眼が見守る中、茂みがざわざわと鳴った。――どこか懐かしいような気配を感じて、桔梗の胸がざわめく。
「桔梗さま!」
 若菜が彼女の手を引こうとしたとき、それは茂みから飛び出した。
 
 
  二
  
「ねえ、紫苑」
「何だ」
 桔梗を待つ、ふたりの男。食事を前にして黙然と座っている紫苑に、燐は声を掛けた。
「桔梗ちゃん、また大きくなったね」
「そうか?」
「そうだよ。何とぼけてるんだい」
「とぼけてなどいないが」
 相変わらずの無表情を保っているが、彼の視線は不自然に宙を彷徨っている。
「君が」
 燐はすらりとした人差し指で紫苑の鼻先を押すような動作をした。
「気付かないはずないだろう? 毎日あれだけ一緒にいるんだから」
「…………」
「ね?」
「……そうかもな」
「僕は良く知らないのだけど」
 燐は考えるように眼差しを天井に向けた。
「水龍族は、成人するときに何か特別なことはあるの?」
「いや……」
 あやかしには幼体から成体へと変態を遂げる種族がある。紫苑の母の出自である鳳凰族には、そのような言伝えはない。だが、水龍族は……。
「あの種族の生態は、実のところ良く分かっていないんだ」
 冷酷無残な水の殺戮者。決してひとを近付けず、孤高の王者として水属のあやかしに君臨していた。
ある日、ひとりの少女を残して滅亡するまでは――。
「ふうん……」
 燐は顔を横に向けて胡坐をかいた膝に肘をついた。顎を指先でゆっくりと撫でる。
「そういえば、水龍って本当にひとり残らず絶滅したのかな」
「さあな」
 燐の独り言に生返事を返した紫苑は、不意に妖気が膨らむのを感じ表情を変えた。
「どうしたの?」
「何かが居る」
 つぶやいて立ち上がる。ひとつの気配は桔梗のもの。それともうひとつ――それは「桔梗」ほどではないが、強大な力を持つ者の気配だった。

  三
  
「あなた、誰?」
 桔梗は用心深く尋ねる。
 彼女の目の前に立つ男。それは彼女の外見と良く似ていた。長い銀髪を頭頂部で一纏めにくくり、毛先を後頭部に垂らしている。額には彼女と同じ文様。眼の色は彼女の水晶色よりも濃い、藍色をしていた。
「御子……」
 低い声でつぶやく。
「ご無事で……!」
「みこ?」
「桔梗! 大丈夫か?!」
 縁を駆ける足音がして、桔梗はぱっと振り向いた。
「紫苑!」
 安堵したようにその腕にしがみつく。
「誰だ?!」
 庭に立つ男は語気も鋭く、紫苑に尋ねた。
「お前こそ誰だ」
 厳しさを増す眼光にも怯まず、紫苑は続ける。
「ひとの家屋に断りもなく足を踏み入れたのだ。礼儀を(わきま)えるべきはそちらであろう」
「…………」
 男はしばらく黙っていたが、やがてふっと息を吐いた。
「我が名は(みずのえ)
 その後に続けられた言葉に、紫苑は息を呑む。
「その御子と同じ……、水龍族だ」
「…………」
 桔梗は紫苑の腕の影に隠れたまま顔を覗かせ、壬を見つめる。彼の年の頃は紫苑と同じか、少し年若に見えた。日焼けした肌と精悍な顔立ち。その気配には懐かしいものを感じるが、見覚えはない。
「御子。俺を覚えていないのか?」
 壬は彼女の様子を見て表情を陰らせた。
「ごめんなさい……」
「彼女には私に出会うまでの記憶がないのだ」
 紫苑はそっと彼女の頭を撫でた。
「お前……」
 ふたりの様子を見ていた壬は、剣呑な表情を紫苑に向ける。
「半妖だな?」
「…………」
「何者だ。どうして御子の側に居る」
「私は」
 紫苑は息を継いだ。
「彼女を拾った。去年の秋のことだ」
「…………」
「記憶を失い、行き場のなかった彼女を手元に置くことを決めた。桔梗という名は私がつけた」
「御子には名などない」
「そうか」
 紫苑は桔梗を見下ろした。
「桔梗がそうと認めるのなら、名くらいいつでも捨てれば良いが……」
「わ、私の名前は」
 桔梗の声に、壬はびくりと肩を震わせた。
「桔梗です」
「御子」
 悲しげな瞳に心が揺さぶられる。だが、桔梗は断じて譲れなかった。
「私の名前は、桔梗です」
「…………」
 紫苑の瞳には、何とも形容のしがたい複雑な色が渦巻いていた。
「少し話がしたい」
 壬が口を切る。
「紫苑とやら。少し席を外してくれないか」
「…………」
 桔梗の手がぎゅっと彼の袖を掴む。紫苑はそれを柔らかく握って――外させた。
「私は次の間にいる。何かあれば呼べ」
「…………」
「いいな?」
「……はい」
 桔梗は頷いて壬に視線を向けた。壬は歩み寄り、彼女の隣りに立つ。紫苑は御簾を上げて奥に姿を消した。
 
 
  四

 縁に腰を下ろし、壬はぽつりぽつりと語り始めた。
「憶えてはいないみたいだけれど、俺は御子の許婚だったんだぜ」
「いいなづけ……?」
「結婚の約束をしていたってこと」
「…………」
 桔梗の顔に一瞬血が昇り、やがて青ざめた。結婚という言葉が何を意味するのかくらいは桔梗にも分かっている。壬は苦笑した。
「無理やりそうする必要もないさ。……今は、な」
「……うん」
 桔梗は紫苑に最後に握られた手をぎゅっと抱きしめる。そこに残る温もりを逃したくはなかった。
「御子……」
 壬はゆっくりと言葉を紡いだ。
「いつまで、ここにいるつもりだ?」
「え?」
 桔梗は弾かれたように顔を上げた。
「俺は南の、水属たちが暮らす場所の近くに住んでいる。勿論別の種族に入り混じって暮らすわけにはいかないけれど……人間の居る場所からできるだけ離れていたい」
「じゃあ、どうしてここに来たの?」
「風の便りに、御子の噂を聞いたからだよ」
 壬は優しく微笑んだ。
「都に――人間だらけのところに一人で貴女がいるって聞いたから。迎えに来たんだ」
「…………」
「帰ろう。俺たちの故郷に」
 壬は南の空に視線を投げた。
「…………」
「記憶なんてなくてもいいから。こんなところにいつまでもいちゃ駄目だ」
「…………」
「こんなところに……籠の鳥みたいに、閉じ込められて」
 壬の表情が歪む。
「ここは、貴女の居るべき場所じゃない」
「どうして……?」
 桔梗の顔を見た壬は、はっと息を呑んだ。彼女の水色の瞳には、涙が零れ落ちんばかりに湛えられている。
「どうしてそんなこと言うの……?」
「何故って」
「私は何処へも行かない」
 桔梗は壬を置いて立ち上がった。
「私はここを離れない!!」
「御子」
 引き止めようとした手が空を切る。桔梗は足早にその場を去って行った。