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母の巻 第四章

  一

 紫苑の乗った牛車は、一路南を目指して進んでいる。牛を先導するのは焔。特に鞭をふるうわけでも手綱を引くわけでもないのだが、牛は脇見もせずに彼の後をついて歩いた。
 肘をつき物思いに耽っていた紫苑の耳に、焔の声がした。物理的な音声ではなく、精神を介した呼びかけである。主従の関係にある陰陽師と式神にのみ可能な会話だ。
「紫苑さま」
「何だ」
「例のもののけの気配を感知致しました」
「わかった」
 羅城門は近いということか、と紫苑は居住まいを正す。だが、焔の言葉はその後も続いた。
「……何か、おかしい」
「何?」
「この気配。覚えがあるような」
「…………」
 紫苑は眉を顰める。
「特定できるか?」
「いいえ」
 焔の歯切れの悪い口調に、紫苑はますます違和感を強めた。
「どういうことだ、はっきり言ってくれ」
「…………」
 焔は少し逡巡した後に言った。
「このもののけ……紫苑さまと良く似た気配がするするのです」
「…………」
 紫苑は虚を衝かれて黙り込む。――自分と似た気配のもののけ……? 心当たりなどあるわけがないが、いい気はしない。
「わかった」
 言葉少なに答える他、今の紫苑にできることはなかった。
 
 
  二
  
 桔梗が眼を覚ますと、既に夕闇があたりに立ち込めていた。
「あれ……?」
 何だか悲しい夢を見ていたような気がする。瞼をこすると、指が僅かに濡れていた。
「お目覚めですか?」
 小雪が音もなく現れ、尋ねる。桔梗は体を起こして頷いた。
「燐さんは?」
「御門蘇芳さまのお屋敷に参られました」
「え?」
 不思議そうに瞬く彼女に、小雪は説明する。
「先ほど蘇芳さまから使者がいらっしゃって、それに応じて出かけられたのです」
「そうなんだ」
 桔梗は立ち上がろうとしてぐらりとふらついた。
「桔梗さま?」
 小雪が彼女の体を支える。
「どうなさいました? ご気分が優れないのですか?」
「ううん、大丈夫……あっ」
 小さく叫んで桔梗は眼を閉じた。
「なに……これ……?!」
 頭の中に流れ込んでくる「力」。それは彼女の小さな体を破裂させんばかりの勢いで渦を巻き、洪水のように溢れ出す。
 悲哀。孤独。怒り。恐れ。恋慕。悔悟。愛情。狂気。狂気。狂気――様々な感情がない交ぜになって、彼女の内部を荒れ狂う。桔梗は悲鳴を上げた。
「桔梗さま!」
 小雪は彼女の体を揺さぶろうとして、ふと気がついた。桔梗の肌の表面がうす青く光っている。それはどこか龍の鱗にも似た光沢を放ち――。
「……あっ」
 触れている場所から感じる妖力の奔流に、小雪は耐え切れずに手を離した。桔梗は膝を折る。
「く……うっ!」
「桔梗……さま」
 ざあ、と肌が粟立つような威圧感。小雪は息を呑んだ。
 ゆらり、と立ち上がったのは既に桔梗ではなかった――否、成人した体を持つそれは「桔梗」であって桔梗でない存在。
「驚かせたな」
 「桔梗」は背を伸ばして立ち、小雪を見下ろして嫣然と微笑んだ。
「い、いったい、どういう……」
「紫苑から話には聞いていたのではないのか?」
「え……あ、はい」
 小雪は頷く。桔梗と体を共有するもうひとつの人格の存在なら、確かに紫苑から聞かされていた。
 滅びたはずの四天王の一、水龍族の末裔。最強のあやかし。水の殺戮者。青龍の魂を宿す者。
「けれど、何故……」
「あのもののけ」
 「桔梗」は低い声で告げた。
「強い思念を放っている。私のように強い妖力を持つものは、引き摺り込まれてしまうほどにな。桔梗は、それに耐えられぬ」
「思念を……?」
「彼女の過去を見た」
 「桔梗」は痛ましげに目を伏せる。
「彼女の正体……そして狂気の理由を、私は知った」
「かのじょ?」
「羅城門へ行く」
 小雪の問いには何ひとつ答えぬまま、「桔梗」はきっぱりと言った。
「――紫苑を止めなければ」

  三
  
 燐は蘇芳と相対しながらもどこか落ち着かなかった。紫苑の義父とはいえ、蘇芳と燐とは今までほとんど交流などない。一体彼が何の理由で自分を呼んだのか、見当も付かなかった。
「突然お呼び立てして、誠に申し訳ない」
 蘇芳はまだ床についたままであった。燐は傍らに腰を下ろし、深々と頭を下げる。
「この度は災難でございました。心よりお見舞い申し上げます」
「そのことなのだが」
 蘇芳は燐を見つめた。燐はその視線をしっかりと受け止める。
「紫苑は今、どうしているだろうか」
「今晩、羅城門に向かいました」
「……そうか」
 蘇芳は力なく頷く。
「あやつならそうするであろうな。昔から私の言うことなど聞く男ではなかった……」
「ただ行くなとおっしゃられましても、理由を明らかにされないのでは紫苑とて困惑致しましょう」
 燐はできる限り丁寧な言葉で、紫苑を弁護しようと努める。蘇芳にもその意図が伝わったのだろう、じわりと口の端に苦笑が浮かんだ。
「明らかにできぬ理由があるのだ」
「わたくしにも、ですか?」
「いや……、今更隠す理由もない」
 蘇芳はため息をついた。
「あの、羅城門に出るもののけは」
 蘇芳の喉がごくりと音を立てた。
「あれの、母親なのだ」
 燐は息を呑む。
「……そ、それは」
 搾り出した声は掠れていた。
「まことですか」
「嘘など言って何になろうか」
 蘇芳はため息混じりに答える。燐の額に汗がにじんだ。
「……それで、紫苑にあのように」
 ――「羅城門のもののけには関わるな」と。
 もしあのもののけを調伏すれば、知らずとはいえ紫苑は母を殺したことになる。記憶にもないまだ見ぬ母を、その手に掛けることになるのだ。
「貴方は」
 自然と詰問するような口調になった。
「彼の両親についてご存知なのですね」
 蘇芳はしぶしぶといった様子でうなずいた。
「……知っている」
「一体いつまで隠し通すおつもりですか」
「いつまででもだ」
 蘇芳は即答した。
「……隠されると詮索したくなるのが慣わしでは?」
「詮索しても良いことはない。誰にとっても、な」
「紫苑にとっても、ですか」
「ああ。むしろあやつが一番苦しむだろう」
「…………」
 そう言われると、燐にはもうそれ以上の追求はできなかった。紫苑を苦しめてまで好奇心を満たす必要など、どこにもない。
「紫苑はあのもののけを調伏するつもりなのか」
「……恐らくは」
「……つくづく不幸なおんなだな、蘭妃は」
 蘇芳は独り言のようにつぶやいた。らんひ――それが彼女の名なのだろう。
「今からでも間に合うかもしれない」
 燐は身を乗り出した。
「貴方から言ってやって下さい。そのもののけは、元は母親だったのだと。調伏してはならないと」
「それはそれで」
 蘇芳は静かに言葉を返す。
「残酷なことではないか」
「…………」
 燐は言葉に詰まった。
「数多くの人を傷付けてきたもののけが己の母であると……そんな事実を知らせる必要がどこにある」
「……しかし」
「母殺しの事実とて、紫苑が知らなければ……己が手に掛けたのが母であったと、知らなければ良いだけの話だ」
「…………」
 ――それは違う。反論したいのに、言葉が出てこない。燐は歯がゆい気持ちで口を引き結んだ。
「あのもののけは強力だ。だが、紫苑ならばそうやすやすと負けることはあるまい」
「…………」
 燐のとがめるような眼差しに気が引けたのか、蘇芳は言い訳がましく言葉を続けた。
「勿論、本当は止めるつもりだった。そのつもりで橘どのをお呼びしたのだから――しかし、もう遅い」
 蘇芳は左右に首を振った。
「こうなってしまった以上、紫苑が真相を知ることなく無事調伏しおおせることを祈るのみだ……」
 燐の胸をやるせなさが襲う。
「しかし、どうして彼の母親がもののけに……」
「…………」
 蘇芳は黙って視線を外に向け、燐は彼に答えるつもりがないことを悟った。
 簾の向こうでは雪が降り積もっていた。燐の乗ってきた牛車の轍も既に埋もれているかもしれない。雪の降り積もる音すら聞こえそうな、静かな夕闇。闇に侵されまいと一際鮮やかに映える夕焼けが、不吉なまでの輝きを放っていた。