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母の巻 第六章

  一

 その小さな命を手放したのは、まだ自らの腹部から出だして一月ほどしか経たぬ頃であった。手元で育てることなど到底叶わないと悟っていた蘭妃も、別れの前日は夜通し子供の顔を見つめていた。子供にはまだ名前がない。名をつければ情が移る。そして業も。蘭妃はただじっと見つめていた。虫の知らせか、ぐずる赤子を胸に抱いて揺すぶる。瞳の色は禍々しい禁忌の証と言われるが、こうしてみると紫水晶のように美しい。
「ごめんね……」
 蘭妃はつぶやいた。この夜を限り、彼女は都を離れる。遠い大和の吉野山。その地に力を封じられ、生きていくことになる。身の回りのものは、あの男が計らうと約束してくれた。また男は、時の陰陽博士、御門蘇芳に彼女の身の回りの世話をする式神を一体、用意させた。それは無条件に彼女のいう事を聞くわけではないが、大抵の用なら足してくれるだろう。
 蘭妃にはもう何も望みはない。――どうでもいい。
「必ず訪ねていく」
 男はそう言った。
「子供のことも必ず知らせる。いずれ時が来たら引き会わせることもできよう」
「……ええ」
 蘭妃は芒陽とした瞳で頷いた。
「どうした?」
 不思議そうな顔で見つめる男に、彼女は寂しい微笑を浮かべる。
「いえ、何も……」
 彼女自身にも分からない。この虚脱感。無力感。一族を人間の手によって滅ぼされたときよりもずっと胸が塞がっていた。――何故だろう。
「子供のことは任せてくれ」
 男は力の入らない蘭妃の腕から赤子を抱きとった。愛しげに眼を細めてあやす。
「悪いようにはしない。ちゃんと目を掛ける」
「彼は……」
 蘭妃は呟いた。
「生きていけるのですか」
「何?」
「この都で」
 自らの居室を見回す。縦横無尽に張り巡らされた結界。彼女を外界と隔離するための呪札。決して相容れようとしない、ひととあやかし。そんな世界で半妖の子供はどうやって生きていくというのだろう。髪は黒。肌にもあやかし特有の文様はない。それでも、瞳だけが……。
「綺麗な瞳だ」
 男はつぶやいた。赤子はきゃっきゃっと喜んで笑う。それを見つめる彼の表情は、切なげだった。
「しあわせにしてやりたい」
「…………」
 蘭妃の目から涙がこぼれた。身を引き裂かれるような痛み。彼女は愛していた。この男を。この男の子供を――彼女の子供を。
「……お待ちしております」
 蘭妃は塞がった声でかろうじて囁いた。
「なに?」
 聞き返す男に、
「あなたを。待っています」
「…………」
「いつかこの子に再び会える日を……」
 ――おとうさま、おかあさま、ごめんなさい。父母を殺した人間を愛し、子供までもうけた。決して許してはもらえないだろう。蘭妃は泣き伏した。――それでも……。
 驚いた赤ん坊が泣き声を上げる。男は慌ててそれをあやしながら、蘭妃の腕にそっと彼を預けた。彼女は何とか嗚咽を飲み込み、彼を優しく抱く。
「あなたに会うためなら」
 蘭妃は囁いた。
「何だってするわ。何にだってなる」
 そう――何にだって。
 
 
  二

 紫苑の胸元に女の手が伸びる。「桔梗」は目をぎゅっと閉じた。――間に合わない。紫苑は殺される……!
 
「母上」

 ――ぽつり、と。紫苑はつぶやいた。
 「桔梗」はおそるおそる眼を開ける。そこに広がっていた光景は、信じがたいものだった。
「蘭妃!」
 自分でも信じられないほどの大声を出して駆け寄る。蘭妃は片手を紫苑の肩に触れさせていた。もう片手は――自らの腹に。
「出てきなさい……」
 蘭妃の小さな、しかしはっきりとしたつぶやき。
「この子は……わたしの」 
 絶叫を上げながら、ずるずると引きずり出される異形の鳥。陰摩羅鬼(おんもらき)だ。鶴のような姿形、頭部は人の顔をしている。その口からは先の細かく分かれた舌が伸び、目はまるで炎のように揺れていた。
「あなたが、わたしの」
 蘭妃はおびただしい量の血を流しながら、まるでそれを感じさせない優しい表情で微笑んだ。
「わたしとあのひとの……こどもなのね」
 あの男が死んだのは、紫苑が生まれて八年後。それ以来彼女に運ばれる食物は途絶え、蘭妃は飢えた。結界に阻まれて外に出ることも叶わず、彼女はそのまま死を迎えた――その時。
「わたしの屍骸から、この鳥が生まれた」
 高い鳴き声。
「わたしの無念を……背負って」
 ――その陰摩羅鬼を体から引き離せばどうなるか。紫苑は気付いて慄然とする。
「は、母上」
「しおん」
 蘭妃は紫苑を見つめて微笑んだ。
「しおん、というのよね。たしか、彼はそう教えてくれたわ」
 約束通り、あの男は何度となく吉野の山まで来てくれた。そして、紫苑の様子をそれとなく教えてくれていた……。
「そうです」
 紫苑は震えながらも激しくうなずいた。
「私は、紫苑です」
「……気付くことができて、良かった」
 蘭妃は大きく息をつく。
「あなたをこの手で殺すところだった……。いえ」
 視線をちらりと「桔梗」に向けて、
「あの子に殺されるところだったのかしら?」
「陰摩羅鬼に理性を食い尽くされかけていたのか」
 「桔梗」の問いに蘭妃は苦笑する。
「本来の目的を忘れるところだったわ。せっかく結界を出ることができたのにね……」
 咳き込み、血を吐く。紫苑の胸元が赤く染まった。陰摩羅鬼は蘭妃の手の中でもがいている。徐々にその力は弱っていた。それにともなって、蘭妃の呼吸も荒くなる。
「しおん」
 蘭妃の手が紫苑の頬を撫でた。
「聞きたいことがあるの」
「……何です」
 蘭妃は穏やかに微笑んだ。狂気のない、澄んだ赤い瞳。
「あなたは、ひと? それとも、あやかし?」
「…………」
 紫苑は虚を衝かれたように黙り込んだ。
「あなたはどちら側で生きていくのかしら」
「…………」
 紫苑は眼を伏せて逡巡し、やがて母の顔をじっと見つめた。
「私はどちらでもない。どちらにもなれない」
「…………」
「けれど」
 紫苑は蘭妃の体をそっと包んだ。母の体は暖かく、か細かった。
「私は、いのちだ」
「…………」
「貴方から生まれた」
 紫苑の頬に涙が伝う。
「いのちだ」
 蘭妃は紫苑を抱きしめた。
「……ありがとう」
 陰摩羅鬼が炎に包まれた。蘭妃の体が徐々に崩れ始める。
「紫苑……」
 耳元で囁かれる優しい声――母の声。紫苑は全て聞き逃すまいと、歯を食いしばって全神経を集中させた。
「しあわせになりなさい」
 ――愛する者から離れては駄目。手放しては駄目。
「誰が許さなくても」
 母の体はさらさらと音を立て、灰に変わっていく。陰摩羅鬼が断末魔の悲鳴を上げた。だが、蘭妃の声はあくまで優しく――。
「必ず、守りなさい」
 ――愛する者を。あなた自身を。
 蘭妃の脳裏に、失った者たちが通り過ぎた。父母、兄弟、一族の者たち……そして、愛してしまったあの男――我が子。
 違う。蘭妃は眼を開けて紫苑の顔を見た。わたしから生まれたいのち。
「しおん――」
 一陣の風が吹きすぎた。思いのほか強いそれに目を閉じ、そして開けると――そこにはもう、何もない。灰のひとかけらすら、残されてはいなかった。
「はは……うえ……」
 紫苑はがくりと膝を折り、地面に座り込む。不思議と、涙は出なかった。

  三
  
 どれくらいの時が経っただろうか。ただ茫然と膝をついていた紫苑の耳に、声が届いた。
「すまなかった」
「…………」
 振り向くと、「桔梗」が力なく俯いていた。紫苑は不審そうに聞き返す。
「……何のことだ?」
「本当は、止めたかった」
 「桔梗」は顔を上げない。
「紫苑を止めたかった」
 ひとを喰らうもののけに成り下がった母親の姿など、見せたくなかった。母親の死など、見届けさせたくはなかった。
「それでお前は」
 紫苑は力なく苦笑する。
「私に帰れと言ったのか……」
 きっと蘇芳も同じことを思ったのだろう。あの男にも、彼を気遣うこころが少しはあるらしい。
「…………」
「『桔梗』」
 紫苑は立ち上がった。服についた砂を払い、胸元に残る血痕を見つめる。それが、母の遺した唯一のものだった。
「私は、ここに来て良かった」
「!!」
 「桔梗」が弾かれたように顔を上げた。紫苑はその目の前に歩みを進める。
「母上に会えて……良かった」
 彼は、微笑んでいた。
「母上は確かにもののけだった。私に――子供に会うこと、その妄執のために陰摩羅鬼を体内に生み出し、ひとを喰らった。それは事実だ。だが」
 「桔梗」はその細い手をそっと彼の頬に当てる。夜闇の中で、彼の表情は良く見えない。だが、確かに彼は泣いていた。微笑みながら、泣いていた。
「それでも……私は嬉しいのだ。母上に会えたことが、嬉しい」
 自分勝手だと思う。母の為に死した者たちには顔向けができない。――それでも……。
「愛されていたことが――嬉しいのだ」
 父親が誰なのか、未だに分からない。だが、それでも……自分が誰にも望まれぬ生であったのだとは思わない。
「私は、愛されたいのちだったのだ」
 ひとにもあやかしにもなれぬ歪な生命であっても、両親には愛されていた。祝福されていた。それで十分だ。
「紫苑……」
「だから」
 紫苑は「桔梗」をそっと抱きしめた。
「私は……」
 ――悲しくなどない。その言葉は涙で濡れている。「桔梗」はその背を優しく抱いた。そうしながらも目を閉じて、もうひとりの自分に意識を譲り渡す準備をする。
 ふたつの精神が体の中で行き過ぎるとき、「彼女」はもう一人の自分へと告げた――もうすぐだ、と。