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母の巻 第五章

  一
  
 赤く(そび)える羅城門。赤紫色の夕闇を背後に従えて、禍々しい妖気を放っている。紫苑はそれを見上げ、唾を飲み込んだ。と同時に、かすかな違和感が腹部からせり上がってくる。
「紫苑さま」
 焔が張り詰めた声で名を呼ぶ。紫苑はうなずいた。――闇の一部が蠕いている。それはおそらく、この強い妖気に惹かれた下級のもののけだろう。意志を持たず、ただ妖力に反応し、操られるだけの存在。
 紫苑は口中で術を唱えた。澱んでいた空気の中に凛とした紫苑の力が張り巡らされていく。焔が朱雀の姿へと変化(へんげ)した。
「…………!」
 紫苑が結びの言葉を唱えるのと同時に、どす黒い瘴気の塊が彼の元へと突進した。紫苑はいっそ緩慢にも見える動作で、右手の人差し指と中指を突き出す。唇が、静かに動いた。彼の指先ともののけたちを結ぶ一本の直線上に炎が湧き出る。それは物理的なものではなく、術による清浄の炎。それはもののけたちを飲み込み、彼らは悲鳴も残さず(あくた)と消えた。
「私の力量を測った……という訳か」
 紫苑はつぶやく。このような下級のもののけが羅城門に巣食っているとは聞いていない。それなのに、今こうして闇が集っている。まるで、紫苑の到着を待ち伏せていたかのように……。
「少しは手応えのある者が来たようね?」
 細く、透き通るように艶のある声。
 紫苑ははっと顔を上げた。羅城門の二階にあるひさしの上。闇の中に浮かび上がるようにして、その女は座っていた。紅蓮の髪。紅玉の瞳。白い肌。弧を描く赤い唇。身に纏う衣は古いものらしくところどころ解れてはいるが、驚くほど仕立ての良いものであった。都の中でも五本の指に入る豪商でしか取り扱わぬような高価な綾織に、金糸・銀糸の縫い取り。まるで皇女のようだった。
 紫苑の胸のうちに疑念が広がる。――この女は一体誰なのだろう……。
 女は彼の様子には無頓着に、くんくんと鼻を鳴らした。まるで獣のような所作だった。
「この匂い……」
 かすかなつぶやきが、風に乗って紫苑の元に届く。
「あの男のものと似ている」
 女は柳眉を顰めた。
「だけど、違う。もっと懐かしいものが混じっている……」
 冷たい風が吹き、女の髪を乱した。
「お前」
 鮮やかな紅唇が言葉を紡ぐ。
「何者だ?」
「…………」
 紫苑は黙って佇んでいた。
「お前の匂いは」
 女は薄く眼を眇める。
「ひとのものでもあり、あやかしのものでもある」
 女は冷静で、とてももののけと化したものとは思えない。しかし――次の瞬間、彼女の瞳にはゆらりと狂気が浮かんだ。
「そして、あの男の気配がする……」
「あの男とは誰のことだ」
「あの……おとこ」
 煉獄の色をした視線は、紫苑を焼き尽くそうとするかのように強い。
「私の一族を滅ぼし、私を捕らえ」
 炎の属性を持つあやかしで最近滅ぼされた一族といえば、鳳凰族が真っ先に浮かぶ。彼らは四天王の一であり、妖力も強大だ。彼女の持つ条件には見事に当てはまる。
 女はゆっくりと立ち上がった。擦り切れた衣の裾がはためき、白く細い脛があらわになる。
「私を閉じ込め、私に全てを与え」
 びりびりと空気を震わせる妖気に、朱雀は警戒の声を上げた。
「全てを、奪った!」
「?!」
 女が素早く跳躍し、紫苑はなすすべもなくその場に薙ぎ倒された。背中をしたたかうちつけ、息がつまった。乗り上げた女の膝が、彼の鳩尾を圧する。
「っは……」
 間近で見つめた女の瞳は、何故かひどく優しい。
「ここはひどく寂しいわ」
 甘やかな口調はまるで少女のようですらある。
「誰も来てくれないの。たまに誰かが通りかかっても、皆逃げてしまう」
「だから……焼き尽くすのか」
「そうよ。人間は嫌いだもの」
 女は透き通った表情で笑った。紫苑は静かに彼女を見上げる。
「それなのに寂しいとは、矛盾しているな。あやかしに来て欲しいのか」
「違う。だって……私は裏切り者だから」
 女は紫苑の肩に手を置いたままふうっと背中を逸らせた。瞳がどこか遠くを眺める。
「私はあの日からずっと……待ち続けるだけ」
「……あの日、とは」
「私が捕らえられた日よ」
「…………」
「力を封じられ、飼い殺しの身……。訪ねて来るのはあの男だけだった」
「…………」
「私は馬鹿だから」
 不意に紫苑は気付いた――女は泣いている。彼の胸倉を掴む手も細かく震えていた。
「ひとりになるのが嫌で、あの男を殺せなかった」
「…………」
「私の一族を滅ぼした仇なのに……」
 ――愛してしまった。
「待って待って、毎日毎日待って待って待って待って……」
 女の顔がゆっくりと紫苑に近付く。
「だけど――来なくなった」
「何故だ」
「死んだのよ」
 女はぽつりと言った。
「突然、死んでしまったの」
「貴女は」
 紫苑は女の頬にそっと指先を触れさせた。濡れている。
「今も待っているのか」
 ――もう決して訪れることのないその男を……。
「ずっとずっと、待っているのか――」
「…………」
 女は何度か瞬きを繰り返した。瞳の中に、徐々に狂気の色が甦ってくる。
「ふふ」
 にっと唇がつり上がった。
「うふふふふふ」
 不意に悪寒が走り、紫苑は女を押し退ける。彼女は軽々と飛びのき、紫苑は急いで体勢を立て直した。女の体からはゆらゆらと炎が立ち上っている。
「貴方のその匂い……気に入らないわ」
「!!」
 紫苑は慌てて飛びのいた。彼の居た場所を紅蓮の炎が焼き尽くす。
「私を殺せると思うのならやってみるがいい」
 女は嫣然と微笑んだ。
「我が名は鳳凰族最後の姫御子――蘭妃」
 紫苑は印を結ぶ。頭上の朱雀が旋回した。女は不思議そうにそれを見上げる。
「あの神鳥を手懐けるとは」
 女の笑みが深まる。
「面白い」
 女の片腕を炎がうねり、やがてそれは一匹の巨大な蛇となって鎌首をもたげた。同時に紫苑は印を完成させ、宝剣をすらりと抜き放つ。
 矢のように走る炎の蛇と、翼を広げて迎え撃つ朱雀、それがぶつかる寸前。

「――そこまでだ」

 水の壁が大地から噴き出した。
 女と紫苑は慌てて飛び下がり、朱雀は上空へ舞い上がる。蛇はそのまま水中に消えた。ふたりはゆっくりと視線を声の方角に向け、
「――『桔梗』」
 紫苑は茫然と呟いた。

  二
  
「水龍族? 鳳凰族と同時期に滅ぼされたはずではなかったの」
 蘭妃が眉を顰める。
 「桔梗」は一歩一歩と歩みを進め、紫苑を背中で庇うようにして立つ。
「私は特別な御子だからな。ずっと、時を止めていたのだ」
「特別な?」
 蘭妃は嘲笑した。
「御子というなら私も御子よ。どうして貴方だけが特別なの」
「お前の役割は既に終わった」
 「桔梗」はつぶやく。
「特別な、役割だった」
「……どういうことだ、『桔梗』」
「紫苑」
 「桔梗」は振り向くことなく言う。視線は蘭妃に固定されていた。
「この場は私に任せて欲しい」
「何?」
「何も聞くな。蘇芳の言葉を守るのだと思えばいい」
「頭ごなしに命令されるのは嫌いだ。それが蘇芳であっても、たとえお前であってもな」
 紫苑はぶっきらぼうに答える。「桔梗」は少し困ったようだった。
「そう言わず、ここは退いてくれないか……」
「理由を言え。納得したら私は帰る」
「できれば、言いたくは……」
「そこをどいて!」
 蘭妃は「桔梗」を睨みつける。
「私、その男が気に食わないの」
「何故?」
「だって、あの男と似た匂いがするんだもの」
「あの男とは誰だ?」
「…………」
 蘭妃は子供じみた表情で唇を噛んだ。
「子供の父親、か」
「…………!!」
 蘭妃がばっと顔を上げた。
「何を言うの?!」
「お前の思念が強過ぎたので」
 「桔梗」は淡々と告げる。
「記憶が視えた」
「ちょっと待て」
 紫苑はふと声を上げた。
「貴女の言うあの男というのは……人間なのだろう」
「…………」
「子供?」
 声が震えるのを自覚する。「桔梗」ははっと息を呑んだ。
「まさか……」
 蘇芳が紫苑を止めた理由。もののけと紫苑の気配が似ていた理由。紫苑にあの男とやらの匂いがした理由。そして女が懐かしいと言った理由――全ての欠片が、一つに組み合わさる。
「貴女が」
 紫苑は愕然と蘭妃を見つめた。狂気をまとう美しいもののけは何も理解していないのか、ただただ紫苑を睨みつけている。
「貴女が私の母親なのか……?」
「紫苑!」
 「桔梗」が声を上げた。
 蘭妃は一瞬の隙に「桔梗」の頭上を飛び越え、紫苑の目前に迫る。
「貴女が、私の」
 目の前に広がる紅い、紅い……。
「紫苑!!」
 鈍い衝撃が、彼の全身を襲った。