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母の巻 第二章

  一

 その日、宗方(むなかた)平一はおそるおそる羅城門を通過していた。付近にもののけが出るとは聞いていたものの、日の沈む前であれば大丈夫であろうと考えたのである。彼は都で商店を営んでおり、今回は店子のひとりを連れて棚卸の為の買い付けに行った、その帰りであった。
 宗方が馬に乗って城門をくぐり抜けようとした、そのとき。
「ねえ、何処に行くの?」
 澄んだ女の声が彼を呼び止めた。
 羅城門に出るもののけは、美しいおなごの姿をしているらしい――以前聞いた噂が脳裏に蘇り、宗方は背筋を冷たいものが駆け下りるのを感じた。
「聞こえないの? 聞こえているんでしょう?」
 真っ直ぐ前を凝視しながら、宗方は馬を駆けさせた。少し遅れた店子が必死に追ってくる。
「ふふ……ふふふ……」
 不意に耳元で笑い声がしたような気がして、宗方の体からどっと汗が噴き出した。

 ――どうして、逃げるの?

 この世のものとも思えぬ悲鳴が辺りに轟く。宗方は半ば目を瞑ったまま、都を目指して疾走した。店子の馬が主を失い、ふらふらと辺りを彷徨っているのを片目で捉えながら……。
 
 
  二

 宗方平一が命からがらもののけから逃げてきたという噂は、あっという間に広がった。彼自身はそれ以来伏せってしまっている。店子は馬から落ちた形のまま炭になって発見された。見つけたものがそっと手を触れようとするとそれはばらばらと灰になり、どこへともなく風に飛ばされていってしまったという。
 それから十日ほど経った頃、都を更なる衝撃が襲った。先の陰陽博士、御門蘇芳が羅城門で大怪我を負ったというのだ。詳細は定かにされなかったが、噂だけはすぐに広まる。どうやら羅城門のもののけに返り討ちにされたらしいということが伝わってきて、都びとは恐れおののいた。
 ――こうなればあの御方しかいない、と紫苑の名が口に上るのも当然のことであろう。帝や摂政からも直々に調伏を依頼され、紫苑はそれを引き受けたのだが……。
「それにしても、よくわからん」
 宮中から戻ってきた紫苑は、燐を自室に呼んだ。酒を酌み交わしつつ、紫苑は首を捻る。
「何故蘇芳がわざわざ羅城門に行ったのだ? 理由がない」
 彼は既に引退して長い。弟子はとっているが、積極的にもののけの調伏に赴くことなどもう数年来なかったことだ。
「そうだね」
 燐は行儀悪く文机に肘をついた。
「確かに不自然だ」
「一応あれでも義父だからな。見舞いに行こうとしたのだが断られた」
「そう」
 燐は苦笑した。蘇芳は妙に気位の高い所があるから、自分の不恰好な姿など見せたくなかったのだろう。
「そのもののけって、すごく強いのかな?」
「そうだろうな。蘇芳も並の術者ではない」
「厄介だね」
「ああ……」
 紫苑は軽く眼を閉じた。
「このもののけは火の属性を持つものだと考えられる。宗方の店子は炭になっていたしな」
「うん」
「私もまた、火。もしもののけがあやかしから変化(へんげ)したものだとすれば、純粋な力比べになる。そうすると危ういな」
「何故?」
「所詮私は半妖。あやかしの妖力とは比べものにならないからだ」
 紫苑は淡々と言った。
「確かに私は陰陽道を使って妖力を増幅することができる。だが、たとえば四天王のような強力な種族には太刀打ちできないだろう」
「やってもみないのに」
「やりたくはないさ」
 紫苑は顔の角度を微妙に変え、鼻筋が頬に濃い陰影を落とした。
「身近にその、最強のあやかしがいるのだからな」
「…………」
 燐は口をつぐんだ。つい、忘れそうになる。桔梗があやかしだということ。水龍族だということ。――もうひとつの人格のこと。
「ん?」
 紫苑が不意に怪訝な表情をし、燐も遅れて顔を上げた。巻き上げられていた御簾をくぐり抜け、一羽の白い鳥が部屋の中に飛び込んでくる。嘴には何か紙をくわえていた。
「何、それ?」
「見覚えがある。蘇芳の式神だ」
 紫苑の差し出した手に止まって、あいた方の手に封書を受け渡すと鳥は再び飛び去った。
「手紙だね」
 燐は中身を覗き見ないように注意しながら、紫苑の表情を軽く観察する。封を開けて中を見た紫苑は、眉をきつく寄せた。
「何だこれは? どういう意味だ?」
「……何て書いてあるの?」
「見てもいいぞ」
 紫苑は軽く燐に紙を放った。燐は拾い上げて眼を通す。書いてあったのはたったひとこと――「羅城門のもののけには関わるな」。
「関わるなって……?」
「放っておけとでもいうのか?」
「強いからやめておけってことかなあ」
「やめてどうにかなるものでもないだろう」
 紫苑は燐の手から紙を取り上げ、文面をまじまじと見つめた。しかし、そうしていても蘇芳の真意が浮かび上がってくるわけもない。
「今回蘇芳がこんな行動をした理由も気になるが、帝の依頼を無下にする訳にはいかない」
 帝には燐の復官について色々と後押ししてもらった恩もあるのだが、勿論燐の前で口にはしなかった。
「でも」
 燐は真面目な顔で紫苑を見つめた。
「紫苑が危険な目に遭うかもしれないよ?」
「仕方あるまい。私の仕事だ」
「桔梗ちゃんは? 彼女はどうするの」
「…………」
 しばらく黙り込んだ後、紫苑は静かに呟いた。
「……桔梗は、桔梗だ。彼女の道がある」
「それ、どういう意味?」
 燐が軽く気色ばむ。
「自分とは関係ないって言いたいの?」
「違う」
 紫苑の口調はあくまで穏やかだった。
「桔梗を私の人生に巻き込みたくはないのだ」
 半妖として生まれ、奇妙な運命を辿るに違いない自分に巻き込まれてはいけない。
「……でも」
 燐の言葉から刺々しさが消え、代わりに躊躇うような響きが加わった。
「君はもう巻き込まれてるよね。桔梗ちゃんのことに」
「それは、覚悟の上だったからな」
 紫苑はかすかに微笑んだ。
「私は彼女を拾い、保護しようと決めた。だから私は、私の力が及ぶ限りそれを実行する。だが彼女が私の元を離れるのは自由だ。私が彼女を縛る道理などない」
「紫苑……」
 ――寂しくないの? その言葉が燐の唇をついて出そうになり、慌てて彼は口を閉じた。聞くまでもない。紫苑の微笑は寂しげな優しさを湛えているのだから。
 冬の夜の冷えた空気を、たどたどしい、しかし柔らかな琴の音が渡る。
「誰の音だ?」
 尋ねた紫苑に、燐は答えた。
「桔梗ちゃんだよ。最近猛練習してるんだ」
「ほう」
 紫苑は眼を細める。
「紫苑と音を合わせたいんだって」
「……そうか」
 紫苑の指が懐に潜り、一本の笛を取り出した。燭に照らされてつやつやと輝く表面をそっと指先で撫で、紫苑は吹き口にその薄い唇を近づける。
 まだ決して上手くはない琴を導く笛。琴もまたそれに応え、徐々に絡み合っていく。親が子供を見守るような、兄が妹の手を引いているような、それでいて恋人同士が睦んでいるような――そんな響きに心を奪われながら、燐は静かに眼を閉じた。

  三
  
「紫苑の音だったよね」
 弾き終えた桔梗は、声を弾ませて振り返った。側に控える小雪は頷き、微笑む。
「ちゃんと合わせられていましたよ」
「紫苑が上手いから」
 桔梗の頬は紅潮している。
「私ももっと練習しなくちゃ」
「…………」
 小雪は眼を細めて桔梗を見守る。――春が来れば、自分の式神としての務めも一端終わる。来年の冬もまた、この少女に出会えるだろうか。どんな風に成長しているのだろう。紫苑との仲も少しは進んでいるだろうか。
「小雪さん?」
 主人の仏頂面を思い出してくすくすと笑う小雪に、桔梗は不思議そうな顔をする。
 折しも帳が引き上げられ、燐が半身を覗かせた。
「随分上達したんじゃない?」
「そ、そんなことないです」
「そう? 紫苑も褒めていたよ?」
「本当ですか?!」
 これ以上ないというくらいの勢いで、桔梗が身を乗り出す。燐は笑って頷いた。
「僕らの話は終わったし、直接聞いてみたら?」
「はい!」
 勢い良く立ち上がったものの、琴を片付けようと手を伸ばす。それを小雪がやんわりと止めた。
「片付けは私が致しますわ」
「でも」
「構いませんよ。上達したご褒美です」
「…………」
 燐と小雪の顔を見比べる。ふたりが良く似た表情で微笑んでいることに少し疑問を感じながら、それでも暖かい表情に嫌な感じはしない。
 結局桔梗はその場を小雪に任せ、紫苑の自室に向かった。
 
 
  四
  
 ――それから一刻ほど後。紫苑がふと気付くと、桔梗は床の上で眠ってしまっていた。苦笑して、寝具をかけてやる。
「先ほどまで、あんなにはしゃいでいたのにな」
 家にある楽譜を見ながら色々と逸話などを話していたのだが……話が途切れた少しの間に、睡魔に引きずられてしまったらしい。
 ――まるで子供だ。薄桃色に染まった頬を人差し指でつついてみるととても柔らかく、きめ細かな肌はすべすべとして、まるで瑞々しい果物のようだ。
 分かっているさ、と紫苑は口に出さずにつぶやいた。桔梗の生は桔梗のもの。それでも自分はこんなに関わってしまった。本当は、関わる権利などなかったかもしれないのに。
「なあ……」
 無邪気な寝顔に向かい、小さく囁く。
「いつか、お前もいなくなってしまうのだろうか」
 父も母もいなかった。友人も燐を除けば他には誰もいない。彼を愛する女性(ひと)などいない。最初からいなかった――最初から。
 だから、寂しくなどなかった。
「う……」
 紫苑の呼気が顔に当たってくすぐったかったのか、桔梗は小さくうめいて体をうごめかせた。その仕草が妙に艶っぽくて、紫苑は当惑する。
 いつか、いなくなってしまうのに……知ってしまえば失うときに寂しくなるのに……。
 桔梗の薄水色の瞳がぼんやりと開き、うっすらと涙を溜めたまま微笑んだ。揺らめく燭の光の中、それはきらきらと水晶のように煌いている。紅も差さないのに赤くつやめく唇が、ゆっくりと囁いた。
「……しおん」
 それは愛しいものに呼びかける声音。重たげに持ち上げられた腕が紫苑の首に回り、抱き寄せる。紫苑は抗うことなく身を任せた。
 重ねられた唇。一度目は「桔梗」――では、二度目は。
 動悸が耳の中でうるさいくらいに鳴り響く。それは常よりもずっと早く、大きくて、紫苑の頭をくらくらとさせた。
「桔梗」
 掠れた声を耳にしたのかどうだろうか、桔梗は心地良さそうに微笑んだ。紫苑の胸がぎゅっと、まるで握りしめられたかのように苦しくなる。
「明日の夜……羅城門に行ってくる」
 目を閉じ、再び夢の中に戻った桔梗に、そう囁いた。
「きっと、無事に帰るから」
 ――今はまだ、お前は私を必要としているはずだから……。
 紫苑は腕の中の温もりを抱きしめる。それはまるで、孵化する卵を温める親鳥のようだった。